第28話

第28話

「ごめんなさい。迎えに来てもらっちゃって。私が誘ったのに・・・」


助手席に乗り込んだ静恵は、運転席でハンドルを握っている磯に軽く頭を下げた。彼の病院の方が静恵の仕事場より自宅に近いため、遠回りをさせてしまった格好なのである。


「そのぐらい気にするなよ。五十嵐と高橋先生も来るんだって?」


静恵は迎えに行くという磯からの電話の際に、掛かってきた五十嵐の着信について話していた。その会話には、もちろん咲月の処分についても含まれていた。


「えぇ。七時に約束をしたから。それにしても、とりあえず退学は免れて安心したわ」


「・・・良かったよ。本当に」


磯の笑顔に、静恵は満足げに頷いた。その笑顔が彼も本気で心配してくれていたのだろうと感じさせる。


「ありがとう。・・・これで、良かったのよね」


静恵は窓の外を眺めながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。暗闇に点々と灯る街灯が、次々と姿を現しては消えていく。その光の軌跡が、少し綺麗ではかなく見える。


「良かったんだよ。少なくとも、正解なんてない。だから、結果を見守るしかない」


「・・・そう。そうよね」


静恵は少し姿勢を正し、フロントガラス越しに前の車を何気無く見つめた。先日と同じように、赤いテールランプがゆらゆらと揺れている。


思えば、始まりは一週間ほど前だった。たったの一週間しか経過していないというのに、静恵を取り巻く環境は劇的に変化していた。それは静恵を取り巻く誰もが同じように感じているものだろう。


その中心は、咲月だと思った。彼の変化が連鎖のように反応し、周りの人間に変化をもたらしているのだと感じていた。しかし、根源は、彼を変化させた人物で、その人こそが、度々連鎖して起こる化学反応のような原因の本当の中心だった。


新藤夏海。静恵がその人物について知っているのは、名前と性別だけだった。


車はゆっくりと減速していった。静恵は思考を一時中断して、視界から入る情報を瞬時に記憶と照らし合わせる。そこは既に家の近くのコインパーキングだった。


静恵は助手席から降り立つと、小さく伸びをして関節をかすかにほぐしてからコートを羽織った。車内は暖房が効いていたので、家に着くまでは冷たい外気の中でもコートで体内に残った温度は保てるだろう。


「聞きたいことって、咲月君のことか?」


道中、黒いロングコートに身を包んだ磯が問いかけた。咲月は最近いつも病院に居るため、その様子のことを言ったのだろう。静恵は一度目配せをしてから、小さく首を振る。


「違うわ。咲月が病院で知り合った患者さんのことなんだけど・・・」


「あぁ、夏海ちゃんのことか」


磯は彼女の名前を口にすると同時に表情を曇らせた。それは昔からの彼の癖である。隠し事が上手と言えない彼は、代わりに喋りたくない意思表示を表情で示してしまうのである。静恵は一瞬考えたが、彼の瞳を見つめながら口を開いた。


「・・・知っているなら、教えて欲しいの」


しかし、静恵の言葉に磯は唸るばかりで答えようとはしなかった。首を捻ったり、空を仰いだりと時間を稼ぐような仕草ばかりを繰り返している。静恵は頼む側として焦らせることは出来なかったので、彼がはっきりとした回答を示すまで待つことしか出来なかった。


「あー・・・、デリケートな問題だからあんま話しちゃいけないと思うんだけど・・・」


回答に否定的な意見を発していた途中で、磯は突然口を閉ざして視線を落とした。静恵がそれにつられて視線を移すと、彼はコートのポケットから携帯を取り出して、それを耳に当てた。


「おぉ、どした。・・・あぁ、静恵から聞いてる」


かすかに聞こえてくる声と磯の口調から静恵は電話の相手が五十嵐ということに気付いた。静恵は邪魔をしないように口を閉ざしたまま、歩を進める足の爪先を眺めながら聞き耳を立てた。


「あぁ。・・・え?お前らもか?」磯は驚いた様子で一度静恵に視線を向けた。「・・・分かった。とりあえず、集まってからにしよう」


そう電話口に返した磯はおざなりな別れの挨拶で電話を切り、再び静恵に視線を向けた。


「五十嵐でしょ?彼、何て?」


静恵の質問に、磯は再び表情を曇らせた。


「・・・向こうも、夏海ちゃんのことが聞きたいんだってよ」


磯は頭を掻きながら空を仰いだ。彼の中で、間接的にでも関わっている以上話すべきだという思いと、医者としての立場というモラルが天秤を揺らしているのが表情や言葉から窺える。しかし、それでも静恵はただ彼の答えを待った。


気が付けば、既に家の前にたどり着いていた。我が家を視界に入れるだけで、安心と共に疲れが体を奔流ほんりゅうし始める。


「とりあえず、上がって」


「・・・あ、あぁ。悪い」


葛藤にまみれて上の空になっていた磯は、我に返って静恵が開け放った玄関に足を踏み入れた。静恵は玄関の戸をそっと閉めて、腕時計に目を落とした。


時計の針が示すのは、五十嵐と高橋との約束の少し前だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る