第29話

第29話

チャイムが鳴ったのは、静恵と磯が到着してから十五分ほど後だった。現在、居間には高橋と五十嵐と磯がテーブルを囲んで腰を下ろしていて、静恵が盆を持ったまま襖を開くと、三日前に瞼に残る光景と同じものが広がっている。


「コーヒーで良かったですか?」


「あ、ありがとうございます」


静恵は高橋に言うと、カップをそれぞれの前に並べてガラス製の灰皿をテーブルの中央に置いた。煙草を取り出したのは腰を下ろした静恵とその隣に座る磯だけだった。かすかな静寂が、紫煙と共に居間を揺らめく。


「・・・高橋先生は」静寂を破ったのは磯だった。彼は天井を仰ぎながら、言葉の途中で紫煙を細く吐き出した。「新藤夏海のことを、どこまでご存知なんですか?」


磯の問いに、高橋は姿勢を正して昼間の咲月とのやり取りを順を追って説明した。それは先週静恵が彼の口から聞いた話と大差なかった。


「・・・そこをご存知ですか。なら今更、隠す必要はないかもしれませんね」


磯は煙草を灰皿に押し付けて、一度深呼吸をした。かすかな沈黙。それは彼が言葉を整理する時間でもあった。


「・・・後から聞いた話ですが、彼女は小さい頃から心臓が弱かったそうです。当時の主治医が、長くて成人を迎えられるかどうかと診断しました。簡単に言うと、成長していく体の機能維持に、ポンプ役である心臓が耐えられないだろうということです。


それでも彼女は不平や不満を漏らさずに、幾度となく入退院を繰り返していました。何ヵ月も、何年も。そのお陰かは知りませんが、彼女は随分元気になったそうです。高校に通う頃には日常生活が送れるほど、体力的には回復していました。主治医も奇跡だと驚かれたそうです。


ですが、一ヶ月ほど前に突然救急で彼女が運ばれてきました。結果、・・・彼女は新たに拡張型心筋症と診断されました」


「拡張型・・・、心筋症?」


聞いたこともない言葉に、高橋はおうむ返しに聞き返した。静恵と五十嵐も馴染みのない病名に首を傾げ、磯が次に紡ぐ言葉に耳を澄ます。


「心臓にある筋肉自体の病気なんです。発症した原因は特定出来ず、今は投薬などで心臓の負担を何とか減らしてはいるんですが・・・。専門的な話になってしまいますが、根本的な治療策としては心臓移植や余分な心筋を除去して小さくするバチスタ手術があるのですが、それらですら完全な治癒には至らぬケースも多くて、そもそも彼女の場合、・・・心臓がその手術に耐えられる可能性は、万に一つとしか言いようがありません」


「・・・」


誰もが言葉を失い、鉛のような重い沈黙が居間を押し潰そうとしている。磯の紡いだ言葉が、放った数字の比喩ひゆが、絶望的な現実を突き付ける。可能性はゼロとは言えない。そんな慰めを口にすることなど、その場にいる誰にも出来なかった。


「・・・彼女が入院してから一週間ほど経った頃でしょうか、彼女とご家族を呼び出して現状を説明しました。様々な薬で症状を緩和させてもよくて二ヶ月ということ。手術による改善は可能だが、成功する確率は極めて低いこと。


ご家族の皆さんは答えを出せず、ただ悲痛な表情を浮かべていました。それは仕方のないことです。どちらを選んでも、・・・待ち受けているのは一つですから。


ですがその中で一人、彼女だけが悲しみませんでした。強がっていたのかその場の様子では分かりませんでしたが、ご家族が押し黙る中、彼女は明るい笑顔ではっきりと手術は受けないと言いました。自分の体のことは自分が一番分かっていると、手術に耐えることは、・・・出来ないと」


磯の言葉に、静恵は思考を巡らせた。想像の域を出ないが、彼女の選んだ決断は、どれほどの英断だろうか。奇跡と呼ぶほどの生を捨てて前向きに自らが死を選ぶなど、どうして出来るのだろうか。


明るい絶望。その終着に、彼女は何を思うのだろうか。


「もちろん、薬を服用させて悪化は少しでもしのいでいますが、続けていれば効果も薄れてしまいます。今までは問題ありませんでしたが、最近発作が頻繁に起こっていますから・・・」


「・・・そう、ですか」


高橋は落とすように小さく呟くと、口をつぐんで俯いた。静恵も五十嵐も何も言葉を発することが出来ずに、重い沈黙を黙認するしかなかった。


磯がコーヒーに口をつける音だけが、やけに居間に響いた。




「そういえば、咲月君は?」


高橋と五十嵐が沈痛な面持ちで帰宅した後、静恵は磯と慎ましく晩酌をしていた。今の精神状態で一人月を眺めながら晩酌をしたところで、思考は消極的なことしか考えそうにないため彼を引き留めたのである。当然磯が持つのはアルコールのないものだった。


「多分、お見舞いに行ってから友達の家に寄ってるんだと思う」


「あぁ、先週見掛けた派手な子か?」


磯の質問に、静恵は小さく頷いた。第一印象で派手と思われるのは、咲月の周りでは吉田結城だけだろう。


「・・・さっきの話だけど」静恵は両手で包んだビールの缶を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。「・・・本当に、彼女、どうしようもないの?」


磯を見上げた静恵の懇願こんがんの瞳に、彼は少し表情を歪めて手にしていた缶の中身を一気に飲み干した。そして大きな息を吐き出すと共に、雲に隠れた月を見上げる。


「・・・移植を待てるほど、彼女に時間はない。補助人工心臓も考えたんだけど、その手術すら非常に困難なんだ」


「・・・そう」


「・・・人を、命を救いたくて医者になったはずなんだけどな」磯は視線を伏せると、自らをあざけるような小さな笑みをこぼした。「・・・奇跡は、何度も起きない。彼女が今も生きていることが、無数の奇跡の結果なんだよ」


「・・・でも、割り切れないわよ」


静恵は少しだけ缶に口をつけ、小さなため息を漏らした。会ったこともない、見たこともない相手のことを同情するのはエゴでしかないと思う。しかし、間接的にでも関わった以上、ただの死としては認識出来ない。心を痛めるには十分な理由だ。


「・・・たとえ接点が少なくても、身近な人の死に、慣れるわけがない。慣れちゃ、いけないんだ」


磯は自分に言い聞かせるように呟くと、ゆっくりとした動作で立ち上がって腕時計に視線を落とした。彼の動作を眺めていた静恵も気が付いたように視線を手首に落とす。短針は既に十に触れていて、高橋と五十嵐の二人が帰宅してから一時間以上経過していることを教えてくれている。


「そろそろ行くよ。ご馳走さま」


「あ、うん。片付けはいいから」


空き缶の載った盆を運ぼうとした磯を制して、静恵は彼を玄関まで送り届けた。磯が開け放った玄関の外は、今は静寂と闇に包まれている。


「今日は本当にありがとう。仕事、頑張ってね」


「あぁ。またな」


寒さに肩を震わせながら、静恵はサンダルを引っかけて磯を見送ろうと外に出た。彼も同じように寒さで肩をすくめながら、軽く手を挙げて歩き出そうとした。しかし、磯は足を止めて振り向くと、小さく手を振る静恵と視線を重ねた。


「・・・今日俺を呼んだのは、咲月君のことだけなのか?」


「・・・え?」


突然の磯の問いに静恵は聞き返し、肩を摩りながら寒さで鈍る思考を回転させた。頭の中で、自分自身に問いかけてみる。


何故、自分は磯に連絡したのだろう。それは週末に咲月に聞かされた話が、気になったからではなかったか。しかし、彼の話す新藤夏海という人物を、磯が知っている可能性は決して高いとは言えない。入院患者はたくさんいるし、かかる科が違うならば尚更だ。では何故、自分は迷わず彼に連絡をしたのだろうか。


違う、本当はと否定する自分がいる。違う、そうでなければと否定する自分もいる。どちらが本心なのだろうか。交錯する思考の葛藤が、沈黙を紡ぐ。


「言えないならそれでいいよ。俺にとってそれは良い答えだからな。早く家入れよ。風邪引くぞ。じゃ」


磯は何も答えない静恵に笑顔を送ると、再び手を挙げて歩き始めた。静恵はしばらくの間、闇へと消えていくその後ろ姿を見送った。


どんなに想っても、伝えたくても、姉の悲しげな笑顔が脳裏をよぎり、開こうとした口をつぐませる。後悔と共に生まれた、抗いようのない責任。


「・・・好きよ。・・・私だって」


静恵は落とすように呟いた。磯の背中はもう目の前から消えている。


ふと見上げた夜の空に、月はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る