第39話

第39話

一日の役目を終えようと、赤みを増した太陽は水平線の彼方へ身を沈ませ始めていた。大海に映る陽光は煌めきと共に反射され、世界を隙なく染め上げている。朱色だけの万華鏡。例えるなら、そんな風景だった。


タクシーに乗って小一時間でここまでたどり着いた咲月と夏海は、季節柄誰も居ない海岸沿いに腰を下ろしていた。潮の香りと寒いほどの大気が容赦なく襲うので、咲月は夏海を抱えるように座っている。彼女のジャケットのファーが顎を掠めてくすぐったかったが、そこまで気にはしなかった。


既にこうして二時間。他愛のない会話を止めどなく、ゆっくりと繰り返していた。たったそれだけの当たり前のことでも、咲月には十分だった。


「・・・もう、陽が傾いてきたね。知ってる?宵の空って、こういう時も言うんだよ。好きだな、この色」


夏海は穏やかな微笑みで呟いた。彼女は咲月の腕の中で、自分の体を支えきれないのか咲月に体を預けている。彼女の顔が赤い陽光に照らされていて、今まで瞳に映した何よりも綺麗だと思った。


「へぇ、知らなかった。明け方だけじゃないんだな」咲月は彼方へ続く水平線を見るのではなく、瞳に映る夏海の顔から視線を反らさずに呟いた。そんな思い付いた会話を、二人はただひたすら繰り返していた。それは出会った時と同じようで、可笑しくも、居心地が良かった。


かすかにかじかむ手で、咲月は夏海の手をしっかり握っている。お互いの温もりが、静かに伝わる。口を閉ざせば、耳を掠めるのは風の音だけ。耳を澄ませば、さざ波の音でさえ拾うことが出来そうだ。何にも染まらない本当の音だけが、二人の世界を包んでいる。


「・・・咲月、私の話、目をつむって聞いてくれる?」か細い夏海の声が、腕の中から聞こえてきた。咲月は声に出さず耳を澄ませ、彼女に向かって小さく頷いて瞼を閉じた。聴覚が、触覚が、彼女へと集う。


「・・・私ね、自分の店を持つのが、夢だったんだ。もっと腕を磨いて、経営のノウハウも学んでさ。・・・小さくてもいい。私だけの、店を持ちたかったんだ。


海の見える場所でさ。壁は全部窓にしたいな。ほら、海を眺めながらカットしてもらうなんて、何だか素敵じゃない。それでね、壁紙は淡い白にしたいな。うーん・・・、砂浜みたいなイメージかな。風は感じられないけど、まるで海岸にいるみたいじゃない。ね、想像出来た?」


「・・・あぁ。出来るよ」咲月は耳を澄ましながら頷いた。夏海の言葉から想像して、瞼の裏に焼き付ける。


「それでね。料金はうんと安くしてさ。・・・出来れば、主婦の人達にたくさん来て欲しいな」


「主婦?・・・どうして?」


「ほら、家事とか子供の世話とか色々と大変でしょ?でも、やっぱり女性はどんな時でもお洒落はしたいと思うの。だから、そういう人達があまりお金のことを気にせず気軽に足を運べるような、そんな店にしたい」


夏海の遠い眼差しが、茜の空を反射している。彼女の瞳には、何が映っているのだろうか。


「理想でしかないけど、同じ気持ちの人達が集まってくれれば、お店も凄く良い雰囲気になると思う。店員も、お客さんも、お互いに楽しめる、そんなお店が良い」


「・・・うん。分かるよ」


「でさ。いつかは私も結婚したりするじゃん。相手はやっぱり、同じ仕事で、同じ気持ちで、・・・お互いが、尊重し合える、ような・・・」


夏海は必死に笑顔を取り繕っていたが、瞳には涙が溢れ、声は震えていた。理解出来るはずのない悲痛が、咲月の胸を握り潰すほどに締め付けた。目頭が熱くなり、喉元まで嗚咽が込み上げてくる。紡がれる願い。それは決して、届かない未来。


夏海は一度顔を伏せて涙を拭った。再び上げた顔にも笑顔は浮かんでいたが、それは一瞬の内に見る影を失った。再び流れ始めた雫が頬を伝い、口元は嗚咽を漏らさないためか歪んでいる。握った掌から伝わる震えが、悲しみの断片を代弁していた。


「・・・もっと、生きたかった。・・・生きて、いたかったよ」


絞り出された、唯一の本心。それでも悲しみを笑顔に変えようと努める夏海の姿に、咲月は耐えることが出来なかった。


咲月は歯を食いしばり、自分の頬を伝う涙を拭うことも忘れて、夏海の体を強く抱き締めた。そうして彼女の感触を、温もりを、存在を、体に刻み付けようとする。


「・・・苦しいよ」咲月の腕の中で夏海は小さくこぼしたが、咲月は力を緩めなかった。


喪失という、悲痛。


理不尽への、憤怒。


無力による、後悔。


時間に向ける、憎悪。


咲月の中で様々な感情が混ざり合っては溶け合い、それに当てはまる言葉を、失わせていく。


彼女が死ななければ。


自分に何か出来れば。


時計の針が止まれば。


他の誰かだったなら。


叶わない願いが脳裏を掠めるたび、その無意味さが涙となって、嗚咽となって込み上げる。


「・・・」


何も、言葉にならなかった。言葉に出来なかった。どんな言葉を口にしても、それは夏海のためではなく、彼女を失う自分への慰めの言葉になってしまいそうだったからだ。だからこそ、咲月は少しでも飾らない想いが夏海に伝わるように、彼女の細過ぎる体を抱き締め続けた。


「・・・いつか、忘れちゃうのかな」夏海は咲月の腕の中で、落とすように呟いた。「・・・こうして見てる夕焼けも、私のことも。・・・いつか、忘れちゃうのかなぁ」


幾百、幾千という日々の流れの中で、記憶は思い出へと昇華され、その風景を、感情を、音もなく風化させていく。そうして欠けていくものを自分の都合で、いつの間にか美化させていく。辛い痛みも悲しい出来事も過去として切り離し、いつの日か笑い話になっていく。


いつか自分も、そうなってしまうのだろうか。咲月は顔を上げて滲む夕陽を眺めながら思いに耽った。瞳に映る青と茜のグラデーションも、腕の中に抱いた華奢な温もりも、いつかは記憶から、感触から、忘れ去ってしまうだろうか。思い出へと昇華され、セピアに褪せてしまうだろうか。そう自分自身に問いかけて、一瞬で導かれた答えを噛み締める。


忘れない。


忘れられない。


忘れられる、わけがない。


だから、思い出に、ならない。


鮮明に。そして、克明に。


記憶として、いつまでも。


「・・・忘れないよ」咲月は掌にわずかに力を込めて、絞り出すように声音を強めた。「・・・絶対、忘れないから」


咲月の言葉に、夏海は頷いてかすかな微笑みを浮かべた。その笑顔に力は微塵も感じられないが、とても穏やかで、美しかった。


「・・・ごめん」夏海はかすかに目を伏せて、小さく落とした。「私のせいで、皆に怒られちゃうね」


「・・・いいんだ」咲月は精一杯の笑顔を浮かべて、夏海のジャケットのフードに顔を埋めた。彼女の香りだろうか、かすかな芳香が鼻を掠める。「・・・これで、いいんだ」


自分が選んだ選択は、決して正しいものではなく、許されるものでもなかった。それは誰よりも、自分が一番理解している。それでも、自分が選んだ選択に後悔はなかった。どんな批判を浴びせられようが、どんな中傷を受けようが、それだけは揺るがない気がした。腕の中の温もりが、存在が、その思いを確固としていく。


「・・・帰ろうか」夏海は少し寂しげに微笑みながら呟いた。


「・・・あぁ」咲月は小さく頷いてから、夏海の手を握ったままゆっくりと立ち上がった。彼女は咲月の手に引かれるように、咲月に体重を掛けながらゆっくりと腰を上げる。


咲月は海岸沿いを後にする時、一度だけ振り返って再び瞳に茜空と水平線を映した。二度と見ることの叶わない今という瞬間の風景を、瞳に焼き付けようとした。目の前で佇み、儚く微笑む、愛する人の姿と共に。

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