第22話
第22話
見上げると、漆黒の空には満月だけが佇んでいた。雲の切れ端が所々覆っているせいで、星屑は一つも見当たらない。
咲月はただ、何も考えずに歩いていた。何も考えたくはなかった。それでも、フラッシュバックする先ほどのやり取りの映像が脳裏を
思考は整理を放棄して停止を望んでいるのに、それがままならない。それらは苛立ちとなり、思考を更に圧迫する。
静恵だけは、信じていた。他の誰が理解しなくても、その場に居た、目の前で姉を失った彼女だけは、痛みを分かち合えると、思っていた。同じ痛みを抱えながら、支え合っていけると、信じていた。
自分だけがそう思っていたことが、ひどく悲しく、馬鹿らしく、思えた。どんなに近しい人でさえ、所詮は赤の他人だと、突きつけられた気がした。
気付けば咲月は磯崎総合病院にたどり着いていた。何でここに来たかは分からない。目的地もなく、気付けば足が向いていただけだ。誰も居ない広場のベンチに腰を下ろし、煙草をくわえて火をつけた。現れた紫煙は暗闇をたゆたい、霧散していく。それが咲月には、羨ましかった。
この煙と同じように、消えてしまえれば良かったのに。何も感じず、何も考えないことはどれだけ楽だろう。そう考えている自分が、既に
「咲月!」
どれだけそうしていたか分からないほどの時間が過ぎた時、自分の名を呼ぶ聞き覚えのある声に、咲月はすぐに首を巡らせた。病院の裏口に、白いジャケットを羽織った夏海が佇んでいた。
昼間のことが、脳裏にフラッシュバックする。しかし、目の前の夏海の姿が、数時間前の出来事は幻ではなかったのかと錯覚させる。咲月は慌てて立ち上がり、ゆっくりと歩を進める夏海の側に駆け寄った。
「・・・大丈夫か?安静にしてなくて」
「あ、うん。もう大丈夫だよ。大分落ち着いてきたから、その・・・」
夏海は少し言い澱みながら、人差し指で頭を掻いた。咲月は首を傾げて問いかける。
「どうした?」
「えっと・・・、さっきは、ごめん。八つ当たりするようなこと言っちゃって・・・」夏海はそう呟くと、小さく苦笑いを浮かべた。
彼女の言葉が、脳裏で揺らいだ昼間の出来事を現実として確立していく。襲いかかる三度の後悔に、咲月も倣うように苦笑いを浮かべた。
「あ、いや。俺の方こそ、悪かったよ。その・・・、嫌な思い、させて」
咲月の言葉に、夏海は表情を笑顔に変えて首を振った。彼女がベンチに向かって歩き出したので、咲月も後に続く。
夏海は煙草をくわえて火をつけると、空を仰いで紫煙を細く吐き出した。表情にはベッドに横たわっていた時のような
「・・・何か、あったの?」
「・・・え?」
夏海の突然の問いに、咲月は反射的に聞き返した。彼女は満月から視線を下ろすと、咲月の方に向き直り、首を傾げながら真っ直ぐ見つめた。
「ほっぺ、赤いし。顔、酷いし。こんな時間に、ここに居る」自分で言って、夏海は少し吹き出した。「何かあったとしか思えないじゃん」
「・・・そう、だよな」
咲月は空を仰ぎ、満月を瞳に映した。整理出来ていない先ほどの出来事が、高橋の言葉が、再び頭を過る。
『分からないと決めつけて!自分の殻に閉じ籠っているだけじゃないのか!』
あの時は、全ての感情において怒りが優先され、咲月は再び殴りかかろうとしたが、今思い直してみれば、彼の言葉は自分の中でとても重要な意味があるように思えた。
夜が生み出す
一度でも、誰かに話そうと、思ったことが、あっただろうか。
一度でも、理解してもらおうと、思ったことが、あっただろうか。
右脇が、かすかに
話すことで、理解してもらおうとすることで、何かが、生まれるのだろうか。何かが、変われるのだろうか。
「・・・夏海、俺の話、聞いてくれる?」
咲月は心を決めて、夏海に窺うように問いかけた。真っ直ぐに視線を合わせている彼女は、真剣な眼差しで、咲月の言葉に頷いた。
「全部、話すよ。・・・聞いて欲しい」
咲月はもう一度満月に視線を送り、大きく深呼吸をして、記憶の糸を手繰り寄せた。たどり着いたのは、小学校に上がった時ぐらいの記憶だった。
「・・・そっか」
咲月の言葉にずっと耳を傾けていた夏海は、咲月が言葉を紡ぎ終えると、そう呟いて小さく頷いた。
何もかもを、話した。家庭が急に「違って」しまったこと。耐えられないほどの、母に対する父の暴力。そして起こった、あの事件。全てを話し終えた咲月は、脱力するようにベンチに身を預け、大きく紫煙を吐き出した。
「・・・辛かった、わけじゃない。ただ、悲かったんだね」
夏海の言葉に、咲月は目を見開いた。視線を映すと、彼女は満月を見上げている。その言葉は、あの時、感じたものだった。
「・・・どうして」
「分かんないけど、私は咲月の話を聞いてそう感じた。お母さんが暴力に耐えていたことよりも、両親が亡くなったことよりも、・・・お母さんにされたことが、一番悲しいことだったんじゃないかって」
夏海は言葉を選びながら、ゆっくりと思いを言葉にしていった。それに耳を澄ましていた咲月の心に、彼女の言葉が、浸透していく。
「子供にとって、親って世界だと私は思うの。だから、お母さんにされたことが、自分は要らないんじゃないかって思いに、繋がったんじゃないかなって・・・」
蓋をした記憶と共に、あの頃の感情が込み上げてくる。彼女の言葉が、感情と、リンクする。
「本当のところは、私には分からないよ。その時何を感じたのか、何を思ったのか、それは、・・・咲月のものだから。でも、理解しようとすることは出来る。同じ経験はしていないけど、咲月の言葉から、考えて、理解しようとして、感じることは出来る。・・・咲月、必要と、されたかったんでしょう?」
夏海の言葉に、咲月は俯いた。今にも溢れ出してしまいそうな感情を、両手を合わせ握りしめて、必死に抑えようとする。そうしなければ、感情の全てが、暴れだしてしまいそうだったから。
「・・・頑張ったんだ。・・・お、俺」
一つ言葉を口にしただけで、感情の暴走は、理性を侵食し始める。視界が、歪んでいく。
「・・・が、頑張ったんだよ。どんなに、家族が、壊れても、母さんには、好きで、いてもらおうと、必要と思って、もらおうと。でも・・・、母さんは・・・」
突き立てられた刃。最後の微笑み。それらが、自分の存在を、否定していく。紛れもない、世界の、終わり。
「違う!」
夏海はたった一言、そう言い放った。咲月は咄嗟に顔を上げる。彼女は再び満月を仰いでいて、遠い眼差しでそれを眺めていた。
「咲月のお母さんは、咲月のことを本当に愛していたんだと思う。想像でしかないけど、多分、・・・全てが終わったら、自殺するつもりだったんだと、思う。だから、咲月にそんなことを、したんじゃないかな。咲月だけを残しておけないから、そういう風に、するしかなかったんじゃないかな。それなら、お母さんの笑顔も、言葉も、・・・嘘じゃないと思う。そう、私は、・・・思いたい」
夏海の言葉が、かすかに褪せた記憶を、鮮明に、
涙を流しながら浮かべた、優しい笑顔。穏やかな、最後の言葉。それが彼女の言葉通りなら、どれほど、救われるだろう。
「・・・そう、かなぁ。そうだと、・・・良いなぁ」
とうとう堪えきれずに、咲月は大粒の涙を流し始めた。あれほど自分を苦しめていた、悲しませていた記憶が、少しずつ、形を変えていく。
「・・・言葉にしなければ、伝わらない。伝えないものには、意味なんてない。だから、愛してると言ったお母さんの言葉は、どうか、信じてあげて」
「・・・う、うぅ」
咲月はただ、頷くことしか出来なかった。涙が
夏海はもう何も言わず、ただ、咲月の隣で煙草を吸っているだけだった。それが、咲月には嬉しかった。どんな慰めも、今はいらない。ただ、受け入れられた悲しみを、一人で噛みしめていたかった。
涙に濡れた瞼の裏に映るあの頃の自分は、もう、泣いてはいなかった。今、代わりに、自分が涙を流しているからだろうか。
「じゃ、私そろそろ行くね。消灯の時間になっちゃうから」
ようやく涙を拭うことが出来た咲月は、夏海と一時間ほど他愛もない会話をして過ごしていた。彼女の言葉に携帯を取り出して時間を確認すると、時刻は十時になろうとしていた。立ち上がって大きく伸びをした夏海のすぐ後に、咲月もゆっくりと腰を上げた。
「・・・また、来てもいい?」
咲月は頬を掻きながら、夏海に問いかけた。彼女は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに華のような笑顔を浮かべて頷いた。
「待ってる!じゃ!」
夏海はそれだけ答えると、小さく手を振って歩き出した。咲月はその場から動かず、遠ざかる彼女の背中を見送った。
「・・・ありがとう!」
夏海の背中が病院の中へ消える直前、咲月は声を張り上げた。彼女は驚いた様子で振り返り、咲月の突然の大声に目を見開いていた。
あれほどごちゃごちゃに渦巻いていた感情が落ち着いたのは、あの頃の自分に向き合えたのは、受け入れられたのは、全て夏海のお陰だった。彼女の言葉が、態度が、存在が、どれほど自分を、救ってくれただろう。
本当のありがとうは、ありがとうなんかじゃ足りない。それでも、今、彼女に伝えたかった。
夏海はただ、その言葉に笑顔を返しただけで、病院の中へと消えていった。でも、咲月には、その笑顔だけで、十分だった。
(・・・あぁ、そうか)
咲月は夜空に浮かぶ満月を見上げて、小さく微笑んだ。
何故、夏海の元に行くのだろうか。
それは、彼女に、会いたいから。
何故、夏海と話すのは、楽しいのだろうか。
それは、彼女の側に、居られるから。
初めて気付いた、純粋な想い。それは一瞬で、咲月の心を満たしていく。
(・・・俺、好きなんだ)
同時に思い出された記憶が、強く胸を締め付けた。
咲月は夜空を見上げたまま、笑みを消して少し痛む拳を握りしめた。満月を睨みながら、自分自身に問いかける。それは結城にこの場所で言った言葉だった。自分には、一体、何が出来るのか。
夏海に残された時間は、もう、少なかった。
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