第38話
第38話
高橋と五十嵐は磯からの緊急の呼び出しにより、五十嵐の車に乗り込み病院を目指した。車内には沈殿したような重い空気が、二人に沈黙を強制しているようだった。
「・・・何もなければ、いいんですけど」
ハンドルを握っている五十嵐が浮かない表情で呟いた。それが独り言だと分かっていても、重い沈黙に耐えきれない高橋は言葉を返した。
「・・・そうですね」高橋は助手席に深く身を沈め、ため息混じりに呟いた。「・・・何で、雨宮君はこんな真似をしたんでしょうか」
磯の電話の内容は簡潔なもので、事態を完全に把握するには情報が乏しかった。夏海が病院から姿を消したこと。その事態に咲月が関与していること。大まかな概要だけが電話越しに伝えられて、高橋と五十嵐の頭の中では様々な憶測が飛び交った。
「・・・分かりません。雨宮君が彼女を危険な目に遭わせるとは考えられませんし」
「でも、現に一緒に居なくなっているじゃないですか」高橋は内に燻る苛立ちをかすかに孕ませながら言葉を返した。八つ当たりでしかないそれを、五十嵐は笑顔で受け止める。
「考えられるのは、雨宮君の意思ではなく、夏海さんの意思ではないかということです」五十嵐はハンドルを切りながら続ける。「夏海さんがもし、連れていってくれないかと頼んだ場合、雨宮君はそれを断るでしょうか?」
「・・・」
五十嵐の言葉に、高橋は神経を集中させて思考を巡らせた。しかし、どうしても理解を示すことが出来ない。それは皆が知っている、彼女の容態に起因している。
「・・・それでも、普通は断るでしょう?」高橋は狭い車内の天井を仰ぎながら口を開いた。「夏海さんの状況を考えれば・・・、選択肢なんて、ありませんよ」
「まぁ、そうでしょうね。でも、雨宮君はそれを選んだんです。心の内は、想像出来ませんけど・・・」
そう言った五十嵐は浮かない表情を浮かべて口を閉ざした。気が付けば、二人を乗せた車は既に病院の敷地内に入っていた。
駐車場に停めて車を降り立った高橋と五十嵐は足早に病院の入口へと入り、受付で磯を呼んでもらうことにした。受付の看護師にどうやら話は伝わっていたらしく、看護師は何の追求もせず二つ返事で院内放送をかけてくれた。
「悪いな。仕事中に」
そう言って数分後に姿を現した磯は相変わらずの出で立ちで二人を医務室へと案内した。何度か状況を把握しようと高橋と五十嵐は問いかけたが、医務室に着くまで磯は口を開かなかった。
医務室にたどり着くと、磯は扉を開いて中に入るよう二人を促した。何も知らされないままの二人が不満げに中に入ると、奥にある応接のために設けられたソファに一人の女性が腰を下ろしていた。スーツ姿の女性は充血した瞳を二人に向けると、静かに立ち上がって頭を下げた。
「・・・静恵さん」
「状況が分からないんだ。詳しく話してくれないか?」
重く立ち込める沈黙を破ったのは五十嵐だった。彼の言葉に反応を示したのは磯だけで、静恵は申し訳なさそうな表情を浮かべて俯いている。口を開いた磯は現在の状況を、二人に順序よく話し始めた。
一週間ほど前に制限された夏海の自由時間。夏海を知る子供の目撃証言。電話越しで磯から聞いた話がようやく全貌を垣間見せ、同時に二人の口を閉ざさせた。
「・・・二人が姿を消してから、三時間は経っている」磯は視線を窓へと移し、かすかに茜に染まり始めた空を見つめた。「今も歩ちゃんと友達が心当たりを探しているようだけど、・・・正直、あまり期待は持てない」
「何かあった場合は、どうするんだ?」磯の言葉に静かに耳を傾けていた五十嵐が、真剣な表情でようやく口を開いた。「準備は出来てるのか?」
「あぁ。入口と裏口にはストレッチャーが準備してあるし、彼女の部屋に治療用の機材も搬入している。実際は気休め程度かもしれないが」
磯が口を閉ざすと同時に、室内は再び重い沈黙に包まれた。室内に居る誰もが途方もない不安に呑まれながら、何も出来ない自分がもどかしいと思っているに違いない。
「・・・こんなことになって、本当に、すいません」
高橋と五十嵐の前で初めて口を開いた静恵は、消え入りそうな声で謝罪の言葉を呟いて深く頭を下げた。瞳からこぼれる水滴がテーブルに弾け、高橋は見ていることが耐えきれなくなって視線を反らした。
周りにこんな思いをさせてまで、何故彼は行動を起こしたのだろうか。ここに居る誰もが間違いだと理解しているのに、何故彼はその行動を選択したのだろうか。理解出来るはずもない疑問を自分に投げかけて、高橋は眉をひそめた。
「俺の想像だけど・・・」意気消沈する静恵を慰めようとした磯が口を開いた。「今回のことは恐らく、咲月君の意思じゃないんだと思うんだ。多分、夏海ちゃんが彼に頼んだことだと思う」
磯の言葉に、高橋と五十嵐は小さく頷いた。二人とも車内でそういう結論に至ったからだ。
「・・・それでも、許されることじゃないわ」震える声を必死に抑えながら、静恵は俯いたまま小さく首を振った。「どうして・・・」
どうにもならないほど重くのしかかる空気感に、高橋はため息混じりに背もたれに体を預けた。そうして思考を空にして考えるという行為を放棄しようとした時、それは閃光の如く刹那の速度で高橋の思考を埋め尽くした。考えないことで閃いた可能性。それは一秒毎に、確信へと近付いていく。
「・・・高橋先生?」
悲痛に暮れる静恵の背中を摩っていた磯が、訝しげな表情で高橋を見つめていた。その視線に気付いてようやく我に返ることの出来た高橋は、目を見開いたまま体を起こした。が、意識はすぐに内側に向いてしまう。
「・・・大丈夫ですか?」磯の二度目の問いかけに、高橋は小さく頷いた。閃いた可能性を言葉にするために、思考は極限まで回転速度を上げていく。そのせいか、高橋は眉間に皺を寄せて数秒間固まってしまっていた。
「・・・雨宮君は、何も悪くありません」高橋は眉を整理された思考を極力正確に言葉にするように、ゆっくりと喋り始めた。その言葉に五十嵐や磯、静恵までもが顔を上げて高橋一人に視線を注ぐ。普段ならたじろいでしまうような状況ではあるが、脳に神経を集中させている高橋にとっては気にもならなかった。
「・・・どういう、意味です?」隣の五十嵐は首を傾げて疑問を口にした。しかし、問いかけられた高橋はまるで聞こえていないかのような素振りで、視線を微塵も動かさず、自分のペースで言葉を紡ぎ始める。
「・・・そうです。普通に考えれば、確かに許されることではありません。もし彼女の身に何かあったら、尚更です。そう、普通に考えればです」
「・・・高橋先生」言葉を選ばない高橋に向かって磯は眉間に皺を寄せて注意を促した。だが、その言葉にも高橋は耳を貸さなかった。まるで何かにとりつかれたかのように、高橋は言葉を続ける。
「でも、もし磯先生の言葉通り、彼女がそれを望んだなら、彼女自身が、自分の命よりも強くそれを望んだなら、雨宮君が取った行動を間違えているなんて、誰が言えますか?彼女の望みが、彼にとっても、命より大切にしなければいけないものだったんです。だから・・・」
「だとしても!」高橋の言葉を制するように、磯は声を張り上げた、言葉を打ち切られることで我に返った高橋は、磯と視線を合わせて息を呑んだ。彼の瞳は、明らかに怒気を孕んでいる。「・・・もう、二人だけの問題ではありません。周りを巻き込む以上は、彼の選択が許される道理がありません。貴方は、感情論だけで、命を軽視するつもりですか?」
「・・・それは」
磯の言葉にいとも容易く論破された高橋は、言葉を続けることが出来ずに俯いた。必死に思考を巡らせて言葉にしたつもりだったが、所詮は付け焼き刃である。二人の主観を説いたところで、客観的な意見、それも命を預かる側の正論を論じられればそれまでだった。一目で分かるほど気を落とした高橋の肩に、隣の五十嵐がそっと手を置いた。
「高橋先生の意見を、否定するつもりはありませんよ」五十嵐は穏やかな微笑みを浮かべて言うと、磯に向き直った。「俺らだって、お前の意見が正しいと思ってる。でも、そう簡単に、割り切れないだろ?」
諭すような五十嵐の口調に、磯は少し考え込むように黙り込むと、高橋に向かって頭を下げた。突然の謝罪に面食らった高橋も、倣うように頭を下げる。
「・・・まぁ、ここで話し合ったところで、事態は何も変わりませんから」五十嵐は二人の仲裁を終えると、ため息を吐きながら突然の論争に瞬きを繰り返している静恵に視線を向ける。「静恵も、あまり気を落とすなよ。起きたことはどうしようもないし、お前に責任があるわけじゃない」
「・・・でも」
「俺達に出来るのは、二人が帰ってくるのを待つだけだ。話はそれからだよ」
静恵が震える声で言葉を紡ごうとしたが、それを五十嵐は畳み掛けるように制した。冷めた言い方ではあったが、それが、この中で一番状況を把握している何よりの証拠だった。おそらく、唯一彼だけが、関係性にも縛られずに感情を移入することなく状況を客観的に観察出来るのだろう。
再び重くのしかかる沈黙に耐えかねて、高橋は窓の外に視線を移した。瞳に映る空はまるで海が燃えているような、青と茜のグラデーションに包まれていた。
同じ風景を、あの二人も見ているだろうか。高橋はそんなことを考えながら、小さなため息を吐いた。
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