第36話

第36話

バランスを崩しながらも階段を一段飛ばしで駆け降り、歩は廊下を忙しなく歩く看護師の制止をかわしながら、磯が勤務している医務室へとたどり着いた。扉を開くと、机で書き物をしている磯が驚きの表情で顔を上げた。


「・・・歩ちゃん?」


歩は入口で立ち尽くし、肩で息をしながら素早く医務室を見渡した。診察の椅子にもベッドにも患者の姿はなく、視界から伝達される情報が一縷の望みを跡形もなく砕いていく。


「どうしたんだ?そんなに慌てて・・・」


余裕のない表情で入口から動かない歩に磯は駆け寄って問いかけた。歩の行動が普通ではないことを素早く察したのだろう。歩は彼の白衣の袖を握り、すがるような瞳で見上げた。


「・・・居ないの。お姉ちゃんが、居ないの!」


張り上げた自分の声が震えていることに歩は声を出したことでようやく気付き、その言葉を耳にした磯は一瞬で表情を険しくすると、奥から何事かと顔を覗かせた看護師にいくつかの指示を出して医務室を飛び出した。慌てて歩もそれに続く。


階段を駆け上って病室にたどり着いた磯は、中に入って素早く見渡すと、すぐに状況を把握して部屋の奥へと駆け出し、窓から見える眼下の裏庭に視線を落とした。歩も彼に追い付き裏庭を視界に収めたが、先ほどと変わった様子はかけらもなく、誰一人見当たらなかった。


「談話室は!?」


緊迫した磯の表情と言葉に歩は素早く首を振り、談話室でたわむれていた香織から聞いた話を彼に聞かせた。姉が咲月と共に出掛けたらしいこと。出掛けてから既に、一時間半以上が経過していること。耳を傾けていた磯の表情は更に曇り、彼は自身を落ち着かせようと一度深呼吸をした。その冷静さを保とうとする動作が、冷静さを完全に失っている歩の胸中を更に焦りで掻き乱す。


「先生、・・・どうしよう」


「・・・」


磯はもう一度深呼吸をすると、裏庭から顔を上げて歩の肩にそっと手を置いた。怖いほど真剣な眼差しが、歩の瞳を真っ直ぐに射抜く。


「咲月君の連絡先を知っているなら、連絡を取って。もし彼が出ないなら、・・・探すしかない」


磯はため息と共にきびすを返して歩を進めた。焦燥を隠せない歩はすがり付くように彼の後に続く。


「探すって・・・」


「とりあえず人手を集めよう。歩ちゃんはいつも一緒に来ている派手な子と連絡を取って。俺は動けそうな人を探してくる」


「でも、何かあったら・・・」


「すぐに処置出来るよう準備はしておく。急ごう」


病室の外に出た磯が駆け出すと同時に、歩も階段へ向かいながら携帯を取り出した。指先を懸命に動かして咲月の番号を呼び出し、階段を駆け降りながら耳に当てる。


規則的に続く、断続的な電子音。繰り返される度に、焦燥が膨れ上がっていく。出られないのか、出ないのか。その二つの差は大きい。


十回以上鳴らしても咲月が電話に出ることはなかった。病院を後にした歩は次に結城の番号を呼び出して耳に当てた。電子音は二回で切れ、聞き慣れた声が耳を掠める。歩は駆ける歩調を緩めて、神経を聴覚に集中させた。


『おぅ。どうした?』


「お姉ちゃんが居ないの!」


歩が突然張り上げた声によって、受話器の向こうは一瞬の静寂に包まれた。その静寂の間に歩は立ち止まり、大きく深呼吸をして冷静さを取り戻そうと試みる。自分が随分取り乱していることをはっきりと自覚することが出来たので、その自覚と深呼吸でいつもの自分を思い出し、繋ぎ止めようとする。


『・・・悪い。状況がよく飲み込めないんだけど』


困惑を隠さない結城の言葉に、歩は簡単に経緯を説明した。それを聞いた彼は受話器の向こうで唸りと共にため息を繰り返す。


『・・・その、香織ちゃんが言っていることは、間違いないんだな?』


コンクリートの壁に体を預けた歩は息を整えながら受話器越しに頷いた。道路を通り過ぎる人は深刻な表情を浮かべながら肩で息をしている歩を一瞥するだけで歩き去っていく。そんな当然のことでも、その無関心さが余裕のない歩には不愉快に思えた。


「雨宮君と連絡が取れなくて・・・。探すって言ったってどこを探せばいいか分からないし・・・」


『咲月がよく行く場所か。・・・俺も分かんねぇな。でも、あいつがそんなことをするとは、・・・どうも思えないんだよなぁ』


「でも、実際雨宮君と・・・」


そこまで言葉にして、歩は息を呑んだ。電話越しの疑うような結城の言葉が、冷静さを取り戻そうとする脳内に入り込んで思考をみるみるうちに加速させていく。


咲月がそんなことをするはずがない。それは誰よりも自分がよく理解しているはずだ。彼がどれだけ姉を想って大切にしているかを、周りとは違う感情で彼を見ているだけに、嫌になるほど痛感しているはずだ。


だからこそ、咲月には出来ない。その想いがあるからこそ、姉を自分から危険に晒すことなど、出来るはずがない。


それ以外で今の状況を説明するとなれば、可能性は一つ。


姉が、咲月を、連れ出した。


そう考えれば、辻褄つじつまが合う。たとえ咲月にそんな気がなかったとしても、姉が望み、訴えれば、彼はどんなに葛藤しても首を縦に振るだろう。わずかに残された姉の強い意思を前に、彼は抗うという選択肢を捨てるはずだ。


その答えが間違っていなければ、探す場所の検討が、そもそも異なってくる。


「・・・あっ!」頭の中で風船が弾けたような感覚と共に、歩は地面を蹴っていた。「海!海よ!」


『・・・海ぃ?』


「そう!お姉ちゃん、ずっと言ってたの!」歩は通行人の目を気にせず声を張り上げた。「入院してから、海に行きたいって!ずっと!」


『・・・分かった。とりあえず近くから探してみる』電話越しから声と共に衣擦れの音が聞こえる。おそらく結城は電話をしながら支度を進めているのだろう。


「お願い!じゃ!」


歩は一方的に言い放つと電話を切って、意識を走るという行為に集中させた。とりあえずは、大通りに出てタクシーを拾わなければならない。


切れ切れの息で、歩はただ姉の無事を祈り続けた。

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