第24話
第24話
小さな振動が一瞬で幻の世界を消し去り、意識を現実へと引き戻していく。静恵はゆっくり布団から体を起こし、枕元の携帯に手を伸ばした。親指でサイドボタンを押して、目覚めの時間を教えてくれた親切な相棒を容赦なく黙らせる。
開いた画面には、着信やメールを知らせる項目が表示されていなかった。それは休日で寝起きの静恵にとってはこれ以上ないほどの朗報である。夜勤でトラブルがなかったという証拠で、静恵が突発的な仕事に従事する必要がないことを示しているからだ。何週間振りの完全なオフに、静恵は力一杯伸びをして意識を完全に覚醒させた。
しかし、回転を始めた思考は、休日の予定を考えるのではなく、最も近い過去の出来事を呼び覚ました。
昨日、咲月が家を飛び出してから、静恵は追うことをしなかった。彼の気持ちをわずかながらも理解出来たし、磯が何かに気付いて一本電話を入れて、掛け返された電話で彼はどうやら磯崎総合病院に居ることが判明したからだ。入院患者の中に友人がるらしいという磯の説明を受けた静恵は、ただ帰りを待つことしか出来なかった。しかし、静恵が起床している間に、彼が帰ってくることはなかった。
静恵はそっと部屋を出て玄関に向かった。玄関先には静恵が普段履いているヒールの隣に咲月のシューズが綺麗に脱ぎ揃えられていた。静恵は彼が帰ってきていることにそっと安堵の息を吐いて、台所へと足を運んだ。
傷心であろう咲月に、自分が出来ることは何もなかった。彼を傷付けた原因の一端は自分にもあるからだ。静恵は小さなため息を吐きながら朝食の準備を済ませて居間へ向かった。
居間にはテレビを置いていないため、静恵は
「あ、静恵さん。おはようございます」
襖をゆっくりと開けて居間に現れたのは咲月だった。彼は小さな笑みを浮かべて静恵に挨拶の言葉を送る。予想とは違う彼の反応に静恵は不思議に思ったが、それを表に出さずに挨拶を返した。
「・・・おはよう。朝食は食べる?」
「あ、自分で支度します」
「すぐ出来るから。座って待ってて」
「あ、・・・ありがとうございます」
咲月がテーブルの前に腰を落ち着けるのを見届けてから、静恵は腰を上げて台所へと向かった。
オーブンに食パンを入れてフライパンに油をひきながら、静恵は思考を巡らせた。
昨日の今日だというのに、咲月のあの落ち着きようはどうしても腑に落ちなかった。家を飛び出した後、彼に何があったのだろうか。しかし、考えたところで分かるはずもない。静恵は次々に出来上がっていく料理を盆に乗せて、居間に戻った。
「・・・昨日は、すいませんでした」
朝食を終えた静寂を小さく破ったのは、咲月だった。彼は真っ直ぐに静恵の瞳を見据えながら頭を下げた。煙草をくわえていた静恵はゆっくりと灰を灰皿に落として、テーブルの上の食べ終えた食器をそっと重ねた。
「・・・謝らなければいけないのは、私の方よ。貴方が傷付くと分かっていたのに、・・・ごめんなさい」
静恵も咲月と同じように頭を深く下げた。一つの行為が複数の人に対して同じ結果を与えるとは限らない。静恵にとっては咲月を守る唯一の手段だったそれは、彼にとっては心に刃を突き立てるような裏切りでしかなかった。昨日の彼の言葉が、静恵の心を責め立てる。あれほど咲月が口にしなければ口外しないと決めていたのに、目の前に晒された状況が、高橋の素直な眼差しに対する期待が、簡単に天秤を揺らしてしまった。
そんな後悔と懺悔の念に縛られて頭を上げない静恵に降り注いだのは、穏やかで柔らかな声だった。
「・・・謝らないで下さい。静恵さんも高橋先生も、俺を思ってくれているのは、心配してくれているのは分かっていますから」
ゆっくりと顔を上げた静恵の瞳には、穏やかに微笑む咲月の表情が映し出された。その表情に、
「・・・何が、あったの?」
静恵の口から漏れ出たのは、そんな素直な疑問だった。咲月は少しだけ目を伏せて、穏やかな笑顔を崩さずに小さく呟き始めた。
「・・・ただ、俺は、逃げていただけなんです。認めたくなくて、信じたくなくて、受け入れたくなくて。・・・誰にも話さないで、なかったことにしようとしていたんです。でも・・・」
咲月の真摯な瞳が、静恵の
「ちゃんと、向き合いたいんです。たとえ苦しいことでも、悲しいことでも、俺の人生の一部に、変わりないから。・・・本当のことはもう、分からないけど。それも一つの、母さんとの思い出だから」
咲月の言葉に、静恵の頬には涙が伝っていた。彼の視線でそれに気付き、静恵は慌ててそれを拭う。
自分が、恥ずかしかった。あの出来事で誰よりも傷付き、苦しみ、悲しんだのは他の誰でもない咲月のはずなのに、彼はそれを思い出にすることもなく、忘れることもなく、受け止めようとしている。その姿勢が、静恵には眩しかった。
自分は一体どうだろうと考えてみる。忘れたいから思い出にして、悲しみたくないから客観的に見て、そうして色褪せた思い出を、理由もなく大切にしている。そんなものに、本当に意味はあるのだろうか。
乗り越えたと思っていた。時間が癒してくれたのだと思っていた。それが勘違いだと突き付けられる。見ないように目を背け、ただ、持っているだけの記憶。
「・・・そう、よね」
静恵はまだ流れる涙を拭いながら落とすように呟いた。気付いた思い。気付かされた思い。それは決して、忘れてはいけないものだと知る。
「静恵さん。それで、お願いがあるんです」
「・・・何?」
咲月の瞳が、かすかな緊張を見せる。思考を整理することが出来た静恵は小さく首を傾げた。改まって彼からお願いをされたことなど、今まで一度もなかったからだ。思い当たるのは、今回のことと関係があるのだろうというぐらいだった。
咲月は静恵から視線を外さぬまま、ゆっくりと語り始めた。病院で知り合った新藤夏海のこと。彼女は自分のクラスメイトの姉ということ。あの出来事を彼女に話したことで、楽になれたこと。静恵はただ、咲月の言葉に耳を傾けていた。こんなにも彼が進んで自分のことを話すのを見るのは初めてといっていい。それが新鮮で、嬉しかった。
一通り話し終えた咲月は、自分を落ち着かせるように小さく深呼吸をした。本題の見えない静恵はただ彼の言葉に耳を傾けている。
瞬間、変わる瞳の色。結ばれた唇は、苦痛にも見て取れた。
「・・・どうしたの?」
「・・・夏海の、命、・・・もう、長くないんです」
その言葉に、静恵は目を見開いて息を呑んだ。反射的に聞き返すこともせず、重い沈黙の中で言葉を上手く紡げない。
もし運命というものが存在するのなら、それは彼にとってなんと過酷で、無情なものなのだろう。人との出会いが、人を傷付けることもある。当たり前のそれが、彼には重く、残酷だった。大切な人が、目の前から、必ず居なくなってしまう。
それでも、辛い表情を浮かべる咲月の瞳には、今までと違い、しっかりとした光を宿していた。彼にそれを与えたのは静恵でも結城でもなく、話に出てきた夏海という女性に他ならないと、静恵はすぐに思い至った。
「・・・側に、居たいんです。俺に出来ることは、もう、・・・それしかないから」
咲月の小さな言葉に、静恵は本意を窺う。その言葉が生み出す意味。その理由。
側に居たい。その感情は、咲月にとって夏海が掛け替えのない存在だという証明。それしか出来ない。それは現実を受け止めた故の、彼の結論。
「・・・分かったわ。ただし、週が空けてからで構わないから、高橋先生には必ず謝りなさい。先生は本気で、貴方を心配しているんだから」
「・・・はい。ありがとうございます」
願いが届いて嬉しかったのか、咲月は小さく笑顔を浮かべて頭を下げた。いつの間にか静恵が重ねていた食器に自分の食器も重ねていて、洗ってきますと言い残すと彼は食器を持って立ち上がり、素早く居間を後にした。
残された静恵は再び煙草を
守りたいと、思った。守らなければいけないと、思った。しかし、それはそうしなければいけないと自分に言い聞かせていた、ただの自己満足に過ぎなかったかもしれない。
でも、自己満足でもいい。そう思うことで、出来ることだってある。変わることだって、ある。
ならば、今、守るものは何か。守りたいものは、何か。
学校生活でも、未来でもない。前を向いた、彼の思いを、守りたい。足を踏み出した、彼の気持ちを、守りたい。進むために選んだ、彼の決意を、守りたい。
「・・・もう、子供じゃないんだ」
静恵は誰に言うでもなく呟き、微笑んで紫煙を細く吐き出した。視線を空へ移すと、朝陽を
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