第37話

第37話

「・・・どういうこと?」


仕事場でデスクに腰を下ろし素早くキーボードを叩いていた静恵は、耳元に挟んだ携帯に向かって眉間に皺を寄せながら疑問を投げかけた。


電話の相手は磯で、彼は夏海が病院に居ないこと。それに咲月が関与していることを手短に述べただけだった。もちろん、言葉としては理解出来るが、背景や経緯が分からない以上、意味について理解を示すことは困難である。意味が分からないという疑問ではなく、理解が出来ないという問いかけだった。


『・・・お前には、話してなかったな』わずかな沈黙の後、磯は言葉を続けた。『状況が状況だから。今、夏海ちゃんの自由時間は一時間と病院の敷地内っていう制限がされているんだ』


「・・・それで?」静恵はキーボードを叩く速度を緩めることなく問い返した。


『一時頃、咲月君と病院を出る夏海ちゃんが目撃されているらしい』


「・・・えっ!」


淡々と紡がれる言葉に、静恵は声を失って勢いよく立ち上がった。シンプルな円形の掛け時計に視線を向けると、時計の短針は今まさに三を示そうとしている。


『・・・今の彼女の体力じゃ、もしまた容態が悪化した時、迅速な対応をしても間に合うかどうか・・・』


「今からそっちに向かうわ!咲月には私から連絡してみる!」


静恵は同僚の目も気にせずに声を張り上げて、急いでパソコンをスリープさせた。コートを手に素早く歩き出すと、近くで静恵から書類を受け取ろうと待機していた笠井が首を傾げた。彼は今日、珍しく日勤だった。


「どうしたんですか?そんなに慌てて・・・」


「笠井君!後は頼むわ!何かあったら電話して!」


静恵は一方的に笠井に言い放つと、急ぎ足で部屋を後にした。仕事を丸投げされる形となった笠井は急ぎ足で消えていく上司を見送った後、小さなため息と共に自分のデスクに腰を下ろし、突然のことに呆けている同僚一人一人に指示を出し始めた。


エレベーターに乗り込んだ静恵は、密室に備え付けられている姿見に自分の姿を映し出して軽く身支度を整えた。目の前に居る自分を眺めながら大きく深呼吸をして、思考を鋭敏に研ぎ澄ませる。


何故、夏海を連れ出すような真似を、咲月はしたのだろうか。意識を集中させていくつも浮かび上がる推測を取捨選択する。一つ一つ天秤にかけて、残った一つを再び他の可能性と天秤にかける。


咲月が進んで夏海を連れ出すなど、静恵には到底考えられなかった。現在の彼女の容態を医師の次に詳しいのは毎日見舞いに出向いている彼であるし、彼女を危険な目に晒すことはないはずだ。その仮定を前提に考えると、夏海が咲月を連れ出したのではないかという結論に至る。可能性は低くはないし、電話越しに聞かされた状況を照らし合わせても辻褄が合う。


だが、経緯や理由がどうであれ、それがたとえ、夏海が望んだことであれ、咲月が選んだ選択は許されるものではなかった。憤りと焦燥をミキサーでどろどろにしたような感情が、静恵の体を徐々に蝕んでいく。


エレベーターが大きく口を開くと同時に、静恵は急ぎ足で飛び出した。携帯をコートのポケットから取り出しながら、周りの視線を気にせずロビーを横断する。自動ドアをくぐって外に出ると、真上から傾き始めた陽光が、静かにビルの隙間に沈もうと準備していた。


静恵はコンクリートの壁に身を預け、携帯を耳に当てた。不安と焦燥で心拍数が上がっているのが、かすかな手の震えによって自覚出来る。何度も繰り返される電子音。それが十回ほど鼓膜を震わせ、ため息混じりに諦めようとかすかに耳を離した、その時だった。


『・・・はい』


耳を疑ってしまうようなか細い声。それは間違いなく咲月の声だった。静恵の抑えていた感情はその声に呼応するかのように瞬く間に肥大していった。しかし、表面の自分は冷静さを取り繕おうと必死で、静恵は空いている左拳を握り締めながら小さく深呼吸をした。


「・・・咲月。貴方、今、どこに居るの?」


冷静さを保ち、諭すように口を開く静恵に、受話器の向こうの咲月はすぐに反応しなかった。言葉を紡ぐことすら躊躇ちゅうちょを見せる彼に、静恵は思わず痺れを切らした。


「答えなさい!どこに居るの!」


『・・・言えません』


張り上げた静恵の言葉を、咲月ははっきりと拒絶した。しかしその声音に、気負いなど微塵も感じられなかった。たった一言が、彼の意思の強さを静恵に強く物語る。だが、彼の意思を尊重するなど、今の状況で静恵に出来るはずがなかった。


声を荒げた自分を戒めるため、静恵は一度深呼吸する。自分の出方を窺っているのだろうか、短くも長くも感じられた深呼吸の間、電話越しの咲月が口を開くことはなかった。


自分の責任を、義務を、静恵は思い出す。親が子にしてあげられることは、しなければいけないことは、一体何だろうか。痛みを分かち合うこと。無償の愛を与えること。正しさを、教えること。


「・・・自分が何をしているか、分かっているの?」


静恵は諭すように口にしながら歩き出し、大通りへ出て道路を見渡した。ちょうどこちらに向かってくるタクシーが見えたので、その方向に向かって小さく手を挙げる。


『・・・分かっています』静恵の鼓膜を揺さぶる咲月の声には、やはり迷いは微塵も感じられない。


「・・・たとえ夏海さんに頼まれたとしても、貴方がしていることは、・・・決して、許されることではないわ」


『・・・それも、分かっています』電話越しの咲月は淡々と、しかし力強く答えた。内容は聞き取れないがかすかに聞こえてくる女性の声に、どうやら咲月は耳を貸していないことが窺える。『責任は、全て俺にあります。どんな償いも、きちんと受けます』


声音から伝わる意思と決意が、静恵の言葉を濁らせる。電話の声の主は、一体誰なのだろう。少なくとも、自分の知っている咲月とは、到底思えなかった。


「・・・咲月?」


タクシーに乗り込んだ静恵は運転手に行き先を告げ、黙ってしまった電話の向こうへと問いかけた。何か言葉を発していないと、耳障りな沈黙に押し潰されてしまうような気がした。


『・・・迷惑かけて、本当に、すいません』


かすかに震える声で静恵に告げると、咲月は一方的に電話を切った。会話の終焉を告げる一定の電子音が、無慈悲に鼓膜を震わせる。


静恵は携帯を閉じ、大きなため息を吐いた。自分の言葉が欠片も届かないことが悔しく、情けなかった。今まで自分は、彼に何を与えてあげられたのだろう。何を教えてあげられたのだろう。ただ、居場所だけだったのだろうか。消極的な思考は鎖のように繋がり、感情の起伏を下へ下へと落としていく。終わりのない負の連鎖を何とか絶ち切ろうと、静恵は一度深呼吸をした。


思案に耽っていると、静恵を乗せたタクシーは既に病院の敷地内へと進んでいた。静恵は素早くタクシーから降りて、病院の中へと足を踏み入れる。すると、見覚えのある後ろ姿が受付にあったので、静恵は周りの視線を気にせずにその人物の元へと駆け出した。


「直哉、何か進展はあった?」


足音と声に振り向いた磯は静恵を視界に入れると、沈痛な面持ちで小さく首を振った。その仕草が、好転していない状況を暗に示している。


「高橋先生の方にも連絡はしておいた。歩ちゃんや友達が手分けして探してくれてはいるんだが、・・・あまり期待は出来ないな」


「・・・そう」静恵は表情を曇らせて小さなため息を吐いた。


「咲月君と連絡は取れなかったのか?」磯の問いに、今度は静恵が小さく首を振った。


「取れたには取れたけど・・・、私の言葉には、耳を貸してくれなかったわ」静恵は顔を伏せ、自嘲的な笑みをこぼした。「・・・駄目ね。母親のつもりだったのに。私、何もしてあげられない」


ため息と共に閉じた瞳に、記憶に残る映像がフラッシュバックする。それは容赦なく、静恵の涙腺を緩ませた。


『・・・静恵さんの、お陰です』


たいして広くもない台所で二人並んで料理していた時、不意に思って口にした何気ない言葉に、咲月は微笑んでそう答えてくれた。その時の喜びが、今は苦しかった。


「・・・そんなことはない」頭上から降り注ぐ声に、静恵は顔を上げた。


磯は穏やかな表情で、静恵にハンカチを差し出していた。それを受け取った静恵は目尻をそっと拭い、彼の言葉に耳を澄ませる。


「咲月君は分かっているよ。お前が守っていたことも、お前に守られていたことも」磯が紡ぐ静かな言葉が、静恵の耳から体へと浸透していく。「だからこそ、お前の電話に出て伝えたかったんだよ。自分が今、どうしたいのかを」


「でも・・・」


「今は、待とう。こっちも何かあった時のために万全を期しているから。ただ・・・、待とう」


磯は強い眼差しで拳を握り締めながら呟いた。夏海の容態を誰よりも熟知している彼だからこそ、誰よりも今の状況をもどかしく感じているのだろう。表情や仕草から窺える余裕のなさが、状況の深刻さを克明に感じさせる。


静恵は小さなため息と共に、病院の入口に視線を向けた。そんな行動は無意味だと分かっていても、そうせずにはいられなかった。

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