第34話

第34話

咲月は病室の扉をノックして室内に顔を覗かせた。目の前には毎日変わらない白い内装が、咲月のことを出迎えた。


「夏海、おはよう。あ、体起こして大丈夫なのか?」


「おはよ。うん。今日はとても調子が良いから」


病室の奥のベッドでは、夏海が体を起こしていた。必要な点滴や吸入は既に済ませてあるらしい。彼女は窓の外に向けていた視線を咲月へと移し、満面の笑みを浮かべた。


咲月が夏海と出会って、暦は既に一月ひとつきが経過していた。咲月が彼女の余命を知ってから、三週間ほどである。時の流れは当たり前のように平等で、無慈悲むじひに移ろっていった。


三週間前。咲月の目の前で初めて夏海が発作を起こした日から、彼女を既に四回の発作が襲っていた。それは日に日に間隔を狭め、彼女の体力を徐々に奪い取っていく。一日を終える度に咲月は安堵の息を漏らし、一日が明ける度におびただしいほどの不安に襲われて病院へと足を運ぶ。病院に行くだけの、変わらない日常。それはまるで、命綱のない綱渡り。


「・・・そっか。良かった」


咲月は夏海の笑顔に微笑みを返して、壁に立て掛けられているパイプ椅子を広げた。半分だけ開けられたカーテンを全て開け放し、パイプ椅子に腰を下ろす。


「ありがと。良い天気だね」


「・・・そうだな」


窓の外に視線を向けて目を細める夏海に倣って、咲月も外へと視線を移した。窓から覗ける外の風景は溢れるほどの陽光に晒されていて、道行く人の服装を視界に入れなければ春と勘違いしてしまいそうな天候である。


一週間ほど前から、夏海には外出の制限が課せられていた。極力は自由にさせてあげたいという担当医である磯の計らいと、患者の状態を正確に把握している病院側の主張が絡み合った譲歩案である。


制限は二つ。病院の敷地内から出ないこと。自由時間は一時間。入院患者とはいえ自由に過ごしていた夏海にとって突然の制限はかなり過酷だと思われたが、彼女は一切異論を唱えなかった。自分の状態は自分が一番分かっているからなのか、病院側の譲歩を真摯に受け止めたのかは、咲月には分からなかった。


咲月にとって、病院側が下した決断に夏海が素直に従ったのは単純に嬉しかった。度重なる発作に狼狽うろたえては、治療の際に病室の外で無力感に苛まれるのが耐えがたいからだ。その不安や無力感による自己嫌悪が少しでも軽減されるなら、それで十分だった。


ただ、ふと考えてしまう時がある。彼女は本当のところどう思っているのだろうかと。表面では従っているが、自分の置かれている状況を把握していて尚、自由でありたいと思うのではないだろうか。縛られたくは、ないのではないか。


「・・・夏海、行くか?」


一度思考を振り払った咲月は窓の外を見下ろしながら、夏海に問いかけた。与えられた一時間は、いつも二人で裏庭に行って過ごしているからだ。咲月の問いに、夏海は迷わず頷いた。




「そういえば、お昼、何食べた?」


裏庭にたどり着いた二人はいつも通りベンチに座り、煙草を吸いながら他愛ない会話を繰り返していた。煙草をくわえたまま問いかける夏海に、咲月は空を仰いで一瞬だけ記憶を辿る。


「冷凍の炒飯だよ。さっき起きたばかりだから、何か作るのも面倒だったし」


咲月は紫煙を吐き出しながら答え、夏海に視線を移した。彼女はベンチの上で体育座りをしているように体を丸め、咲月と視線を重ねると小さく吹き出した。


「ふふっ。いつもそんなにジロジロ見なくても大丈夫だよ」夏海は笑みを浮かべたまま、平手で咲月の背中を軽く叩いた。「今日は本当に調子良いから」


「・・・悪い」


視線の意図を気付かれた咲月は気まずそうな表情を浮かべて視線を反らし、頭を掻いた。外出の制限が下された際、咲月は磯に外出した時は夏海の状態を十分注意するようにと再三促されていた。気付かれないように見守っていたつもりだったが、どうやら徒労に終わっていたようだ。


「磯先生に言われてるんでしょ。でも、ありがと」


夏海は咲月に向けて、穏やかに微笑んだ。その仕草が、咲月にとってはとても可愛らしく見え、同時に胸に痛みを与える。


ただ、見守るだけ。それしか出来ない自分が、情けない。こんなにも近くに居るのに、差し伸べる自分の手には意味も価値も力もない。守りたいと思えば思うほど、無力感に苛まれる。


「・・・悪い。本当、何も出来なくて」


溢れだしそうになる涙を悟られまいと、咲月は呟きながら口を押さえて夏海から視線を反らした。悲痛が容赦なく胸を抉り、油断をしたら今にも嗚咽おえつが溢れだしてしまいそうだった。


「・・・側に、居てくれてるじゃん」夏海は穏やかな微笑みのまま咲月の背中に置いていた手を動かし、膝の上で握られている咲月の拳をそっと包んだ。「それだけで、・・・十分だよ」


「・・・」


咲月は口も開かずに、掌から拳に伝わる温もりや鼓膜を震わす声を、それらの尊さを心の底から噛み締めた。


失うのが、怖い。こうして近くに居れば居るほど、自分にとって彼女の存在がどれほど大きいかを重い知らされる。


その時、規則的で小さな電子音が耳を掠めた。咲月は我に返って目尻に溜まった涙を拭い、隣の夏海に視線を向けた。彼女はかすかに目を伏せて小さなため息を吐くと、ポケットの中に手を突っ込んだ。


かすかな音を奏でていたのは、夏海が取り出した腕時計だった。病室を出る前に確実に一時間後を知らせるようにセットしていた、アラーム代わりの時計だ。


その音が意味するのは、今日という一日の自由の終幕。


「・・・もう、時間か。行こう」


名残惜しくも咲月はその感情を振り払うように立ち上がって夏海へと視線を向けた。腕時計に目を落として思い詰めたような表情を浮かべた彼女は、咲月の言葉に答えないでいる。咲月は眉を寄せて首を傾げた。いつもならば言葉に頷くと同時に立ち上がるからだ。


「・・・夏海?」


二度目の言葉にも、夏海は反応を示さなかった。わずかに姿を現した沈黙が、風と共に騒がしく揺れる。


「・・・咲月。お願いがあるの」


沈黙を破った夏海は、普段とは違う重い声音で呟いた。顔を上げた彼女の瞳が、咲月の瞳にはかすかに潤んでいるように見えた。


「咲月と二人で、・・・海が、見たい」


その言葉を耳にして、咲月は夏海から視線を反らした。それは彼女がどんなに口にしても、咲月には叶えることの出来ない願いだった。


「・・・元気に、なったらな」


一瞬言葉を詰まらせて、咲月は夏海に視線を戻さずに答えた。慰めにすらならない空虚くうきょな言葉が、自分自身の胸を抉る。彼女の前ではどんな言葉も意味を成さない。それでもそんな陳腐な言葉を口から漏らして、彼女の言葉から逃げるしかなかった。


「・・・本気で、言ってるの?」


押し殺したような声ではっとなり、咲月はようやく視線を移した。ベンチにいまだに腰を下ろしている夏海は、潤んだ瞳で咲月を見上げている。いや、睨んでいる。その鋭い眼光は、まるで咲月の焦燥しょうそうを見透かしているようだった。


「・・・今は、無理だよ。磯先生だって許すはずが・・・」


「だから!」顔を伏せた咲月の言葉を必死の形相で制した夏海は、そっと伸ばした手で咲月の袖を掴んだ。「・・・だから、咲月しか、いないの」


「・・・」


袖を掴む夏海の手が、かすかに震えていた。咲月はどうしていいか分からず、言葉を返せないでただ必死に見つめる彼女を見返すことしか出来なかった。


夏海の願いを叶えること。それは咲月には許されざる行為だ。制限や磯との約束はもちろん、自分自身が彼女の体を心配しているからだ。ここまで生きてこれた彼女の奇跡は、同時にいつ何が起きてもおかしくはない危機的な状況の裏付けに他ならない。そんな中、制限を越えての外出など、一歩間違えれば自殺行為に等しい。


「・・・無理、だよ」


咲月は掴まれた袖を振り払うこともせず、項垂うなだれながら落とすように呟いた。その時、力なく袖を掴んでいた夏海の手がかすかに強さを増した気がした。同時に、小さな何かが咲月の手の甲を叩く。


「・・・お願い。・・・もう、時間が、ないの」


袖を握る手が、手の甲に落ちる水滴が、咲月の胸中を、加減を知らないように握りしめる。当然の意思が、いとも容易く揺らいでしまう。


顔を上げた夏海の頬に、静かに涙が伝っていた。すがるような瞳が、咲月の瞳を捉えて離さない。


自分は彼女に、何が出来るのだろうか、何を与えられるのだろうか。瞬間的に繰り返される自問自答。その更に奥の方で、一つの疑問がかすかに芽を出す。一体、彼女の何を、自分は思って考えているのだろうか。


命か。


意思か。


あってはならないはずの選択肢が存在を現し、瞬く間に肥大していく。


「・・・分かった。分かったから、泣くなよ」


咲月は袖を掴む夏海の手を優しくほどき、彼女の前に屈み込んだ。返答の真意を理解していない夏海は何度か瞬きを繰り返す。その度に、涙が頬を伝っていった。


彼女の、望み。


それが、自分の、望み。


「行こう。でも、痛かったり気分悪くなったり、何でもいい。何かあったら隠さずに言うって約束してくれ。その時は、すぐに病院に戻るからな」


咲月は指先で夏海の目尻を拭いながら真剣な表情で彼女に言うと、すぐに腰を上げて神経を集中させながら辺りを窺った。いつも通りの広場に視線を巡らせても、幸い人の姿は確認出来なかった。近付いてくるような気配も、多分だが特には感じられない。


「・・・ありがとう」


夏海は涙の浮かぶ瞳を細めて微笑むと、辺りを見渡してからゆっくりと立ち上がった。立ちくらみのためか静かによろめいた彼女の体に、咲月は慌てて手を差し伸べる。


「・・・本当に、大丈夫なんだな?」


咲月が確認のために問い直すと、夏海は咲月に視線を向けて力強く頷いた。


「・・・分かった。急ごう」


咲月は夏海の手を握って歩き出した。辺りを警戒しながら救急車の搬入口の方へと向かう。そちらに裏門があるからだ。


波のように押し寄せる罪悪感を、咲月は掌から伝わる夏海の温もりによって黙殺した。


海を、見せなきゃ。


彼女の意思を選んだ咲月を隅々まで支配するのは、彼女の涙に応えたいという、たった一つの思いだけだった。

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