第40話
第40話
大通りに出てタクシーを拾った咲月と夏海は、小一時間で病院に戻ることが出来た。しかし、その間に夏海の容態は悪い方向へと変化を来していた。彼女は咲月の隣で力なく座席に体を預け、浅い呼吸を繰り返している。どうにも出来ない咲月は心配そうに声をかけたり手を握ったりして、声を張り上げて運転手に帰路を急がせた。
病院の正門をタクシーが通った時には、陽は完全に沈みきっていて夜という時間帯へとその姿を変えていた。咲月はすぐに運転手に代金を支払い、夏海を抱えるように持ち上げてタクシーを降り立った。
「大丈夫か?もう病院だから、な?」
咲月の心配そうな声に、夏海は返事をする代わりに小さく頷いた。相変わらず繰り返される呼吸は浅く、額に脂汗を滲ませながら
「お姉ちゃん!」
夏海を抱えながら歩き出して顔を上げた咲月の瞳に、必死の形相で声を張り上げた歩が映し出された。駆け寄った彼女は咲月の腕の中で項垂れる夏海の顔を覗き込み、姉が現れたことに今にも涙が溢れ出しそうなほど瞳を潤ませている。
心臓を握られたような罪悪感が、一瞬の内に心を蝕んでいく。しかし、咲月は目の前の歩の表情から視線を反らさなかった。罪悪感に苛まれても、反らしてる暇などなかった。
「新藤!先生は?」
「・・・すぐ呼んでくる!」
咲月の言葉に顔を上げた歩は、濡れた瞳を拭い表情を引き締めて駆け出した。注がれた歩の瞳に嫌悪や軽蔑の色が窺えなかったのが、咲月には不思議だった。
「・・・歩?」消え入りそうな声が腕の中からかすかに聞こえてくる。
「今、先生呼びに行ってるから。もうちょっとの、辛抱だからな?」咲月は何とかそう答えて、再び歩き出した。
入口の直前まで歩を進めると、自動ドアは咲月の存在を待たずに口を開いた。そこから姿を現したのは、血相を変えた磯と静恵、続いて歩だった。
「先生!夏海を!」
叔母の静恵がこの場に居るのが不思議だったが、そんな些細なことは気にも留めずに磯の元へ駆け寄った。彼は一瞬だけ咲月に向かって眉をひそめたが、すぐに夏海の状態を確認すると、深刻な顔付きで咲月から彼女をそっと受け取った。
「・・・君との話は後だ」
磯は睨むように咲月を一瞥した後、夏海を抱いたまま身を翻した。突き刺すような鋭い眼光は咲月が想像し覚悟したものよりも強く胸を抉り、鉛のような罪悪という重圧が顔を俯かせようとした。
しかし、それは叶わなかった。
刹那に走る、左頬への衝撃。それに一瞬後に続く痛覚。
突然のことに驚きを隠せない咲月は目を見開き、激しい痛みを訴える頬に触れながら視線を向けた。頬に衝撃を与えたのは先ほどまで磯の後ろに控えていた静恵の掌で、彼女は潤んだ瞳で咲月を睨み上げていた。
「・・・静恵、さん」
「・・・分かってるの?」
静恵のつり上がった瞳から、静かに涙が一滴だけ零れた。その涙が何に対する涙なのか咲月には分からなかったが、無理に絞り出されたような声が怒りを孕んでいることだけは、十分理解出来た。三度咲月の胸を抉る、どうにも出来ない激痛。
これが、選択の代償。
これが、選択の結末。
「ふざけないで!自分が何をしたか分かっているの!?」静恵は咲月に向かって声を張り上げた。
「・・・」その大声に、咲月は何の反応も示さなかった。いや、示せなかった。静恵と瞳を合わすことも出来ず、ただ俯くことしか出来なかった。
自分を、正当化してはいけない。
自分を、弁護してはいけない。
それだけが、間違った自分に対して自分が出来る、唯一の選択だった。
「答えなさい!」
静恵が再び声を張り上げながら右手を振り上げたので、咲月は
その後ろ姿は、歩のものだった。彼女は振り下ろされようとしていた静恵の右手を両手で押さえている。静恵は目を見開いて、突然の歩の行動に固まっていた。
「・・・雨宮君は、悪くないです」絞り出すような歩の声。ゆっくりと振り向いた彼女の顔にはかすかな笑顔と、大粒の涙が伝っていた。「・・・お姉ちゃんの我が儘に、付き合ってくれたんでしょ?・・・分かってるから」
「・・・違う」
歩の言葉を、咲月は短く否定した。彼女の泣き顔を見つめながら、小さく首を振る。
夏海の我が儘を、咲月は受け入れたわけではなかった。彼女が与えた新たな選択を、自分の意思で選んだのである。だからこそ、目の前にある現実は自分の責任だと、咲月は歩の言葉に頷かなかった。
そんな咲月の言葉を聞いた歩は、それでも笑顔を崩さずに咲月に向かって頭を下げた。充血した瞳から落ちる雫が、コンクリートの上で弾ける。静恵は自らの頬を伝う涙を拭いながら、何が何だか分からないという困惑の表情を浮かべている。
「・・・雨宮君、ありがとう。・・・ありがとう」
歩は止めどなく大粒の涙を流しながら、嗚咽の隙間から何度も何度もその言葉を繰り返した。
「・・・貴方が、雨宮咲月君ね?」
歩の後方からの突然の声に、咲月は彼女から視線を映した。自動ドアを潜り抜けて病院の中から現れたのは、咲月に向けて穏やかな微笑みを浮かべる夫婦らしい二人組だった。女性の笑顔の面影が、夏海や歩にどことなく似ていた。
「・・・はい」咲月は咄嗟に返事をしていた。罵声や中傷を負うため、心を静かに引き締める。
「・・・夏海から、話は聞いているわ」
母親はゆっくりと咲月に近付き、力なく垂れ下がっている右手をそっと握った。かすかに皺の刻まれた手が、咲月の中に彼女の温もりを伝播させる。母親の表情からは、なぜか怒りは微塵も感じられなかった。父親の方はというと、しきりに頭を下げている静恵を困ったような表情で必死に宥めようとしていた。
「・・・貴方のお陰で、あの子、本当に楽しそうだったわ。私達と会っても、あの子、貴方の話ばかりなのよ。・・・生きることよりも大切なことを、貴方から教えてもらったと思うの。だから・・・」咲月の手を包んだ母親の手が、わずかに力を増す。かすかに潤んだ瞳が、咲月の瞳に向けられる。「・・・もう少しだけ、側に居てあげて。ね?」
「・・・はい」母親の言葉に、咲月は力強く頷いた。彼女が歩を宥めに行ったので、咲月は真っ直ぐ歩き始める。
理由を説明することも、頭を下げることも、今の咲月にとってはは
幾度、無力感を味わっただろう。幾度、絶望に襲われただろう。積み重なった負を司るそれらは、足を一歩踏み出す毎に、たった一つの想いへと姿を変えていく。
側に、居たい。
咲月の内を埋め尽くす意思は、ただそれだけになっていた。
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