第六章
第48話
不意に目を覚ました歩は、寝ぼけ眼で辺りを窺う。カーテンの隙間から射し込む光はあまりに弱々しく、隣の寝床では静恵が小さな寝息を立てていた。
歩は静恵を起こさないように静かに立ち上がり、部屋を後にした。そっと上着を羽織り、少し喉が乾いていたので足音を立てずに台所を目指す。
台所へたどり着く直前、ふと玄関の光景が視界に映った。かすかな違和感に、歩は玄関の方へと首を巡らせる。違和感の正体はすぐに見付かった。並んでいるはずの靴が、足りなかったからだ。
歩はすぐに思い至り、台所へは行かずに玄関で靴を履いた。戸を開け放つと、凛とした冷たい空気が一瞬で身を包む。明け方の寒さに、歩は一瞬体を震えさせる。
足りなかった靴は、咲月のものだった。おそらく、一人で再び姉の墓参りに向かったのだろう。歩は彼の後を追うべく、昔歩き慣れた道を迷うことなく歩き出した。
石段を登りきり、突然視界が開かれた。広場のような場所には等間隔に無数の墓石が広がり、綺麗に削られた大理石の数々は淡い陽光をかすかに反射させていた。冷たいが穏やかな風が、外周に聳える木々の枝葉を優しく揺らしている。静謐で、厳かな空間が、そこには広がっていた。
石段を上りきった歩の先に、咲月は居た。かなり距離があったので、下を向いて歩いている彼は気付いていない。歩はゆっくりと歩き出して、彼の元に向かった。
「咲月。来てたんだね」
歩の言葉に、咲月は顔を上げた。一瞬ここに歩が居ることで驚いた表情を浮かべたが、すぐにそれを引っ込めた。歩が首を傾げると、彼は真剣な眼差しを返してくる。瞬間、鼓動が速くなり、歩は息を呑む。
空気で伝播する、かすかな緊張。
あぁ・・・。
そっか・・・。
もう、
決めたんだ。
「歩、話したいことがあるんだ」
真摯な眼差し。固い声が、鼓膜を震わす。
「・・・聞きたくないって、言ったら。どうする?」
終わらせたく、ない。
格好悪い、最後の抵抗。
・・・ダサいな。私。
「・・・歩」
申し訳なさそうに窺う咲月に、歩は落とすように微笑んだ。
いつか来ることは、分かっていた。
それでも、まだ来ないで、と、
すがって、取り繕って。
どうにか、誤魔化してきた。
傷付いた彼の、ためじゃなく、
そばに居たかった、私のエゴで。
「・・・今まで、ありがとう。甘えて、・・・ごめん」
言葉一つ一つが、風に遮られることなく、重く響く。
「・・・でも、もう。歩を、縛り付けたくないんだ。気持ちに甘えて、歩の幸せを、潰したくないんだ」
違う。そうじゃない。
甘えさせて、安寧を与えて、
離さなかったのは、私。
前を向かないよう、
押し止めたのは、私。
こんな気持ち、
貴方に、分かるはずも、ない。
貴方に、届く、はずもない。
歯を食い縛り、俯く歩に咲月は続けた。
「・・・ごめん。俺じゃ、歩を幸せに出来ない」
終わりの、言葉。
別れの、台詞。
歩は大きく息を吐き、空を仰いだ。そうしなければ、涙が止めどなく零れてしまいそうだったからだ。滲んだ青空が、瞳に映る。
・・・泣くな。
・・・笑え。
「・・・お姉ちゃんのこと、まだ、・・・好き?」
「・・・あぁ。愛してる」
あぁ、そうか・・・。
ようやく、分かった。
いつの間にか、変わった想い。
私は、
私の大好きな姉を、
大好きな咲月だから、
好きなんだ。
勝ち目なんか、なかった。
始めから、勝負にすら、なってなかった。
でも、それで良かった。
そのことに、気付けたから。
「・・・なんか、気を使わせちゃったね」
歩は指先で涙を拭い、咲月に笑顔を向けた。上手に、笑っていただろうか。
「でも、ごめん。・・・諦めないよ」
気付けた想いを、
無かったことになんて、
出来ない。
忘れることなんて、
出来やしない。
「・・・歩」
言葉を失い俯く咲月に、歩は言葉を紡ぎ続けた。
「本当は、私がいいけど、私じゃなくても、いい。咲月が、誰かと幸せになるまで・・・、私は、想い続ける。それだけは、・・・譲れないし、譲らない」
想い続けた、貴方だから。
想い続ける、貴方だから。
そんな、貴方だから。
こんなにも、いとおしい。
「だから、咲月も。・・・諦めてね?」
精一杯の、強がり。
可笑しかった。
振られてから、もっと好きになるなんて。
一瞬の、沈黙。
顔を上げた咲月は、
優しく、小さく、微笑んだ。
「・・・ありがとう」
その言葉の真意は、歩には分からない。
でも、それで、いい。
それが、いい。
「行こっか!」
歩は笑顔で振り返り、夏海の墓に背中を向けて、歩き出した。
・・・前へ、進もう。
見上げた果てない青空は、
もう、滲んでいなかった。
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