第21話

第21話

全てを話し終えた静恵は俯いて、静かに涙を流していた。隣に腰を下ろしている磯が、そっと彼女の背中をさすり、話を補足する。


「その後、咲月君は三ヶ月ほど病院に入院していたんだ。下腹部の傷と、ショックによる失声症でね。退院した後、親戚に引き取られていったんだ」


「・・・五年前、私がこの家を購入したと同時期に親戚から連絡があり、咲月を引き取りました。彼はまだショックから立ち直っていなくて、ようやく心から笑うようになったのも、最近のことでした」


「・・・」


真相を知った高橋は、何も言えなかった。何も、言葉に出来なかった。聞かなければよかったと、後悔さえした。


自分の親に殺されそうになる。そんなこと、想像出来るわけがない。理解出来るわけがない。話を聞いただけで、たった一部思考が過去の事象に触れただけで、こんなにも胸が潰されそうな息苦しさを覚える。雨宮咲月が感じたものの、わずかな片鱗へんりんだというのに。


そんな未曾有みぞうの悲しみを、苦しみを、彼が抱えているなど想像もしなかった。そんな傷跡があるのに、どうして普通に生活出来るのか、分からなかった。


あの日の教室を思い出す。彼の表情や瞳を怖いと感じたのは、高橋自身がその表情や瞳が映す暗闇に耐えられなかったから、畏怖の念を抱いたのかもしれない。友人の冗談のような一言は、彼にとっては心臓を貫きかねない鋭利な刃物だったのだ。だからこそ彼は、あんなことをしてしまったのだ。


「・・・すいません、でした」


高橋はただ、静恵に向かってテーブルに額が付くほど深々と頭を下げた。磯にあれほど息巻いていた自分が、死ぬほど恥ずかしい。


静恵にとって、それを話すにはどれだけの勇気が必要だっただろう。どれだけの覚悟が必要だっただろう。無力さに向き合うのは、どれほどの苦行だろう。後悔を責めるのは、どれほどの苦痛だろう。それを、自分は、させてしまった。謝っても、とても謝りきれない。


「・・・高橋先生。顔を上げてください」


静恵の優しい声音に、高橋は顔を上げた。彼女は薄く微笑んで、小さく首を振った。


「確かに私にとって、このことを話すのはとても辛いことです。でも、いつかは向き合わなければいけませんから。私が今胸を痛めているのは、決して、高橋先生のせいではありません」


静恵の言葉に、寛容さに、今にも高橋が涙を浮かべそうになったその時、居間の外から小さな足音が聞こえた。今まで誰もその気配に気付いていなかったらしく、一斉に四人が居間の襖に視線を向ける。


「静恵さん、お客さんですか?」


それは、雨宮咲月の声だった。その声が四人の耳に入ると同時に、襖がゆっくりと開かれた。


居間に姿を現した咲月は、一瞬にして凍りついた。四人を見渡してから、目を見開く。


「結城君の、家に居るんじゃ・・・」


「・・・何で」


咲月の言葉に、咄嗟とっさに反応したのは静恵だった。彼女は慌てた様子で身を浮かす。


「咲月、違うの。これは・・・」


「・・・話し、たんですか?」


表情は変わらないのに、咲月の瞳は一瞬で色を変えた。それは高橋があの時教室で見た時の瞳と、同じようだった。高橋は咄嗟に立ち上がり、彼と静恵の間に入った。彼の今の態度は、静恵にとっていいものではないと直感したからだ。


「雨宮君。静恵さんは何も悪くない。僕が無理矢理聞いたんだ。確かに君はとても辛い思いを経験したと思うが・・・」


その直後、左頬に大きな衝撃が走った。視線はいつの間にか天を仰ぎ、次の瞬間、体が床に叩きつけられた。


「先生!」


「雨宮君!」


高橋が揺れる脳で何とか把握出来たのは、どうやら殴られて倒れたらしい自分に磯が素早く対応してくれているのと、無表情のまま自分を見下ろす咲月を押さえている五十嵐の姿だった。左の頬から激痛が走り、高橋は咲月を見上げながら顔を歪める。口の中に、鉄の味が広がる。


「・・・知ったような口、聞くなよ。・・・お前に何が、分かんだよ」


無表情のまま小さく呟いた咲月は五十嵐が体を押さえているにも関わらず、高橋に近付こうと足を踏み出す。五十嵐は彼に向かって何か言っているようだが、殴られた衝撃のせいか高橋には聞こえなかった。


「・・・君は、分かってもらおうと、したか?」


「・・・あ?」


痛みのせいなのかは知らないが、高橋の中に確かな怒りが込み上げてきた。何に対する怒りなのか自分でも分からないが、その矛先は、咲月だった。高橋は何も考えずに声を張り上げた。


「君は!分かってもらおうとしたのか!分からないと決めつけて!自分の殻に閉じこもっているだけじゃないのか!」


「てめぇっ!」


怒りをあらわにした表情を浮かべて咲月が足を踏み出すと同時に、彼の頬を平手が襲った。それは、静恵の右手だった。


「いい加減にしなさい!」


静恵の一喝で、居間の中は一瞬で静寂に包まれた。床に転がる高橋も、それを看病する磯も、咲月を押さえている五十嵐でさえも、彼女と咲月に視線を注いでいる。


「咲月、・・・自分が何をしたのか、分かっているの?」


瞳を潤ませながら諭すように呟く静恵に、咲月は顔を上げた。その表情は先ほどと、何も変わっていなかった。彼は静恵と視線を合わせると、渇いたような笑いを浮かべた。それは、決して、笑顔ではなかった。


「・・・静恵さんだけは、分かってくれてると、・・・思ってたのに」


そう呟いた咲月は力任せに五十嵐を振りほどき、静恵の制止も聞かず部屋を後にした。そのすぐ後に、玄関の戸が閉まる音が家の中に響く。


「・・・高橋先生!大丈夫ですか?」


居間に向き直った静恵は高橋の状態を視界に収めるなり、血相を変えて側に駆け寄ってきた。高橋は大丈夫と苦笑いを浮かべて、ゆっくりと体を起こす。


「今、救急箱持ってきますから」


「静恵さん!」


立ち上がった静恵を、高橋の声が制した。振り返った彼女の瞳には、涙が伝っている。


「・・・追わなくて、いいんですか?」


高橋の問いに、静恵は悲しそうな表情を浮かべて小さく頷いた。その痛々しい姿を、高橋は見ていられなかった。


「・・・今は、私が居ても、逆効果だから」


静恵は落とすように呟くと、涙を袖で拭って居間を後にした。部屋に残された五十嵐と磯は重苦しい空気を纏ったまま、一瞬前の出来事で散らかってしまったカップやテーブルを片付けている。


「・・・どうして、こうなっちゃうんですかね」


体を起こした高橋は、左頬をさすりながら誰に言うでもなく呟いた。咲月のためにすることが自分のためになると思っていたのに、結果として関わった人全てを苦しめるという最悪の事態におちいってしまった。口だけで結局何も出来なかった自分が、、哀れにさえ思えてくる。


「・・・学校側には、話すんですか?」


カップを片付けていた五十嵐が、小さく呟いた。彼の質問は、高橋の意思を確認するものだった。


「・・・どうすれば、いいんですかね」


咲月と静恵にとっては、あまりにも非情で残酷な過去。それを、自分が人に伝えていいものなのかが分からない。いや、話してはいけないことは分かっている。だから、どうすればいいのか。指導室で口を開かなかった咲月の気持ちが、今なら痛いほど理解出来る。


話せないこと。聞いてはいけないこと。


それを、自分は、軽はずみな気持ちで侵してしまった。磯の言葉通り、相手の心を、深く傷付けて。


「高橋先生。必ず、話してください」


そう言ったのはテーブルを拭いている磯だった。彼は睨むような目付きで高橋を見つめ、言いよどむ高橋に有無を言わせぬ口調で言い放った。


「でも・・・」


「先生はそれを知るためにここに来たんじゃないんですか?咲月君が深く傷付くと分かっていても、自分のエゴだからと静恵から話を聞いたのではないんですか?貴方が話さなければ、話したことで苦しんだ静恵はどうなります?咲月君はどうなります?どんな形であれ、これは貴方が選んだ結果だ。貴方が学校側に話さないというのなら、・・・俺は、貴方を、許さない」


「・・・そう、ですよね」


高橋は磯の言葉に小さく返し、俯いて目を瞑った。この事態を引き起こしたのは、自分だ。自分が最後まで責任を取らなければいけない。咲月の傷口を抉ったのも、それで殴られたのも、彼と静恵の関係にヒビが入ったのも、全て、自分が選んだものの代償だ。甘んじて、受けるしかない。


「・・・明日、話します」


高橋は姿勢を正して磯に言い切った。五十嵐と磯は賛同してくれるように、小さく頷いてくれた。それが高橋にはとても心強く、逆に自分が、どれほど弱いかを思い知った。

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