第43話

第43話

磯の手によって病室を追い出された咲月は、夏海の容態を気にする歩や静恵の質問には答えず、呆然と扉の前で立ち尽くしていた。結城が心配そうな声をかけてきたが、それにも反応を示さなかった。


時間だけが淡々と、残酷に過ぎていく。夏海の病室を追い出されてどれぐらいが経過したのかさえ、咲月にはもう分からなくなっていた。


目の前の扉が静かに開かれる。誰かがベンチから立ち上がる気配がした。病室の中から現れた磯は、目の前で呆然と佇む咲月に向かって、悲痛な表情で頭を下げた。


「・・・すまない。無力な俺を、・・・許してくれ」


苦しそうに紡がれた謝罪の言葉が、その場に居た全員に残酷な現実を突きつける。歩は何かを呟きながらふらふらと病室の中に入り、他の皆が心ここにあらずといった様子で彼女の後に続いた。


直後、大気を裂くように響く、悲鳴に似た泣き声。それを耳にした磯は強く目をつむり、震える拳を握りしめた。


それでも咲月は、立ち尽くしていた。世界がまるでフィルタがかかったように、現実感を希薄にさせている。磯が放った言葉も、響き渡る泣き声も、全てが曖昧に感じられた。


「・・・人一人、救えないで、・・・何が医者だ」


磯は自身を責めるように呟くと、ベンチに座り膝の上に肘を立てて顔を覆った。鼻をすする音が背後から聞こえる。それでもまだ、咲月は動けずにいた。


体の中から何かが抜け落ちたような、得体のしれない感覚。悲しみも苦しみも確かに在るはずなのに、それすらも曖昧に感じてしまうほどの、喪失感。以前にも似たような感覚を味わったことを、咲月は不意に思い出した。


・・・あの時も、そうだった。


・・・今も、そうだ。


・・・何が。


・・・何が、無くなったんだろう。


病室から出てきた結城が、袖で涙を拭いながら咲月の肩を叩いた。彼は涙をこらえるように唇を結びながらくしゃくしゃの顔を上げて、病室の奥を示す。自分も同じ顔を夏海の前でしていたのだろうかと、他愛もないことが咲月の頭の中を掠める。


「・・・お別れ、言ってこいよ」すれ違いざまに結城は咲月の背中を押した。


その動作でようやく一歩を踏み出した咲月は、その小さな勢いを頼りに歩き出した。何故か足が、鉛のように重く感じる。


病室の中では、泣き声を上げ続ける歩が床にへたり込んでベッドの上で突っ伏していた。彼女の背中を屈み込んだ両親がさすって慰め、それを囲むように高橋と五十嵐、静恵の三人が涙を流していた。ベッドの両脇では二人の看護師が、別れの邪魔をしないように口をつぐみ、沈痛な面持ちを浮かべて佇んでいる。


咲月の存在に気付いたその場の大人達は、何も言わずに道を開けた。それに促されるように咲月は歩を進める。咲月の気配に顔を上げた歩は咲月を視界に収めると、ぐしゃぐしゃの顔を更に歪めた。


「・・・お、お姉、ちゃんがぁ。・・・うぅ、あぁぁぁぁっ!!」


歩は最後まで言葉に出来ずに床に崩れ落ちてしまった。咲月はそっと彼女の頭を一度だけ撫でて、最後の一歩を踏み出した。


白いベッドの上。夏海は静かに眠っていた。明るい栗色の髪は室内の光を反射しているためか淡く輝き、睫毛まつげの長い瞳をそっとつむっていた。透き通るような白い肌と穏やかで安らかな寝顔が、まるで精巧せいこうに作られた人形を思わせる。


咲月はそっと手を伸ばす。指先が頬に触れ、その冷たさが伝播する。突然沸き上がる感情の奔流ほんりゅうに、咲月は彼女から目を反らして窓の外に視線を向けた。


漆黒の空には、満ち足りた月が佇んでいた。それは過去の慟哭どうこくが終わりを迎えたあの夜のような、綺麗な満月だった。


悲痛の涙が充満する室内で、咲月は大きく深呼吸をした。そうすることで沸き上がる奔流に、少しだけ蓋をする。


『最後ぐらい・・・、笑ってよ』


耳を燻る、夏海の言葉。応えることが出来なかった、最後の願い。咲月は再び夏海に視線を下ろし、小さく、優しく微笑みかけた。


もう、手遅れだろうか。


どこかで、見ていてくれるだろうか。


「・・・ありがとな」


そっと夏海の頬を撫でながら、咲月は呟いた。穏やかな寝顔は、何も応えない。それでも構わなかった。ただ、自分のために、言いたかった。


「・・・咲月?」


ようやく泣き止み始めた歩の頭を軽く叩いた咲月は、静恵の問いかけには答えずに病室を後にした。廊下では磯と結城がベンチに腰かけていて、咲月が現れると同時に顔を上げた。


「・・・大丈夫か?」充血した瞳で結城が問いかける。


咲月は何も言わずに小さく頷いて、言葉を交わさずに歩き出した。目的などなかったが、気付かぬ内に足が動いていた。


朧気おぼろげな静寂が廊下を走り、耳を掠める音はごくわずかだった。蛍光灯を通るかすかな電気の音。弱々しい風がそっと窓を叩く音。引きずるような、自分の靴音。


何かに誘われるようにたどり着いたのは談話室だった。室内は非常灯の緑の光と廊下から漏れる光、窓から射し込む月明かりだけを頼りにしていて、随分と薄暗かった。病院の中にあって唯一学校のように騒がしい空間も、今は眠るように静まり返っている。


咲月は窓に近付き、壁に体をそっと預けた。その動作に呼応するように、思考の片隅に記憶がよみがえる。


『今から私の格好いいところ見せてあげる』


悪戯いたずらな笑みを浮かべた夏海は、咲月にそう言って小さな女の子の元へと歩き出した。少女の髪を切る彼女のはさみに咲月は目を見開き、踊るように舞う指先に釘付けになった。


まるでその時の映像が幻のように目の前に浮かび上がるほど、鮮明な記憶。咲月はゆっくりと壁から体を離し、再び誘われるようにふらふらと歩き出した。


エレベーターに乗り、病院を裏口から後にする。顔を上げれば、目の前には見慣れた裏庭がいつもとは違うよそよそしい雰囲気でそこにあった。常夜灯が転々と裏庭の中を照らし、その中には見慣れたベンチもライトアップされていた。


『ねぇ!』


夏海は今咲月が立っている場所に佇み、ベンチに座っている自分に声を張り上げた。彼女の外見を眺めて綺麗だと思ったこと、見知らぬ他人に声をかけられて眉をひそめたことを思い出す。夏海はあの時、何を思って声をかけたのだろう。


二本の足が再び動き出す。咲月は裏庭の敷地内に入り、常夜灯に照らされているいつものベンチに腰を下ろした。


ふと空を仰ぎ見ると、漆黒に散りばめられたわずかな星屑の中で、それを束ねるように満ちた月が鎮座していた。常夜灯が瞬いていなければどれほど星屑が舞っていたのだろうかと咲月は残念に思い、冷たい夜風にさらされてかじかんだ手をポケットの中に入れた。その時、指先が何かに触れた。


取り出すと、それは夏海から受け取った緑色の煙草の箱だった。ついさっきのことだというのに、咲月はいつポケットに仕舞ったのか思い出せなかった。


最期に夏海が触れていたもの。しかし温もりは、何も感じられない。


箱から煙草を一本取り出した咲月は、それをくわえて火をつけた。慣れていない味だったが深く吸って、半透明の煙をそっと吐き出す。


鼻を掠める、ミントの香り。刹那せつな、思考が急速に動き出す。


フラッシュのように瞬いては消えていく、夏海の映像。それは目まぐるしく移り変わり、思考を、意識を侵していく。残酷なほど鮮明な無数の映像が、貪るように五感を支配する。


『ありがと。雨宮咲月君』


名前を呼ばれたことに目を見開いた自分を、彼女は不敵な笑みで見つめていて・・・。


『んー・・・、何でもいいよ。友達のこととか、学校のこととか。あ、恋人の話とかでもさ』


表情を綻ばせる彼女は、まだ話が始まってもいないのに楽しそうで・・・。


「・・・う、・・・うぅ」


蓋をした感情が溢れ出し、それは瞬く間に広がっていく。涙にして外に漏らしても間に合わず、許容量を容易く越えていく。


『話したくないことを聞くということは、相手の心を侵すってこと。分かる?』


歩に諭すように言う夏海の姿は、とても姉らしくて・・・。


『言葉にしなければ、伝わらない。伝えないものには、意味なんてない。だから、愛してると言ったお母さんの言葉は、どうか信じてあげて』


満月の夜の彼女の言葉が、永い慟哭どうこくの形を変えてくれて・・・。


どれほど、救われただろう。


どれほど、与えられただろう。


・・・どれほど、焦がれていただろう。


「うぅ・・・!」


止まらない嗚咽の隙間から鼻を啜る。必死に抑えようと深呼吸を試みるも、それは叶わない。


『・・・もっと、生きたかった。・・・生きて、いたかったよ』


必死に微笑もうとする彼女の泣き顔が、美しくて、悲しくて・・・。


『・・・出逢えて、良かったぁ』


消え入りそうな震えた最期の彼女の言葉が、今でも深く耳に残っていて・・・。


・・・何も、出来なかった。


・・・何も、してあげられなかった。


「うぅっ、う・・・。うあああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


泣いた。ただひたすらに泣いた。喉が掠れようと、声が枯れようと、天を裂くように声を張り上げ、地を叩くように涙を流し続けた。それはまるで、それしか知らず、壊れてしまったかのように。


愛していた。何よりも。


焦がれていた。誰よりも。


側に、居たかった。


それが今は、痛かった。


言いたかった。


言えなかった。


もう二度と、言うことが出来なくなった。


たった一つの、一言の気持ち。


咲月は全てを吐き出すように、恋の終わりを思い知る。


漆黒に浮かぶ満ちた月が、泣き叫ぶ咲月を、静かに見守っていた。

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