第2話 リビング・イン・ザ・クラウド

「アマラ!」

 まだ寒さ厳しい三月上旬の夜明け直前。テムズ川中流域、チェルシーの住宅に甲高い声が響いている。

 あえて音を立てながら階下から上ってくる声はボリュームを増す。

「アマラ! アマラ・メアリー・バーネット!」

 ドアを開けた女性は、動かぬベッドの中央にある隆起物を見て、腰に巻いていたエプロンを取りながら声を落ち着かせて隆起物に語りかけた。

「ディテクティブ、バーネット。A3205通りで事件発生。直ちに」

 アマラはブランケットを蹴飛ばしベッドの上に立ち上がると、数回目を瞬かせて息を大仰に吐いた。

「ママ、その起こし方は辞めてよ」

 娘を起こしに来たアマラの母は、アマラ以上に大きな嘆息を落とした。

「十回よ。あなたのベッドルームに入るまでに名前を呼んだ回数。ほら、珍しく今日は良い天気。ヴォクソールタワーも綺麗に見えてる。『明日は休みだけど叩き起こして』って言ったのはあなたでしょう?」

 カーテンを開けると、白み始めたロンドンの街並みが窓に広がった。

 普段は灰色の空が、たっぷりと霧吹きで濡らした水彩画の画用紙の天地を逆さまにしたように、日中には地上を走るロンドンバスの赤を滲ませている。

 アマラはハングオーバー気味の頭を振って、昨晩の記憶を辿った。

 伝説でしかなかった「ウイスキーマン」を自分が見つけるかもしれない。捜査官なら胸に炎を燃やさずにいられない状況だろう。

 あのフィルムを見た四日後、そんな中で翌日に休暇を控えて仲間と共に訪れたバルでは、誰もが普段愛飲しているサケではなく、スコッチをグラスに満たしていた。

 口の仕事がアルコールと食事を摂取するより、言葉を発する時間に多く費やされるようになり始めた時に鳴った指揮官からの電話。その電話の指示で、休日であるはずの今日、急遽あのフィルムが発見された現場に向かうことになった。

「言った。確かに」

 アマラの母は、カーテンを開けたついでに、アマラが蹴飛ばしたブランケットを畳み始めた。「あなたはヴォクソールの雲の中で暮らしてる?」と、ヴォクソールタワーの歌を歌いながら。

 その歌を聴いて、アマラも「それともA3205通りにいるの?」と続きを一緒に歌った。

「もしかして私、行き先も話した?」

「やだ、覚えてないのね。ヴォクソールタワーに千ポンドの部屋があるって言うから、何度も確認したじゃない。pw毎週じゃないの? 本当にpcm毎月なの? って」

「やだな、あるわけないじゃない。そんな部屋。多分他の件と混同しちゃってたのね」

 アマラはそう言って誤魔化したが、それが通じる母ではないようだ。だが、娘の仕事の性質を理解している母は、それ以上深く訊かなかった。

 アマラもそれを察した上で、口を噤んでくれた母に礼を言うのは心の中だけに留めた。それと同時に、家族に対してとはいえ、アルコール如きに負けてしまいそうだった自分を恥じるのだった。


「ディテクティブ。昨日は眠れたかい?」

 アマラが玄関を出ると、青いスバルの助手席側のルーフに肩肘を置き、紙巻きタバコを吸っていた男が、アマラとは対照的にすっきりとした顔で訊いた。

「まあまあ、よ」

 車と同様、やはり青い「STI」というロゴが入ったMA−1のポケットから携帯灰皿を取り出して、男はタバコを消した。

「見た目に無頓着な美人は嫌いじゃないが、髪がボサボサだ。これでもどうぞ」

 玄関前の階段を慎重に降りてきたアマラを待って、男はニット帽を手渡した。ハイティーンの真面目な学生が好みそうな真っ白い帽子を、アマラはしばらく眺めて鼻を近づけ息を吸った。

「ま、誰のかは訊かないでおく」

 そう言いながらアマラは無表情で跳ねた髪の毛をニット帽の中に押し込めるように被った。そして、男に促されるまま慣れた様子で助手席に座る。

「ジェイ、私、昨日だいぶ酔ってた?」

「ディテクティブ、君が? 酔う?」

「ジェイ」とアマラから親しげに呼ばれる男は、堪えきれないといった風に、口に当てた拳の横から笑い声を漏らした。

「いつもと変わらなかったよ。怖いくらいに。油断すると殺されそうな目をしていたさ。ずっとね」

 アマラはジェイの言葉を聞きながら左手をニット帽のゴム編み部分にあてて、額を揉んでいた。自分から望んでそうなったわけではない。そういうアマラの想いは声となって外に出ることはない。

「ジェイは正直、昨日のヴォクソールタワーの話、信じられる?」

 ジェイは答える前に愛車、S204のイグニッションキーを回した。力強さの割に静かなサウンドがシートを伝い腰を心地よく刺激する。

「どうだろうね。二〇一三年のヘリコプター衝突事故の犠牲者がゴーストになって出るって噂は聞いたことあるけど。でも、その千ポンドの部屋に最後に住んでいたのがディテクティブの大叔父ってのは本当に知らなかったのかい?」

「知ってたら自慢する。家賃五千ポンド以上(約百万円)が相場だよ?」

「だろうね。毎週末パーティをしたいくらいだ。いや、毎日でもいい」

「あなたはそうでしょうね」

 まだ車通りの少ない早朝。ジェイの運転するスバルはチェルシーブリッジを渡り、東進する。正面に見える円筒形の高層アパート。なぜそこにあのフィルムがあったのか。なぜそこに自分の大叔父が一人で住んでいたのか。なぜ相場の五分の一の家賃だったのか。

 詳しい話を聞かされないままで向かう部屋に何が待っているのか。いつもと変わらぬ明るさのジェイの横で、アマラは視界の上に落ちる白いニット帽の黒い影を睨んでいた。


「アマラ・メアリー・バーネット様ですね」

 太陽が昇って三十分。まだ午前七時を過ぎたばかりだが、コンセルジュが笑顔でアマラを迎えた。同時に視線で隣の男が何者か尋ねている。

「ええ。こちらはジェイムズ。兄です」

「どうも、ジェイムズ・バーネットです。運転手兼ボディガードで来ました」

 アマラの咄嗟の嘘に合わせたジェイだったが、余計なジョークはアマラにもコンセルジュにも無視されたようだ。

「では、お部屋へご案内させて頂きます」

 アマラが昨日電話で聞いた内容はシンプルだった。

 身寄りの無い老人の孤独死。その特殊清掃を終えたのが二ヶ月前。清掃会社からフィルムが警察に提出されたのは清掃が済んだ一ヶ月後。他にも業務を抱える清掃会社に提出の遅さを責めることはできない。捨てられなかっただけ幸運だ。

 だが、老人の死亡自体に全く事件性なく、一般に公開されていないとはいえ既に次の入居者を迎え入れる準備が整っている部屋に、裁判所から捜索令状は発行されなかった。

 そこにアマラ本人さえ知らない事実を捜査本部が突き止めた。

 証拠品のフィルムを部屋に持っていた老人は、フィルムに映っていたバーネット刑事の従兄弟であり、アマラの大叔父だった。

「こちらのお部屋です」

 地上三十七階。地上約一五〇メートルからの眺めはジェイでなくとも思わず口笛を鳴らしてしまうほど見事だ。円筒形の作りのため、各部屋が扇形をしている。

「ベッドルームとバスルームは二つずつ。こちらのキッチンとレセプションルームには、窓際に温室も備えられています。ご存知でしょうが、共用フロアにはプールと映画館もございます」

 アマラは説明を受けながらも、フィルムが発見されたという備え付けのブックシェルフと天井との間にある僅かな隙間を見つめていた。コンセルジュの説明にも相槌はうつが、心ここに在らずだ。

 一通り設備の説明を聞いた後、アマラは話を前入居者、大叔父についてのことに変えた。

「大叔父は、亡くなる前に亡霊に怯えていたというのは本当なのでしょうか?」

 アマラはコンセルジュに真っ直ぐな視線を向けて訊いた。尋問のような厳しさを纏わせないよう、慎重に、不幸な身内を装って。

「ご遺族の方に対しては非常に申し上げにくいことですが」

「正直に思ったままを教えてください。大叔父とは疎遠でしたし、あなたの言葉で不愉快になることはありませんから。ただ、今回のように特別なオファーを頂くからには真実を知っておきたいので」

 コンセルジュはそれに頷いた。

「どのようなオファーか、詳しくは私も伺ってはおりませんが、私の見たことは正直にお伝えします」

 コンセルジュもこのアパートを管理する会社に雇われているだけだ。入居者すべての細かい事情を知っているわけではない。契約内容についても同じだ。

「ミスター・バーネットの姿を見なくなる二週間ほど前からです。彼の様子がおかしくなったのは」

「二週間。具体的な日付はわかりますか?」

 コンセルジュは一瞬言い淀んだが、アマラの目を見てはっきりと日付を伝えた。

「一月十六日」

 その日付を聞いて、ジェイがアマラの背中を肘で突いた。その日付が何か、なぜコンセルジュが澱みなく覚えているのか、その理由は明白だった。

「十一年前のヘリコプター衝突事故があった日付ですね」

 アマラの背中越しに言ったジェイに、コンセルジュが頷いた。

「様子がおかしくなったというのは、どういう風に?」

 アマラの質問にコンセルジュは言葉を選ぶ様子もなく答えた。

「ウイスキーマンが帰ってこない。見かけたら知らせてくれ。そう私を見る度に仰っていました」

「ウイスキーマン? 大叔父は誰かと同居を?」

 アマラは動揺を抑えて訊いたが、コンセルジュは否定した。

「お一人でしたし、尋ねておいでになる方もいらっしゃいませんでした。同僚にも確認しましたが、ウイスキーマンだとか、そのような人物も、客の一人も見た者はいません」

 アマラは嘆息を隠さずに吐いた。それも見てもコンセルジュは言葉を続けた。

「ウイスキーマンって、あのウイスキーマンでしょう? そんなことを言い出すだけでも気味が悪いのに、ミスター・バーネットは、ウエストミンスターの鐘、特に朝八時の鐘に怯えていたんです。あのヘリコプター衝突事故の時に鳴っていた鐘を」

 その言葉を待っていたかのように、八時の鐘がロンドンの街を震わせた。

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