第26話

第26話

「・・・本当に、これで良かったんですかね」


職員室で自分の机に突っ伏している高橋は、自分に問いかけるように小さく呟いた。隣で書類を整理している五十嵐は、少し首を傾げながら苦い笑顔を浮かべる。それが余計、高橋の自問自答をあおる結果となった。


「とりあえずは、良しとするべきでは?」


「・・・本当に、そう思っていいんですかね?」


週を跨いだ月曜日。田中から連絡を受けた高橋は、身支度も早々に家を後にした。たどり着いた早朝の職員室には既に五十嵐が待機していて、二人は校長室に足を運んだ。


そこには田中と教頭、校長の姿があった。状況をかんがみるに、どうやら先週話した暴行の理由について処分が再検討されたらしい。緊張の中で下された決断は、既に形を変えていた。それは二週間の停学処分。高橋はその時だけは喜びを噛み締めたが、時間が経ち冷静に考えてみると、本当にこの結果が良かったのかと疑問に思う。


確かに、退学は免れた。それに関しては求めていた結果として言うまでもない。しかし、雨宮咲月の中に穿うがたれた新しい傷は確かに自分が付けたもので、この結果が彼にとって喜ぶべき事態なのかは、自分でも分からない。


自分に与えられた役目はまっとうした。これ以上ない結果で。しかし、自己満足な解決に、うわべだけの結果に、意味はあるのだろうか。


自問自答が繰り返される。その度に、ため息ばかりが増えていく。そんな高橋を見かねたのか、五十嵐もため息を吐いてポケットから携帯を取り出した。


「静恵には私から連絡しておきます。そうすれば、遅かれ早かれ雨宮君にも伝わると思いますから」


五十嵐の言葉に、高橋は小さく頷いただけだった。気持ちはいまだ、思考の中である。


「・・・高橋先生。確かに、雨宮君は今回のことで深く傷付いたかもしれません。ですが、私達は彼のために、やれるだけのことはやりました。それが正しいか間違いかは、もっと先になってみないと分からないと思いますよ」


「・・・そう、ですかね」


五十嵐の諭すような口調に、なおも葛藤を打ち消せない高橋は少し不満げに返した。五十嵐は小さく微笑みを浮かべて椅子から立ち上がり、携帯を開いた。


「雨宮君が大人になって、今回のことをどう思うか、それまで私達がやったことの結果は分かりません。だから私達は、ただ待ちましょう」


五十嵐はそう言い残すと、携帯を耳に当てながら職員室を後にした。かすかな静寂の中、高橋は彼の言葉を反芻はんすうする。


いつか、答えが分かる日が来るのだろうか。その答えを、受け止めることが出来るのだろうか。漠然とした不安を抱えながら、高橋は出席簿を何気なく開いてみた。


雨宮咲月の空欄だけが、高橋の不安を映すように目立っていた。




「連絡事項は以上です。これでホームルームを終わります」


高橋のまとめの一言と同時に、日直の生徒は起立と声を張り上げた。これで今日一日も無事に終えたことになる。高橋は生徒達の礼に安堵のため息を漏らして、生徒達が次々と教室を後にするのを見送っていた。時刻は四時に迫っているため、太陽は既に傾き始め、遠い空はかすかに茜色に染まり始めていた。


高橋は机の上の書類を整理しながら、左頬を少しさすった。まだかすかに痛みが残っている。その痛みが、あの時の雨宮咲月を思い出させる。高橋はゆっくりと立ち上がると、五十嵐の元に向かうため教室を後にした。


隣の教室に顔を出すと、予想通り五十嵐はまだ教室に残っていた。彼は少し難しい表情を浮かべながら、机の上で何か書き物をしている。


「五十嵐先生」


高橋の声に顔を上げた五十嵐は、すぐに眉間の皺を緩ませていつも通りの笑顔で高橋に応えた。


「お疲れ様です。どうかしましたか?」


「あの・・・、今日って、これから何か用事はありますか?」


高橋の遠慮ぎみな言葉に五十嵐は首を傾げながら、手元にあった手帳を開いた。どうやら今日の予定を確認しているようだ。


「・・・特に、予定はないですけど」


「あの、これから静恵さんの家に伺おうと思っているんですけど」


高橋の遠回しな言葉から真意を察した五十嵐は、すぐに机の上の片付けを始めながら携帯を取り出した。


「じゃあ、私も一緒に行きますよ。電話を掛けておきますので、外で待っていてもらっても良いですか?」


五十嵐の回答に安堵の息を漏らした高橋は、小さく頷いて教室を後にした。窓の外に広がる茜色に染まる空をぼんやりと眺めながら、自分が学校でやり忘れたことはないかと高橋は頭の中で確認してみる。その時だった。


「・・・高橋先生」


小さな呼び声に、高橋はゆっくりと首を巡らせた。そして、視界が映した人物を識別すると同時に、息を呑んだ。


「・・・あ、雨宮君」


廊下の少し離れた場所に、雨宮咲月が佇んでいた。黒いジャケットにジーンズ、足元は来賓用のサンダルと、およそ学生の姿とは言えない格好だった。彼は一度軽く頭を下げると、ゆっくりと高橋の方に歩み寄ってくる。


高橋は無意識に身構えてしまった。しかし、それは無理もなかった。あれほど豪快で痛烈な右拳を頬が覚えている以上、反射的にそうしてしまうのが防衛本能というものだろう。


その様子を察したのか、咲月は小さな笑みを浮かべながら両手を上げた。それは何もしないというジェスチャーのように高橋には見えた。


「この間は、すいませんでした。急に殴りかかって・・・」


「あ、いや・・・。僕の方こそ」


咲月の態度に警戒心を緩めた高橋は、申し訳なさそうに頭を下げた。下げるぐらいでは足りないと分かっていても、そうする他に方法がなかった。


「君の、・・・君の気持ちを無視して、僕はひどいことをした。謝っても許してもらえないのは分かってる。でも、・・・本当に、ごめん」


どんな罵詈雑言も、高橋は受け止める覚悟でいた。それが、自分のエゴで行ったことへの代償だからだ。しかし、咲月からの言葉は何もなかった。二人しか居ない廊下には、ただ静寂が流れているだけだった。


「・・・先生。静恵さんから聞きました」


ようやく咲月が口を開いたので、高橋はゆっくりと顔を上げた。彼は高橋を見つめながら、穏やかに微笑んでいた。それが高橋には、不思議だった。


「・・・処分の、話?」


「はい。先生のお陰で、退学は免れたこと。本当に、ありがとうございました」


咲月は高橋に向かって深々と頭を下げた。その行為が、高橋の思考を余計に混乱させていく。


処分の結果が変わったということは、それなりの理由があったと、誰もが当然思うだろう。当の咲月にはその理由がどういうものかも、十分に理解しているはずだ。


しかし、それは彼にとっては許しがたい理由のはずだ。現に高橋はその理由について彼から怒りの制裁を食らわされているのである。その彼が、こうして頭を下げる理由が、高橋には、理解出来なかった。


「・・・反対じゃ、なかったの?」


高橋の言葉に顔を上げた咲月は、高橋に視線を合わせてから窓の外に向けた。少し目を細めて、静かに身を沈めていく茜色の太陽を視線に映す。


「・・・あの時は、そうでした。あの場に居た全員を、俺は、許せなかった。でも、あのあと色々あって分かったんです。周りは理解しようとしてくれていたのに、それを俺が、拒んでいたんだって。だから、・・・先生には、本当に感謝しています」


咲月はそう言って笑顔を浮かべた。それは高橋が初めて見る、雨宮咲月の笑顔だった。彼がこんなにも穏やかに、優しく笑う少年だと、高橋は今まで知らなかった。


「・・・何があったかは分からないけど、君にそう言ってもらえるなら、・・・良かったよ」


高橋は彼に倣うように笑顔を浮かべた。先ほどまで散々頭を悩ませていた葛藤が、随分と薄れていく感じがする。自分が行った行為が間違いではなかったと、彼の言葉が裏付ける。正しかったかは、まだ分からないけれど、今はそれで十分だ。


しかし、咲月の表情は一瞬で形を変えた。彼は笑顔をなくすと真剣な表情を浮かべて、高橋の瞳をしっかりと見据えた。高橋の緩んだ緊張が、一瞬でまた張り詰めさせられる。


「・・・先生に、大事な話があるんです」

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