第3話 スモール・ボックス、ビッグ・イシュー

「雑誌を売る以外のことはしないし、できないのです。トラブルは必要ないのです」

 男は胸ポケットにIDの入ったベストと同じ色の真っ赤なキャップを目深に被り直し、箱を片手に近寄ってきた老人を避けようと歩みを小走り程度まで早めた。

 それでも老人は易々と男との距離を詰めている。

「五百なら? ピーター」

 老人は男の前に回り込んで、IDに書いている名前を言いながら片手に乗る小箱をピーターの胸に突き当てた。

「か、お金の問題じゃないんですよ! お金なんてなくても。あんなものの有る無しは私にとっては些細な問題スモール・イシューなのですから」

 声の大きくなったピーターに、周囲の注目が集まる。その中で、ピーターと同じベストを着た人間がいた。

「ああ、面倒臭い奴のテリトリーに入っちまった」

 ピーターが「面倒臭い奴」と小声で吐いた男が肩を揺らし近づいてくるのを見て、舌打ちをしている。

「七百」

 老人はそんなことはお構いなしに、交渉を続ける。

「わかりましたよ。わかりましたから、向こうに行きましょう」

 ピーターと老人は、そうやって路地裏へと消えていった。


 アマラはヴォクソールタワーの内見に行った二週間後に入居の手続きが完了し、即日大叔父が死んだ部屋に形式上住むことになった。手続きも通常よりも簡略化され、推薦状リファランスの提出も求められず、費用も手付金を含めた初月の家賃をダブルで支払っただけだ。

 ただ、相場の五分の一以下とはいえ、二千ポンドをすぐに払えるような暮らしをアマラはしていない。ましてや毎月千ポンドを払う余裕などない。

「捜査費用で暮らせるなら、このまま事件が解決しない方がいい。なんて考えているんだろう?」

 ジェイもまた成り行きのまま兄妹としてヴォクソールタワーに住み、「ウイスキーマン」と名乗る人物の手掛かりを探りながら、アマラと共に室内の捜索をしている。

「ジェイだけでしょ、そんなこと考えてんの」

 アマラは非破壊検査用の機器をマニュアル片手に扱い、壁の中に不審なものがないか調べている。その手を止めて相手にするほどでもないジェイの軽口に溜め息も出ない。

「俺だって事件は解決したいさ」

「ふう。この部屋にはもう何もないのかも。床も天井も何もない」

「見るからに怪しい物は、だろ? 配線なんかに紛れてちゃ、直接手に持たないと分からんさ。ウイスキーマンだって、その辺のホームレスにでも紛れているかもな」

 ジェイが視線を落とした先。路上でのテントの使用を制限する法案が議会に提出され、それに抗議するホームレスと支援団体によるデモ行進が目に入っていた。

「なあ、ウイスキーマン」

 ジェイがテムズ川の向こうに見えるビッグ・ベンに視線を向けて言うと、その声に返答するようにウェストミンスターの鐘が鳴った。

「そろそろ本部に行く時間ね。収穫なしで行くのは心苦しいけど」

 床に両膝をついた体勢で大きく息を吐いたアマラの肩に、ジェイが手を置いた。

「収穫がないのも収穫ってね」

 そう言ったジェイの手を掴んだアマラを、ジェイがそのまま引き上げるようにして立ち上がるのを手伝った。

「ジェイの能天気さが羨ましい」

 長い時間体重を預けていて痛みが残る膝に、アマラは顔をしかめた。

「能天気じゃないさ。楽天主義オプティミストなだけだよ」

 ジーンズの膝に着いた埃を落としながら膝を軽く叩くと、アマラが感じていた痛みも和らいでいく。

「何がどう違うのだか」

 部屋を出てエレベーターに向かって先を歩くアマラは、そう言いながらも笑顔を浮かべていた。


「ベネットさん、でございますよね?」

 セント・ジョージ・ワーフの敷地からアマラとジェイが出ると、みすぼらしい格好をした男が胸元に小箱を抱えて立っていた。

 それは老人から箱を受け取ったピーターだったが、雑誌販売員の証である赤いベストは着ていない。

 そのピーターがアマラだけではなく、明らかに二人に向かって呼びかけていた。

「あなたは?」

 アマラの前に出たジェイが、肯定も否定もせずにそう聞き返した。

「これをあなたたちに渡すように頼まれたのです」

 姿と口調がミスマッチなその男を、アマラとジェイは用心深く観察した。

 二人が確信を持って感じたのは「危険な人物ではない」ということ。

 ピーターは二人の反応を待つ間、横断歩道に書いてある “LOOK LEFT” という白い文字の上で細かく足踏みをしていた。居心地の悪さを感じていることが滲み出ている。

「誰かに頼まれたんだね?」

 刑事でなくともそう簡単に推測できる状況だったが、言い当てられたピーターは少し目を見開いた。それと同時に、緊張がとれたようだ。

「頼まれた」ということを言い当てられて、話の糸口を掴んだのだろう。

「そうです。この箱を渡してくれと。ただ、開けるのは職場に着いてから。そう言われました」

 今度はアマラたちに緊張が走る番だった。「職場に着いてから」ということは、まず間違いなく二人がNCAの捜査官と知る人物からの依頼であり、箱が極めて危険な物である可能性も高くなった。

「それから、私のことは追わないで下さい。それがお二人のためです、と必ず伝えるようにと。これは特に念入りに言われました。では、私はこれで」

 ピーターを拘束するつもりでいたジェイは、その言葉を聞いて固まった。アマラはできるだけ上体を動かさず、目を忙しく動かして周囲を伺った。

「向かいの建設中のビル?」

 アマラの問いにジェイは「わからない」と首を振った。

「狙撃されるかもしれないってのは、一番嫌な状況だね」

 ジェイも周囲に注意を払うが、通勤時間で人が多く、正に森の中の木だ。

 二人がそうしている間に、二人の前から完全に姿を消したピーターだったが、二人が受け取った箱が爆発物などではないと判明して二十四時間後、テムズ川に浮かぶ巡洋艦ベルファストの右舷側に建造されているやぐらに引っかかって浮かんでいるのが発見された。両耳を失った状態で。


「ペーター・キューパー通称ピーター。ドイツ系、旧東ドイツ出身って書いてあるけど、事件と出身は関係なさそうね」

 検視を終えたばかりの遺体検案室で、ウイスキーマン事件担当指揮官のジョージ・ギルモアと、アマラ、ジェイを背中に、検視官マキシがゴム手袋をゴミ箱に放り入れ、代わりに手にしたバインダーを見ながら言った。

 検視台の上には腹部の縫合も終えたピーターと、その横に一対の耳が入った小箱が置いてある。

「で、これは何? この被害者の耳じゃないのは調べる程でもないってジェイムズが言ってたけど」

 箱を手に取り、角度、高さを変えながらその中の物を観察しながらマキシがその箱に、いや、中の耳に向かって言っている。

「この死体ボディか、箱を持たせた奴がマジシャンじゃなけりゃな」

 自分の両耳を触りながら吐いたジェイの言葉をアマラが補足する。

「この箱は無傷のピーターから渡されたもの。『開けるのは職場に着いてから』って指示付きでね」

 マキシが後ろで束ねた黒髪を揺らしながら、ジェイとアマラを交互に見ている。

「それって本当にマジシャンのセリフみたいじゃない? ちょっと念の為に」

 マキシがボックスから取り出した新しい手袋を装着し、箱の中の耳を取り出した。そして「へえ」と小さく声に出した。その目は取り出すまでは見えなかった耳の切り口に向けられていた。

「これ、シール法で処理されてるね。断言はできないけど、切り落としたあとに。明らかに医学の知識と設備が必要よ」

「シール法?」

 ギルモアが一歩前に出てマキシの手にある耳の切り口を注視した。シール法が何か分からないギルモアであっても、切り口の組織が崩壊していないのは一見して明らかだった。

「二十世紀の終わり頃に主流になりだした解剖体固定法で、ホルマリンにプロピレングリコールなんかの食品添加物を加え」

「おいおい、それは英語か? 要点を」

「もう、ジョージが『シール法?』って訊くから。要点はね、さっき言った通り。あと、マジシャンじゃないみたいね。この被害者より大きな耳の持ち主だったみたい。それから、年齢も被害者より上」

 アマラはマキシの言葉を聞きながら、箱を開ける場所を指定した理由と、ピーターがただ殺されただけでなく、両耳を切り落とされた理由、さらに「ベネットさん」と二人に向けて呼びかけていた理由を考えていた。

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