第※※※話
第※※※話
「・・・ここまで
・・・それからの一年ほどは、私も姉も昔に戻ったようでした。もちろん姉には家庭と咲月の面倒があり、私にも学校がありましたからあまり会う機会は作れませんでしたが、それでも、三年という時間の溝を埋めるように、私は小まめに買い物やお茶という口実で姉を誘いましたし、姉も時間を切り詰めてそれに応えてくれました。また、こうしていられることが、お互い嬉しかったんだと思います。
ですが、再び姉と私の間に距離が生まれ始めました。高校二年に進級した私には彼氏が出来て、友人も一気に増えました。勉強や学校行事が忙しくなり、いつの間にか姉と会う機会が減っていったのです。今だから、言えるのだと思います。私のしていたことが、・・・本当の、裏切りだと。今気付いたところで、今後悔したところで、もう、・・・何もかも、手遅れですけど。
・・・もし、あの時、変わらず姉に
あれは、私が大学二年の時でした。姉からの連絡で、大学帰りに姉の家の近くの喫茶店でお茶をすることになりました。姉に会うのはその時、実に半年振りでした。
私は遅れずに喫茶店に着きました。店内を見渡すと、窓際の席に姉の姿を見付けました。私はその席に真っ直ぐ向かいました。
・・・姉を正面から見たあの瞬間に感じた戦慄のようなものを、私はこれからも、忘れることが出来ないと思います。忘れることなど、出来ません。久し振りと口にしながら姉の向かいに腰を下ろした私は、姉の顔を見て、文字通り息を呑み、固まってしまいました。
姉の表情に生気はなく、左目と口元には生々しい
何があったのかという私の問いに、姉は耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声で、涙を流しながら私に話してくれました。
夫が経営している会社がうまくいってないこと。そのストレスによって生じた夫からの家庭内暴力。姉は随分と長い間、その仕打ちに耐えていたのです。
その時、私は想像をはるかに越えるほどの後悔に苛まれました。私がもっと姉と小まめに会っていれば、姉のことをちゃんと見ていれば、姉がこんなに追い詰められることはなかったのにと、私は自分自身を責めました。姉がこうなってしまったのは、・・・私の、せいだと。
何か出来ないかと、私は尋ねました。何も気付けなかった、何も出来なかった罪を、償いたかったのかもしれません。
しかし姉は、笑顔で小さく首を振りました。もう、大丈夫だからと、消え入りそうな声で呟いて。その笑顔と言葉の意味が、その時の私には、分かりませんでした。ただ、ショックだったのです。私が伸ばした手は、・・・姉には、握ってもらえなかった。
その日は、それだけで別れてしまいました。姉が、咲月が待っているからと立ち上がってしまったのです。私は自分の無力さを呪いながら、いつの間にか流していた涙を拭って、姉の小さな背中を見送りました。
どうすればいいかと、私は考えました。しかし、出来ることなど、何も思い付かなかったのです。大学生といっても所詮私はただの子供で、自分以外に影響を与える立場でもなければ、状況を打破する力も持っていなかったのです。両親にも話すことは出来ませんでした。私だけを呼び出して話したのはそういうことだと思ったから。私は無力な自分に嫌気が差すまで、一人で考え続けました。
翌日、彼氏と会う約束をしていたので、喫茶店で彼に会って、昨日の出来事を全て打ち明けました。彼は共に悩んでくれて、それが私には、唯一の救いでした。
色々な案を出し合い、吟味しました。警察に通報すること。その後の安全の確保はどうするのかなど、そういった現実的な解決策が、時間が進むにつれて具体的になっていきました。
その時、テーブルの上に置いていた私の携帯が鳴り始めました。私と彼は話を中断し、息を呑みました。表示されていたのは姉の名前で、私は電話を耳に当てました。
もしもしと言う私の言葉に、返事は返ってきませんでした。私はすぐに立ち上がり、喫茶店を後にしました。突然の行動でしたが彼も察してくれたらしく、すぐに後を追ってくれました。
何度声を上げて呼び掛けても、電話越しの姉は、か細い声でごめんねと呟くばかりでした。何のことだか分からず、私の頭の中は真っ白になりました。
私は急いで姉の家を目指しました。彼と一緒に居た喫茶店は昨日と同じ店だったので、走れば三分で着く距離です。
私は携帯で姉に呼びかけながら、ただ走り続けました。何かとんでもなく取り返しのつかないことが起きている気がして、足を止めることが出来ませんでした。
やがて、小さな雑音を最後に、電話から姉の声が聞こえなくなりました。私は更に焦り、携帯を握りしめていた手を必死に振って、姉の家を目指しました。
マンションに着いた私は階段を駆け上がり、上がる息を気にせず、姉が住む部屋に向かいました。
たどり着いてドアノブを回すと、玄関のドアは簡単に開きました。その瞬間、吐き気が込み上げるほどの強烈な臭いが、私の鼻をつきました。錆を溶かしたような、そんな臭いだったと思います。胸騒ぎは、更に膨らんでいきました。
私は慌てて靴を脱ぎ、急いで部屋を一つ一つ見て回りました。キッチン、トイレ、風呂場。どの部屋にも、誰も居ませんでした。
私は何度か声を上げました。しかし、家の中からは何も返ってきませんでした。私は最後の扉であるリビングへと続くドアのノブを回し、ゆっくりと開きました。
ただ、目の前の光景に、私は、固まってしまいました。
リビングの床は、ほとんどが赤に染め上げられていました。その中で、一人の男性が横たわっていて、リビングに入った私のすぐ脇には、咲月が床に身を投げ出し、力なく項垂れていました。何が起こったのか、起こっていたのか、私には、分かるはずもありませんでした。
思わず叫び声を上げようとした時、私の名前を呼ぶ小さな声が耳を掠めました。私は視線を、声がした方に向けました。
開いた窓の外のベランダに、姉の姿がありました。足をぶら下げて柵の上に座り、白いワンピースは
その時、私が何かしていれば、私に何かが出来れば、結果は変わっていたのかもしれません。ですが、私には、・・・何も出来ませんでした。非現実的な光景と、姉の私を見る目が怖くて、立っていることが、やっとでした。
姉は微笑んだまま、消え入りそうな声で呟きました。何度も、何度も、聞いた言葉を。
・・・ごめんね、って。
そう呟いた姉の体は、ゆっくりと後ろへ倒れていきました。姉が視界から消えた瞬間、私は心の底から叫びました。壊れたように、ただ、叫んでいました。
・・・四階の高さから、地面へと叩きつけられた姉は、・・・即死、でした。
夫と咲月を刺した包丁には、姉と夫の両方の指紋がはっきりと付着していました。姉が二人を刺したあと、自殺を図ったのだと、警察から説明がありました。咲月は私達が駆けつけたため一命を取り止めましたが、夫は病院で間もなく息を引き取りました。
警察はそう説明してくれましたが、何が起きたのか、真実はもう分かりません。私が駆けつけた時には、もう何もかもが、手遅れでしたから。
でも、・・・私を見つめていた姉の手に、包丁が握られていなかったのだけは、はっきりと覚えています。
これが、・・・高橋先生の知りたい、全てです」
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