第42話
第42話
咲月は拳を握って、夏海が運ばれた病室を見つめていた。静まり返った廊下には耳障りなほどの静寂が漂い、煌々と光る蛍光灯が月明かりを遮断していて時間の概念を曖昧にさせている。
備え付けられた黒い革製の長いベンチには、静恵と歩、その両親が腰掛けていた。静恵は静かに無言で咲月の背中を見つめ、顔を覆って項垂れた歩を両親が優しく宥めている。後から現れた高橋と五十嵐と結城は、所在なさげに壁に体を預けていた。
誰も口を開くことはなく、ただ時間の経過に身を任せたいた。一秒一秒がとても長く感じられ、夏海が運ばれてから一時間と経っていないのに咲月には二時間にも三時間にも感じられた。際限のない不安が体中を蛇のように這い回り、否定したい現実が、拒絶したい事実が、思考を蝕んでいく。
側に、居たい。それだけのことすら、叶わない。
その時、
扉の中から現れたのは磯だった。その表情は
「先生!・・・お姉ちゃんは?」
すがるように磯の白衣の袖を掴んだ歩は、涙を浮かべながら悲痛の声を上げた。しかし磯は彼女の言葉には反応を示さずに、目の前の咲月へと向き直った。その瞳には先ほど浮かべたような怒りはなく、かすかな悲しみが滲んで見えた。
「・・・咲月君。中に、入って」
磯は落とすように呟くと、歩の入室を拒むようにして一歩踏み出し、咲月に病室への道を開いた。彼の言葉に、歩は納得が出来ない様子で食い下がる。
「・・・先生、どうして?・・・どうして、雨宮君だけ、なの?」
「・・・夏海ちゃんの気持ちを、・・・汲んでやってくれ」磯は目を伏せながら苦しそうに答えた。それを聞いた歩は一度だけ涙に濡れた瞳を咲月に向けたが、諦めるように唇を結び、身を引いて顔を伏せた。
「・・・行って、あげて」咲月に向かって、歩は震える声を必死に抑えながら言った。会話のやりとりが、全員の居る廊下を一瞬にして重い沈黙が包む。
咲月は振り向かず、何も答えずに病室の中に足を踏み入れた。
変わらない天井。変わらない床。変わらない空間。一歩ずつ、足を踏み入れていく。
ベッドには、夏海が腰掛けていた。浮かべた笑顔は弱々しく、彼女を支えるように看護師二人が背中と腕に手を添えている。それでも彼女は凛とした佇まいで、真っ直ぐに咲月を見つめていた。それは咲月を前にした、最後の彼女の強がりだった。
「・・・夏海。・・・っ!」
名前を呼んだ瞬間、何かが突き上げてくるように込み上げて咲月の声を詰まらせた。視界が徐々に揺らいでいき、夏海の姿を滲ませていく。
咲月はその場に立ち尽くしたまま、歯を食いしばり、声を殺して涙を流した。側に居たいという思いと、こんな状態の夏海を見ていられないという思いが
看護師が心配そうな眼差しを向ける中、夏海は項垂れて涙を流す咲月を見つめながら、それでも笑顔を崩さなかった。
「・・・咲月。・・・こっちに、座って」
聞き慣れた穏やかな声が、両足の呪縛を解いていく。咲月は涙を拭わずに、ゆっくりとした足取りで夏海の側へとたどり着き、広げられているパイプ椅子に腰を下ろした。
「・・・夏海ぃ。・・・ご、ごめん」
何に謝っているのか自分でも分からなかったが、最初に口から零れたのはそんな言葉だった。目の前にあるはずの夏海の顔が滲んで揺れるせいで、咲月には彼女がどんな表情を浮かべているのかはっきりとは分からなかった。
「・・・謝らないで」呟いた夏海は笑顔を絶やさずに、小さく首を振った。「最後ぐらい、・・・笑ってよ」
夏海の言葉に、咲月は笑顔を作ろうとした。そうして彼女の望みを叶えたかったのに、込み上げる悲痛が邪魔をする。一瞬だけ浮かんだはずの歪んだ笑顔は、一瞬にして崩れ去った。
「・・・無茶、言うなよ」咲月は顔を伏せて、膝に乗せた拳を握りしめた。その拳に涙が何度も落ちて弾ける。
「・・・仕方、ないか」
夏海は少し残念そうに呟くと、看護師に向かって何かを告げた。しばらくして、俯いて涙を零している咲月の目の前に華奢な手で緑色のラベルの煙草とライターが差し出される。咲月は咄嗟に顔を上げた。
「・・・あげる。もう、吸えないし」夏海は笑顔を崩さずに呟いた。「迷惑じゃなければ、ジャケットと仕事道具も、咲月に持っていてもらいたい。私にはもう、・・・必要ないから」
夏海の屈託のない笑顔が、終焉を受け入れた穏やかな声音が、咲月の心を無慈悲に八つ裂きにしていく。十年前のあの日よりも、鋭く、深く。
「・・・そんなこと、い、言うなよぉ・・・」
苦しそうに呟き再び俯きそうになった咲月を、そっと何かが包み込んだ。
鼻を掠めるのは、愛しい香り。
体を包むのは、愛する温もり。
「・・・ありがとう」咲月を抱き締めた夏海は、咲月の耳元で小さく呟いた。それは今まで聞いたこともないような、とても優しい声だった。
咲月は嗚咽を漏らしながら顔を上げて、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな夏海の体を、そっと抱き締めた。どれほど涙に濡れて酷い顔になろうが、それをどう思われようが、気にならなかった。
「・・・咲月」
消え入りそうな声で、夏海は囁いた。その声は、震えていた。
「・・・出逢えて、・・・良かったぁ」
夏海の頬を伝う涙が、咲月の首筋を伝う。咲月にはもう、込み上げる嗚咽を止める術がなかった。
「お、俺も・・・!」
言葉を発した瞬間、咲月の背中に回された腕が、静かに落ちていった。それはスローモーションのように、ゆっくりと。
鼓動が、消えていく。
温もりが、剥がれていく。
「先生!先生!」
夏海を抱えていた看護師はすぐに異常に気付き声を張り上げた。その声に反応するように素早く病室の扉が開き、血相を変えた磯が慌てて近付いてくる。咲月は声を上げず、四肢の力を失った夏海を磯が咲月の体から引き剥がすまで腕の中に抱き続けた。
耳を掠めていた吐息が、今はもう、聞こえない。
胸に刻まれていた鼓動が、今はもう、聞こえない。
誰かの声が、遠くから聞こえた気がした。
でも、もう、どうでもよかった。
何もかも、どうでもよかった。
瞬間、
世界が、
色を、
無くした。
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