第七章
第49話
窓の外を眺めると、眼前には茜色の空が広がっていた。それは遠くへ行けば行くほど暗くなり、もうそこまで夜が近付いていることを教えてくれた。
結城は会社のパソコンを閉じて、大きく伸びをした。本日与えられた事務仕事も終了した。友人との約束には、十分余裕がある。
椅子に掛けていたコートを手に取り、結城は立ち上がった。それに示し会わせたかのように、事務所の扉が開かれる。現れたのはこの会社の社長であり、父親だった。白髪混じりのオールバックで、切れ長の目を結城に向けている。
「結城、まだ居たのか」
「今出るところです。社長、お先に失礼します」
「あぁ、お疲れさん。ん、今日だったか?咲月君のところに行くのは」
「はい」
「そうか。よろしく言っといてくれ」
表情を変えず淡々と話す父親に結城は頭を下げて、事務所を後にした。外に出ると、茜の空はまた少し明るさを失って、闇に飲まれ始めていた。結城は手にしたコートに袖を通し、足早に駐車場を目指した。
車を走らせている間、結城は咲月に電話を掛けた。今仕事が終わって向かっていることを簡単に告げて電話を切り、再び運転に意識を集中させる。
二十分ほど走らせただろうか、結城は何度か停めたことのあるコインパーキングに慣れた手付きで車を駐車させてその中から降り立った。かすかに冷たい風が、そっと頬を撫でていく。
駅が近いため、そして夕方を過ぎているためか、通りにはまだ大勢の人が行き交っていた。駅へ向かう者、居酒屋を探している者。携帯に目を落としている者。実に様々だ。
結城はその中に溶け込み、雑踏を縫って歩き、すぐ目的地にたどり着くことが出来た。その店の前で、雨宮咲月が壁に背を預けて煙草をくわえながら、携帯の画面に視線を落としていた。
「咲月」
結城の呼び掛けで、咲月は顔を上げた。彼は細く紫煙を吐き出しながら、手を上げて応える。
「お疲れ。どうした?こっちに先に顔を出すなんて」
「いや、内装出来上がったんだろ?それを先に見たくてな」
結城は咲月の隣に並び、取り出した煙草に火をつけた。店先には備え付けの吸い殻入れが置いてあった。
結城は煙草をくわえながら、そっと振り返り、咲月が背を預けている店を見上げた。
二階建てのその店の外壁は白よりはバニラ色に近く、西欧風な扉にはクローズの看板が取り付けられている。街並みには少し溶け込めていないそれは、咲月がこれから営む美容院だった。
煙草を吸い殻入れに捨てた咲月が、指で店を示した。結城は頷いて煙草の火を消し、彼の後に続く。
「・・・おぉ」
扉を開いて眼前に広がった光景に、結城は思わず小さな感嘆の声を上げた。静かに、ゆっくりと店内を見渡す。
床や壁や天井、それら空間を支配する大部分が、白だった。その中で、受付のカウンターテーブルや客用の椅子、雑多な小物類が青で統一されていた。いや、青というよりは、水色に近い。水色に、少し青みを足した感じだ。
「・・・海の、色か」
家具を眺めながら、結城は感心しながら頷いた。白に統一されそうな空間。そこに広がる、海の色とのコントラスト。光景が、記憶をなぞる。言葉が、記憶を撫でる。
似ていた。無機質な病室の中、それを打ち消すような彼女の存在。あの時見た雰囲気に、とても似ていた。
「お前、らしいなぁ」
結城は視線を咲月に向けると、彼は少し照れ臭そうに微笑んだ。そんな顔も出来るようになったんだなと、結城は彼女の存在に少し感謝する。
「本当は、もっとイメージあったんだ。・・・海が見える場所で、壁は全部窓にして、壁紙は砂浜っぽく淡い白にとかさ。・・・今は、無理だけどさ。いつかは、作ってあげたい」
咲月は少し遠い眼差しをしながら呟いた。具体的な言葉達が、結城の想像を駆り立てる。彼女を知っているからこそ、その風景が、想像出来る。
その時、咲月の携帯が鳴り響いた。彼は口の動きだけで歩だと結城に伝えて携帯を耳に当てる。どうやら向こうも仕事が終わったようだ。
店内をある程度見終わった結城は、店を出て煙草に火をつけた。揺れる紫煙は音もなくたゆたい、静かに姿を消していく。
「悪い。じゃ、行くか」
店から出て来て隣に並んだ咲月が、同じように煙草に火をつけた。漂うミントの香りが、再び記憶の蓋を撫でる。
「・・・お前、変わったな」
結城の呟きに、咲月は煙草をくわえたまま目を合わせた。一瞬の沈黙の後、彼は屈託のない笑顔を見せた。それはどこか、彼女の笑い方に似ていた。
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