第41話

第41話

暗い水の中、底へと落ちていくような錯覚。


四肢が指先から、漆黒へと溶け出しているよう。


思考は曖昧。そして、断続的。


体はただの器として、意識だけが、そこに在る。


途切れ途切れの思考の中、夏海は一つだけ確信した。


・・・あぁ。これが、「死」か。


天へと続く階段を登るでもなく、


あるはずのない川を渡るでもなく、


ただ、「無」くなっていく。


肉体が、精神が、「無」へと変換されていく。


痛くもない。


苦しくもない。


何も、感じない。


これは、消去か。


それとも、回帰か。


それすらも、よく分からない。


でも、それもいいと思った。


それでいいと、思った。


「生」に執着するほど、不満があるわけではない。短くも儚かったが、精一杯生きたつもりでいたし、生きてきたと思う。むしろ、満ち足りていた。そう、思える。


だから、受け入れようとした。


手放そうとした。


微睡まどろみのような移ろいに、夏海は静かに身を預けた。次第に虚ろになっていく、意識と思考。


・・・全てが、終わる。そう感じた時だった。


ぜるような一瞬の映像。その瞬間的なイメージを、夏海は無意識に手繰り寄せようとした。拡散しかけた意識と思考が、再び集束されていく。


(・・・誰?)


朧気おぼろげに浮かび上がる輪郭。そのかすかなイメージを、夏海は必死に繋ぎ止めようとする。断続的な意識は徐々に繋がれ、曖昧だった思考はかすかに鮮明さを取り戻す。


(・・・誰なの?)


しかし、届きそうで、届かない。


繋がれた思考は更に研ぎ澄まされていき、漆黒の中から自身の器を取り戻していく。再び構成される、体のイメージ。


(・・・あ)


繋ぎ止めた輪郭りんかくが、イメージが、鮮明になっていく。瞳ではなく感覚が、それを捉える。


それは、雨宮咲月だった。最後に見た、彼の泣き顔だった。


痛くもない。


苦しくもない。


何も、感じない。


それもいいと、思っていた。


それでいいと、思っていた。


ただ、もう一度。


もう一度だけ、許されるなら。


夏海は必死に手を伸ばした。そのイメージに触れようと、溶けるように消えていく両手を、ただ、必死に。


・・・会いたい。


・・・もう一度だけ、会いたい。


消えかけた両の掌が輪郭をなぞり、意識は一筋の光を紡いだ。




夏海は静かに瞳を開けた。白い天井を映す視界の端には、複数の人影が右往左往して現れては消えていく。断続的に続く電子音が、かすかにどこかから聞こえてくる気がした。


「・・・生!先生!」


夏海の視界に一瞬だけ大きく映りこんだ看護師が、目を見開いて声を張り上げた。その驚愕きょうがくの表情が、自分が目を覚ますということが予想外の出来事だと気付かされる。


(・・・生き、てる?)


夏海は右手を上げるいつもの動作をしようとしたが、力がうまく入らなかった。気が付けば、呼吸という当然の行為さえ意識しなければ出来なくなってしまっている。それでも、それら全てが生を実感させるには十分なものだった。


ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐く。その繰り返しによって、口元のマスクが曇っては澄んでいく。


「夏海ちゃん!」


緊迫した声で夏海の名前を呼んだのは磯だった。彼は方々に散らばる看護師に指示のような言葉を放ちながら、深刻な表情で何度も夏海の名前を呼んでは意識の確認をする。夏海は何度も続く磯の声に、かろうじて頷いた。


「・・・先、生」


試しに声を出してみたが、それは酷く掠れていてまるで自分の声ではないように感じた。夏海は小さな咳をいくつか吐き出し、声帯を整えようと試みる。磯にはその行為が苦しがっているように見えたのか、眉を下げて心配そうな表情を浮かべた。


「無理に喋らなくていいから。ゆっくり、ゆっくり、深呼吸して」


穏やかな磯の声音に夏海は頷き、目をつむって深呼吸を繰り返した。かすかにだが、意識が体を支配する感覚が伝播していく。指先が、手が、腕が、自分の意思に呼応していく。


夏海はその感覚を研ぎ澄ませようと、神経を集中させるために何度も深呼吸をした。その時、瞼の裏に一瞬の映像が掠めた。


それは、ついさっき捉えた咲月の泣き顔だった。それを感じ取った瞬間、まるでせきが外れてしまったように、思考を、神経を、感情を支配し始める。


(・・・会いたい)


許された願い。


(・・・もう一度、会いたい)


届いた想い。


「・・・咲月?・・・咲月、は?」


夏海は磯に視線を合わせたまま尋ねた。その言葉を耳にした磯は一瞬で表情を曇らせる。その理由が、夏海は咄嗟には理解出来なかった。


「・・・大丈夫だから。安静にしていなさい」磯は優しく言うと、ベッドの脇からゆっくりと立ち上がり再び周りの看護師へ指示を始めた。


何が、大丈夫なんだろう。夏海にはそれが分からなかった。だが、自分の質問に対する磯の拒絶という意思は、漠然とだが理解出来た。涙が一滴、静かに頬を伝う。


・・・違う。


・・・生きることを、望んだんじゃない。


・・・生きることを、選んだんじゃない。


・・・生きたいがために、生きるんじゃない。


・・・そんなことは、もう、どうでもいい。


・・・ただ、会いたい。


・・・彼に、会いたい。


「・・・先生。・・・咲月は、どこ?」


夏海は必死に同じ言葉を何度も呟いた。磯は看護師に指示を出したりするなどで必死に夏海の言葉に耳を貸そうとしなかったが、四度目の同じ言葉に痺れを切らして振り返った。その表情には苛立ちと怒りが宿っている。


「駄目だ!咲月君は君を・・・」言葉の途中で我に返ったように、磯は口をつぐんで顔を反らした。


「・・・違うの。私が・・・、頼んだの」


「たとえ、そうだとしても・・・。ちょ、夏海ちゃん!」夏海の言葉に返答を濁した磯は、夏海の突然の行動に慌てふためいた。


ベッドの上で、夏海は起き上がろうとした。体や腕は鉛のように重く、少し動かすだけで体力が根こそぎ持っていかれそうになる。それでも夏海は、歯を食いしばって体を起こした。


体を支えている手首が震える。呼吸が浅いせいか、意識が再び朦朧もうろうとなる。心臓が、痛みを訴える。自分の体は、こんなにまで脆かったのか。


「何をやってるんだ!自分の体がどういう状況か分かっているだろ!」磯は激昂して夏海の肩を掴んだ。しかし夏海は睨むように彼を一瞥すると、精一杯の力でその手を振り払った。そのせいで上体はバランスを崩し、夏海はベッドの上に倒れ込む。


シーツが頬に触れる。柔らかいベッドの上に手をつき再び体を起こそうとするが、力がうまく入らない。何本ものチューブが体から伸びていて、今の衝撃で針が皮膚を抉ったはずなのに、痛みさえ感じない。


不意に零れた涙が、シーツに染み込んでいく。少しでも気を抜いてしまえば、意識は再び漆黒の中へ沈んでしまいそうだった。夏海はそっと自分の体を支えようとする磯の手を気にせず、突っ伏したまま深呼吸をして歯を食いしばった。


(・・・もう、少しだけ。言うことを、聞いて!)


夏海は再び両腕に力を込めた。浅い呼吸を繰り返しながら、何とか上体を起こす。


「・・・夏海ちゃん」添えた手が無意味だと気付いた磯は手を引き、理解不能という表情で夏海を呆然と見つめた。


「・・・お願い」夏海は震える声で体を支えながら、小さく呟いた。


私がどうなっても、構わない。


脇の看護師が支えてくれたお陰で、何とか座る姿勢まで体勢を整えることが出来た。


どう思われようと、構わない。


浅い呼吸を整えて、無理矢理背筋を伸ばす。


会えないことが、死ぬより、辛い。


「・・・咲月に、会わせて」


夏海は凛とした姿勢で、磯を真正面から見据えた。彼は夏海の態度と行動に目をみはり、思案の表情を浮かべたあと、小さく頷いて夏海に背中を向けた。思いが通じたことでかすかに気が緩んだ夏海の体は一瞬崩れ落ちそうになったが、新たな看護師が手を差し伸べてくれたことで何とか踏みとどまることが出来た。


肉体から剥がれ落ちそうになる精神。夏海は目をつむって呼吸を繰り返し、再び肉体に自分を定着させていく。視覚が、聴覚が、触覚が、再び意識と連動していく。


「・・・咲月君だけで、いいのか?」扉に手を触れた磯は、振り向かずに尋ねた。その言外の意味は、夏海には十分理解出来た。


「・・・うん」磯の言葉に、夏海は小さく頷いた。


あと、少しだけ。


彼の瞳に映る自分が、自分であるうちに。


病室を後にする磯を見送って、夏海は看護師に支えられながらも、再び背筋を凛と伸ばした。

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