第三章

第23話

「・・・懐かしいな」


咲月は小さく呟いて笑みをこぼすと、紫煙を吐き出して目の前に居を構えている一軒の日本家屋を見上げた。七年間過ごしてきた実家に帰ってきたのは何年振りだろうかと、ふと思案にふける。垣根から覗く彩りのない庭は、あの頃と何一つ変わっていなかった。


咲月はインターフォンを押してしばらく待ってみる。かすかに中から足音が聞こえると、扉は勢いよく開かれた。


「お久し振りです。静恵さん」


玄関から顔を覗かせたのは、咲月の叔母である静恵だった。彼女は長く綺麗な黒髪を後ろで一つに結い、大きな瞳で咲月を視界に収めると、華のような微笑みを浮かべた。


「お帰りなさい。上がって」


静恵はそう言うと、玄関を大きく開け放って、後ろで待機している結城と歩にも久し振りと挨拶を交わした。二人は小さく頭を下げて、咲月に続いて玄関に足を踏み入れる。


「咲月、家に帰ってくるのは何年振り?」


玄関を上がってすぐ右手にある台所でコーヒーの準備をしている静恵は、屈んで靴を揃えていた咲月に問いかけた。息子の帰宅が喜ばしいのか、彼女の笑みは一向に絶えない。


「三年振り、ですかね。何も変わらないですね。あ、手伝いますよ?」


「いいわよ。ふたりを居間に案内してあげて」


静恵の言葉に頷いた咲月は、玄関を上がった結城と歩を居間へ先導する。二人は共に、家に上がるのは初めてである。


「ここで待ってて」


咲月は居間の襖を開けて二人を促す。結城と歩は部屋の中を見た瞬間に固まり、二人同時に歓喜の声を漏らした。


「先生!」


「やぁ、皆。元気そうだね」


二人の声につられてつい居間を覗くと、中央のテーブルには既に三名ほど腰を下ろしていた。右側に腰を下ろしているのは三人の元担任である高橋、その同僚の五十嵐で、左側には夏海の担当医であった磯が腰を下ろしている。これほど人数が揃ったのは随分と久し振りなので、咲月も無意識に表情をほころばせた。思い返してみれば、玄関で靴を脱ぐとき、やけに革靴が多かった気がする。


「お久し振りです。もう集まっていたんですか?」


「あぁ。昼過ぎには君達が来ると連絡があったからね。先に声を掛けておいたんだ」


磯はそう返しながら、三人に座るよう促した。咲月と歩は襖を背に向けて座り、結城は庭の方に位置する場所に腰を下ろした。三人が座ると同時に襖が開かれ、大きな盆を持った静恵が入室してくる。咲月は素早く腰を上げ、彼女の盆を受け取った。


「ありがと。三人も若い子が増えると、賑やかになるわね」


静恵は居間全体を見渡し、表情を綻ばせながら磯の隣に腰を下ろした。咲月は受け取った盆をテーブルに置き、皆にカップを配り始める。


再会を喜ぶ皆が紡ぎ出す言葉は、やはり近況の報告と思い出話だった。誰からともなく口にした過去の出来事が、気付けば皆の耳をとりこにする。そういえば、そんなことがあった。あの時の君は、こうだった。話せば話すほど、会話の糸口は広がっていった。その中心は、やはり夏海だった。


「私も一度ぐらい、夏海ちゃんと話してみたかったわ」


静恵は頬杖をつきながら、少し不満そうに呟いた。夏海との面識がほとんどないのは、静恵と高橋と五十嵐の三人である。三人とも、磯や結城、歩や咲月の話を聞いて、彼女の輪郭りんかくを内側に作り出しているのだろう。


「・・・こうしてまた集まれるのも、夏海ちゃんのお陰なんだな」


小さくそう呟いた磯が、ゆっくりと庭に視線を移す。しかしその瞳は庭を映しているのではなく、どこか遠くに眼差しを向けていた。その言葉に、誰もが小さく頷いた。


一人の存在など、世界にとっては取るにたらない。


しかし、誰かの世界は、それがあって、作られる。


そうして人は繋がり、世界は廻っている。


「・・・今生きていたら、もう三十路みそじ越えてるんだな」


小さく呟いた結城の言葉に、咲月と歩は声を上げて笑った。そんな歳を迎える夏海の姿が、想像出来なかったからだ。


平等に流れる時間の中で、記憶はかすかにだが変わっていく。忘却を選択したり、思い出へと、昇華されていく。しかし、どんな変化を迎えても、夏海の存在は変化しなかった。それが残された者が持つ、死という概念がいねん


「じゃあ、そろそろ出ましょうか」


感慨に浸る空気を変えるように立ち上がった静恵は、両手を叩いて皆を焦らせる。だが、次々と退室していく中で咲月だけが居間に残り、立ち尽くしたまま庭を眺めていた。


「・・・どうしたの?」


襖を開けたまま待っている静恵が、不思議そうに首を傾げる。


「あの時、静恵さんと見た庭も、こんな風景でしたよね」


視界に映る風景が、記憶に重なる。あの頃の風景は思い出せるのに、あの頃の感情は、もう思い出すことは出来なかった。咲月は振り返り、同意を求めるように静恵に小さく笑みを向ける。


「・・・やっぱりこの季節は、花がなくて寂しいわね」


咲月に小さく笑みを返した静恵は、咲月の意図に応えるように、一輪の花もない寂しげな庭を見つめながら呟いた。記憶と一言一句変わらない彼女の言葉に咲月は思わず吹き出しそうになったが、それを堪えて再び庭に視線を移した。


「そうですね。・・・俺は、今の方が好きです」


あの頃、静恵の言葉にそう返した自分がいた。何でそう返したのか今はもう思い出せないが、それは自分が変わった何よりの証拠である。


「・・・でも、彩りがあるのも、良いですよね」


決して、忘れたわけではない。ただ、思い出せないだけ。あの頃の自分も確かに居て、そうして、今の自分が在る。一人でも、一つじゃない。


「・・・行きましょう。夏海ちゃんが待っているわ」


そっと咲月の肩に手を置いた静恵は、咲月と同じ風景を瞳に宿して、小さく頷いた。

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