第四章

第33話

闇夜に浮かぶ満月を、咲月は居間の庭先に腰を下ろして缶ビールを片手に仰いでいた。街灯が見えないせいか、まるで満月を彩るように星屑があちこちで瞬いている。都会では決して見ることの出来ない、清廉せいれんな空気と自然光が作り出した幻想的な風景。


新藤夏海の墓参りを終えた咲月と歩と結城の三人は、随分と日も暮れていたので今夜は静恵の家に泊まることにした。日付が変わる前に寝床についたが、咲月はどうにも眠りにつくことが出来ずに、こうして一人で呑み直している。


煙草に火をつけた咲月は、肺に循環させた紫煙を細く吐き出した。それは一瞬で闇に飲まれて、咲月の視界から跡形もなく消えていく。


鼻をつくような味。爽やかなミントの香り。以前咲月が吸っていたのは、赤いパッケージのもので、メンソールの成分など入っていなかった。


今咲月が吸っているのは、夏海が愛用していた煙草だった。彼女が亡くなってから、咲月はいつの間にかその煙草を吸うようになっていた。彼女の記憶を縛りたかったのか、彼女の香りを離したくなかったのか、はっきりとした理由は今でも分からない。それでも、その煙草を吸い続けていた。


「眠れないのか?」


不意に投げられた後方からの声に、咲月は首だけを振り返らせた。居間の入口には結城が柱に体を預けている。彼の問いに、咲月は小さな微笑みを返す。


「晩酌なら、俺も混ぜろよ」


「玄関の脇に冷蔵庫があるから。あ、俺の分も」


結城は咲月の言葉に頷くと一度姿を消し、再び戻ってきた時には両手にいくつもの缶を手にしていた。彼は咲月の隣に腰を下ろし、一つだけ手に残した缶のタブを起こした。


「月見酒か」そう結城は呟くと、缶を傾けながら大きく喉を鳴らした。「庭のせいか、風情があるな。暗くてよく見えないけど」


「・・・そうだな」


咲月はそう返すと、改めて暗い庭を見渡したあと、再び満月を仰いだ。二人で酒を呑み交わすのは随分と久し振りだった。勤めてからはお互い仕事に追われていて、たまに時間が合えば、次の日を気にして居酒屋に軽く足を運ぶ程度だった。そのためか、二人の会話は途切れることがなかった。


話題は仕事の話ばかりだったが、過去の話になると、その中心は夏海との記憶だった。今思い出せば、真剣に話していた会話も他愛ないように思えたり、何気ない一言が大切な教訓のようにも感じられたりする。そうして記憶は再び鮮明さを増し、思い出に昇華されないでいる。


「あれ?二人とも何してるの?こんな時間に・・・」


一時間ほどそんな会話で触れ合い、アルコールが良い感じに体を循環し始めた時、再び後方から注がれた声に咲月と結城は振り向いた。そこには肌寒さのせいか白いカーディガンを羽織っている静恵が、首を傾げて佇んでいた。


「ちょっと眠れなくて。風に当たってたんです」


「あ、すいません。頂いてます」


二人の声に、静恵は微笑みと共に頷いて姿を消した。気配は台所まで進み、何やら作業を始めている様子だった。咲月は慌てて立ち上がり、かすかにアルコールでふらつく体を壁に手を触れることで支えながら台所へと向かった。そこではフライパンに火を通している静恵が、屈み込んで冷蔵庫の中を物色している。どうやら何かつまみになるものを作ろうとしているようだ。


「静恵さん、俺やります」


その声でようやく咲月の存在に気付いた静恵は、振り返って咲月の顔を仰ぎ見ると微笑みを浮かべて立ち上がった。手には数種類の野菜とハムが握られている。


「呑んでていいわよ。私も少しお腹が空いたところだから。簡単なものしか作れないけど、炒め物で構わない?」


「あ、・・・すいません。ありがとうございます」


咲月は少し恐縮しながら、慣れた手付きで野菜を刻み始めた静恵に頭を下げて居間へと戻った。庭先では缶に口をつけていた結城が不思議そうに首を傾げている。


「どうした?」


「静恵さんがつまみを作ってくれるって」


「おっ?やった!」


咲月の言葉に結城は無邪気な声を上げた。咲月は再び彼の隣に腰を下ろし、少しだけ残っていた缶の中身を一気に喉に流し込んだ。


十分ほど経った頃、静恵が盆を持って居間に現れた。盆の上には湯気と香りを漂わせる簡単な料理が二品置かれていた。彼女は場所を開けた二人の間に盆を下ろし、その場に腰を下ろした。


既に時刻は夜中の一時を回っていたため、静恵は料理を少しつまんだだけで寝室へと戻っていった。居間の明かりが気になってわざわざ様子を見に来てくれたことに、その時ようやく二人は気付いた。再び二人きりになった咲月と結城は、出された料理に感謝を込めて舌鼓したづつみをうちながら会話を弾ませた。


「夏海さんが生きてたらって考えたらさ」結城は突然含み笑いを浮かべながら咲月に視線を移した。「・・・何か、想像出来ないな」


結城の言葉に、咲月は想像を膨らませる。止まった時間を、今へと繋げる。


夏海がまだこの世に居るのならば、どんな姿で、何を話し、何を思うのだろうか。有り得るはずのない現在いま。考えれば考えるほど、あの頃の彼女の姿だけが、変わらずに胸の内をくすぶる。


「・・・変わらないよ。夏海は多分、変わらない」


「・・・そうだな」


咲月の断定的な言い方に、結城は小さく頷いた。彼は空の缶を潰して新しい缶のタブを起こす。既に彼が持ってきた缶は、二人が手にしている物以外全て空になっていた。


「・・・なぁ、結城」


「ん?」


酔いが回っていることが、自分でもはっきりと自覚出来る。そんな咲月の問いかけに、結城は缶に口をつけたまま視線を移した。


「・・・夏海のことを思い出す度、いつも思うんだ」咲月は結城には視線を送らず、満月を瞳に映しながら口を開いた。「・・・あの日、俺がしたことは、・・・間違ってたのかな」


今でも瞼の裏に鮮明に残る映像。海沿いの、夏海の後ろ姿。それは彼女のことを思い出す度にちらついては、かすかな重い痛みを胸中にほのめかす。


「・・・後悔、してんのか?」


赤らめた表情で真剣な眼差しを送る結城に、咲月は小さく首を振った。


「後悔とか、そういうんじゃないんだ。ただ、・・・もし俺があんな行動に出なければ、何かが、違っていたのかなって」


与えられた二つの選択。揺らした天秤が掲げた方。それを捨てた結果が現在だとしたら、掲げられた方には、一体どんな未来が描かれていたのだろうか。どんな結果が、待っていただろうか。


「・・・今更だろ。そんなこと」


煙草に火をつけた結城は両腕を床に突っ張って後方に体重をかけながら、視線を移して空を仰ぎ、紫煙を細く吐き出した。冷たく感じる言葉は、彼なりの不器用な優しさ。そこには沈黙とは違う暖かさがある。


「正解なんてないさ。ただ、自分が選んだ道を、後悔しないように進むしかない。お前自身が選んだことだし、・・・夏海さんが、望んだことなんだろ?」


「・・・あぁ」


咲月も煙草に火をつけて、紫煙を細く吐き出した。それは瞬く間に眼前の闇へと吸い込まれていく。視界はたちまち闇へと取り込まれ、記憶の引き出しを容赦なく開けていく。世界が、自分だけになる。


『・・・お願い。・・・もう、時間がないの』


悲痛な表情を浮かべた彼女が、すがるように掴んだ手の感触を、今でも覚えている。


『・・・いつかは、忘れちゃうのかな』


悲しげな微笑みを浮かべて呟いた彼女の表情が、夕闇の空に射されて美しかったことを、今でも覚えている。


『・・・ありがとう。・・・ごめんね』


抱きしめられた彼女が囁いた消え入りそうな言葉を、温もりを、今でも覚えている。


何度も、何度も、思い出しては。


何度も、何度も、打ちのめされる。


彼女の居ない、現実に。


突如としてせきを切ったように押し寄せる悲しみに、咲月は歯を食い縛った。開いた視界に映る満月が、静かに滲んで揺れていく。


「・・・大丈夫か?」


咲月の隣で心配そうに呟いた結城は、泣き顔を見ないように気を使って視線を空から動かさず、咲月の背中をそっとさすった。その手の温もりが涙腺を緩ませたのか、咲月の瞳から大粒の涙が落ちて弾ける。


「・・・あー、悪い」


咲月は震える声で結城にそう言い、声を殺して涙を流し続けた。押し寄せる悲しみになす術なく、ただ涙にすることで外に漏らすしかなかった。


まだ夏海のために涙を流せることが、悲しいと同時に、嬉しかった。

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