第35話

第35話

午前中の授業を終えて一度帰宅し、昼食などを済ませて病院にたどり着いた歩は、いつも通り受付で記入を済ませてエレベーターへと向かった。昇降ボタンに触れるとそれは明るく点滅し、三台の内の一番階数が近いエレベーターを静かに呼び寄せる。歩はエレベーターに乗り込んで姉の入院する階のボタンに触れると、壁に身を預けて小さく深呼吸した。密室の中の静寂が、わずかな振動と共に歩を運ぶ。


テスト期間や行事があるわけではないので、もちろん学校の授業は午後もカリキュラムが組まれている。しかしここ最近、歩は午後の授業には出席していなかった。


無論、理由は姉の夏海である。彼女の容態がどうしても気掛かりだったので、歩は午後になったら極力病院に足を運ぶようにしていた。担任の高橋は事情をある程度把握しているので、歩のその行為に異論を唱えることはなかった。歩にとっては、それが救いだった。


その分、勉強が遅れてしまうのは大きな弊害だったが、友人が親切にノートをコピーしてくれるのでその問題はすぐに改善することが出来た。それを後日、結城と共に咲月に教えているのである。


姉の見舞いや咲月に勉強を教えることで日常生活の負担は確かに多くなっていたが、歩はそれで構わなかった。姉や咲月と共に過ごす時間が、今の自分にとって何よりも最優先だったからだ。姉に残されたわずかな時間を、咲月と共に過ごしたかった。エレベーターは静かに停止し、歩を密室から解放する。いつものようにナースステーションに顔を出してから、姉の居る病室に足を運んだ。


「お姉ちゃん?」


病室の扉を開いて、歩は室内に呼び掛けた。しかし返答は一つもなかった。足を踏み入れた歩は病室を見渡して、姉が居ないこととジャケットが無いことを確認する。


姉の自由時間と行動範囲の制限は歩も磯に聞かされて把握していたので、歩は窓に近寄り眼下に広がる裏庭に視線を向けた。しかし、視界に人影は一つも映らなかった。


(・・・じゃあ、あっちかな?)


歩は病室を後にして廊下の突き当たりにある談話室を目指した。病院の敷地内しか移動がままならない姉にとって、向かう場所は極端に限られている。今まで裏庭と談話室を探して彼女が居なかったことは、検査の時ぐらいだ。


「お姉ちゃん?」


歩は入口の扉に手を触れながら、素早く談話室を見渡した。しかし、目的である姉の姿は見当たらず、テーブルを囲んで騒いでいる子供達の視線が一斉に歩に注がれる。


「あっ!歩お姉ちゃん!」


その中で一人、姉と一番親しい香織が歩の存在に表情を輝かせて走り寄ってきた。面識のある歩は、もう一度談話室を見渡しながら目の前にたどり着いた香織と視線が合うように屈み込んだ。子供達なら、姉がどこに居るかを知っているかもしれない。


「香織ちゃん。夏海お姉ちゃん、どこに居るか知ってる?」


歩の問いに、香織は無垢な表情のまま首を傾げた。それは分からないという意思表示ではなく、子供特有の意味のない反射的な仕草である。


「夏海お姉ちゃん?夏海お姉ちゃんなら、咲月お兄ちゃんとお出掛けしました」


「・・・それ、いつ頃か分かるかな?」


歩は笑みを薄めて、再び香織に問いかけた。鼓動がかすかに速さを増していく。香織は再び小さく首を傾げて、談話室に取り付けられている壁時計を目一杯見上げた。つられて歩も倣うように視線を移す。白く丸いどこにでもあるような時計の盤面で規則的に動く二本の針は、午後二時半を示している。


「えっと・・・、短い針が一で長い針が十二だから、あっ!ちょうど一時です!」


時計の針を正確に数えられたのが嬉しかったのか、香織は自慢気じまんげな笑顔で語尾を強めた。しかし、歩にそれを褒める余裕は、その言葉によって掻き消されてしまった。


姉に許されている病室からの外出時間はわずか一時間である。だが、香織の話が本当であれば、彼女は既に一時間半以上外出していることになる。


そして、裏庭や談話室に姿がないということは、彼女は一体どこに居ると言うのだろうか。香織の言葉が、妙に引っ掛かる。


「・・・歩お姉ちゃん?」


香織の呼び掛けが、歩の意識を思考から現実へと引き戻させる。我に返った歩は反射的に笑顔を浮かべて、香織の頭をそっと撫でた。


「・・・よく、数えられたね。ありがと」


歩は満面の笑みを浮かべる香織にそう言い残すと、素早く談話室を後にした。エレベーターまで足を運んで、磯が仕事をしている医務室に向かおうとボタンに触れた、その時だった。


(・・・雨宮、君?)


突然歩に襲いかかる、得体のしれない不安。それはまるで風船のように瞬く間に膨張し、歩の思考を加速させる。


仮説が仮説を生み、その負の連鎖が心臓を締め付ける。そんなことはないと思う意思が、膨らむ不安によって簡単に消し去られてしまう。


咲月が姉の側に居るならば、何故時間通りに部屋に戻らないのか。彼がその時間を守らなかったのは、今まで一度もない。


(・・・何か、起こったんじゃ)


(違う!)


(お姉ちゃんが駄々をこねて、制限された時間を引き伸ばしてるんじゃ・・・)


(違う!違う!)


どんなに正当そうな理屈をねても、負の仮説の前には許されず、それはどこまでも嫌な想像を穿うがっていった。とうして導き出された最悪の想定に、歩はまだ開かれていない鉄の扉を前に目を見開いた。


(・・・雨宮君が、お姉ちゃんを、・・・連れ出した?)


エレベーターの到着を知らせる音を合図に、歩は地面を蹴った。開かれた扉には目もくれず、階段を目指して駆けていく。


診療中。その一縷いちるの望みに、歩は賭けたかった。

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