第47話

第47話

晴天と呼ぶに相応しいほど雲一つない海のような空が、不意に上空を仰ぎ見た高橋の視界を満遍なく埋め尽くした。太陽は煌々と輝き、その眩しさに反射的に手を翳してしまう。しかし、陽射しの割には柔らかな暖かさがそっと大気を包み込んでいて、スーツでいるのが少し暑いぐらいだった。辺りを見渡すと、転々と並ぶ木々は鮮やかな桃色の八重桜を纏い、穏やかな風と共に花弁を散らせて優しい芳香を振り撒いていた。門出の日に相応しい、桜の小さな並木道。


卒業式もホームルームも終わり、高橋は最後に卒業生を送り出すため校門前を当てどなくさまよっていた。教え子達は互いの別れを教室で嘆いているのか、なかなか出てくることはなかった。


「高橋先生!」


突然の呼び声に高橋は視線を移した。校舎から姿を現したのは五十嵐で、彼はいつもの笑顔で高橋に向かって小さく手を上げると、紺色のネクタイで締め上げられている首元を指先で緩めながら高橋が居る方へと足を進めた。


「お見送りですか?もうすぐ出てくると思いますけど。しかし・・・」高橋の隣にたどり着いた五十嵐は辺りを見渡すと、華麗に咲き誇る桜の木々へ視線を止めた。「見事なものですね。開花はもうすぐかかると思っていましたが・・・」


「そうですね」高橋も五十嵐につられるように、再び桜の木々に視線を移した。卒業式に合わせて桜が満開になるなど、まるで長年親しまれている学園ドラマみたいだ。そう思うと、自然と笑みが零れてしまう。


「どんな心境ですか?」五十嵐は視線を高橋に移しながら、口元をわずかに上げた。「初めてですよね。自分の教え子が巣立つというのは」


「・・・えぇ、まぁ」高橋は一度目を伏せてから、再び桜に視線を向けた。「・・・よく、分からないですね」


教師は所詮ビジネスだと、自分は心の中で割り切っていた。生徒達の間に不可視の境界を作り、深入りしないように心がけていたはずだ。


傷付かないために傷付けず、踏み込まれないために踏み込まない。そういうスタンスを、自分は確立していたはずだ。そんな自分が、好きだったはずだ。


それが今はどうだろう。いつからこの境界が、曖昧になったのだろう。


時には共に悩んだり、共に苦しんだり、ともに騒いだり、共に楽しんだり。およそ教師とは思えない行動に出ていたことを、高橋は思い返す。


教師という定義は、一体何なのだろうか。今の自分は、果たして教師として正解なのだろうか。それでも、今は、今の自分が、好きになっていた。


「・・・寂しいですね」五十嵐は高橋に視線を向けず小さく呟いた。


「・・・そう、ですね」


「先生!」


高橋の相槌あいづちに重なるように、第三者の大きな声が高橋の鼓膜を震わせた。高橋と五十嵐が同時に振り返ると、手に卒業証書が入っている筒を持った咲月が校門から二人の元へと駆け寄ってきた。彼は穏やかな微笑みを浮かべて高橋の前までたどり着くと、一度姿勢を正して深々と頭を下げた。


「高橋先生。色々と、お世話になりました」


顔を上げた咲月の双眸そうぼうが、真っ直ぐ高橋に注がれる。高橋は小さく微笑んで、そっと頷いた。


「うん。おめでとう。このまま今日発つのかい?」


「はい。一度家に帰って、少し用を足してからですけど」咲月はそう答えると、一瞬だけ腕時計に視線を移した。


教室での騒動から1ヶ月と少しで復学をした咲月は、その空白の時間が嘘のように、成績優秀な新藤歩や吉田結城を凌ぐほどの学歴を残した。それは有名な国立大学でさえ射程圏内に入れてしまうほどで、教師一同はもちろん、生徒一人に至るまで学園全体が彼の進路に期待を膨らませていた。学園に名を残すのではないかと、ささやかに噂されるほどに。


しかし、数多あまたに注がれる羨望にも似た期待を、咲月はいとも容易く裏切ってしまった。進路相談で彼の口から発せられた言葉に、高橋ですら耳を疑った。


彼は迷いもせずに、東京の美容学校に進学することを選択した。教育指導の田中や他の教師陣の必死の説得も意に介さず、彼は随分前から既に静恵と具体的な話を進めていたらしい。その選択の理由を話さない彼に、周りは誰もが落胆しただろう。


ただ、高橋は違った。詳しい事情を知っていたわけではないし、亡くなった新藤夏海が美容師であり、彼女がささやかな夢を描いていることを歩から聞かされたのも最近の話だ。それでも原因が彼女にあることを、高橋は何となくだが感じていた。


第三者からすれば、故人の遺志に人生を捧げるなど滑稽の対象になるかもしれない。それは理由を後から聞かされた高橋でさえ一瞬脳裏を掠めたほどだ。自分の人生を今は居ない誰かのために使うなど、しようと思っても出来るものではない。極論を言えば、自分以外は他人だからである。友人も、恋人も、家族でさえも。大切なものに変わりはないが、それらは決して自己とはなり得ない。本能や自己防衛を前に、それらの定義は意味を持たない。


それでも彼は、迷うことなく新藤夏海の遺志を選んだ。無限に広がる未来への可能性を前に、それには目も暮れずに他人のレールの上に飛び乗った。それはどれだけ困難で、不自由で、けれど、尊いものだろう。


「・・・先生?」思案に耽っている高橋に向かって、咲月は不思議そうに首を傾げた。


「あ、いや・・・」我に返った高橋は落とすように微笑みを零すと、小さく息を吐いて顔を上げ、咲月の瞳を見据えた。


自分が頑張ったから彼が卒業出来たなど、傲慢なことは思わない。ただ、自分の行動が、彼が浮かべる陰りのない笑顔を生み出した理由の一端でもあったなら、それはどんなに嬉しいことだろう。


そう思えることが今までの自分ではないような気がして、そう思える今の自分が、今の自分は好きだと思えた。


出会いは繋がり、広がっていく。雨宮咲月が新藤夏海と出会ったことで、高橋が磯や岡野と出会えたように。そうして人は他人を知り、様々な感情を覚えて変化を受け入れ確固たる自分を描いていく。そう在りたいと、願う自分に。


自分も、変わったのだろうか。そう在りたいと願う自分に、近付けているだろうか。


「じゃあ、・・・行ってらっしゃい」高橋は少しはにかみながら口を開いた。気の利いた言葉の一つも言いたいところだったが、ありきたりな台詞しか思い付かなかった。


「・・・はい。行ってきます」咲月は穏やかに微笑んでもう一度頭を下げると、少し古びた校舎を一瞥してから身を翻した。踏み出したその足からは迷いなど感じられず、彼の背中を見送る高橋には、それが嬉しかった。


「咲月!」


「雨宮君!」


同時に上がる声に、校門をくぐった咲月だけではなく高橋と五十嵐も声のする方へと視線を向けた。校舎から声を張り上げて飛び出してきたのは吉田結城と新藤歩で、二人は高橋と五十嵐の存在に足を止めることなく咲月の元へと駆け寄った。


「おい、行くなら行くって言えよ」


「そうよ。水くさいじゃない」


咲月に追い付いた結城は後方から彼の背中に体当たりをして、彼の言葉に便乗して些細な非難を送った歩は二人のじゃれ合いを笑顔で眺めていた。そんな三人を、高橋と五十嵐は高校の敷地内から眺めている。


満開の八重桜の下、少し大人になった教え子達の姿が、瞳をくらませるほどに眩しい。


・・・あぁ。こんなにも。


「これが、結果なんじゃないですか」


「・・・え?」


高橋は突然口を開いた五十嵐に視線を移した。彼は隣で高橋と同じように遠ざかっていく三人を見つめながら、いつもとはかすかに違う優しい微笑みを浮かべていた。


「与えられた選択肢に、正しいとか間違いとか、そんなものはないんですよ。だから私達は、時に悩んだり、時に苦しんだりするんです」


「・・・」


高橋が口を閉ざして見つめていると、五十嵐は高橋に視線を移していつものように穏やかな笑みを浮かべた。


「今、目の前に映る景色が、貴方が選んだ結果です。それを、貴方がどう思うかですよ」


高橋は再び視線を移し、彼方を歩く三人の後ろ姿を眺めながら五十嵐の言葉を噛み締めた。自然と高橋の口元に、笑みが浮かぶ。


悩んで、苦しんで。


笑って、泣いて。


望んで、選んで。


そうしてつたなく、未来を紡ぐ。生きる道を、彩っていく。


この結果で、良かったんだ。


この結果を、望んでいたんだ。


高橋は舞い散る桃色の花弁の先に消えそうなほど遠くなった三人を見つめながら、教師も悪くないなと、空を仰いでもう一度笑みを浮かべた。

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