第※※話
第※※話
「姉と私は、歳が五つ離れていました。
私が物心ついた時には、姉は既に近所では有名でした。外見は将来を期待してしまうぐらい愛らしく、勉強も常に一番で、運動神経も良いですし習い事のピアノはコンクールで賞を取ってしまうぐらい。両親から見ればこれ以上ないぐらいの、自慢の娘だったでしょう。
そんな子供の妹に生まれたら、誰もがコンプレックスを持ってしまうのでしょうが、私はそうはならなかったのです。姉がそうならないようにと、計らってくれていたのです。両親も姉の気持ちに気付いていたのか、私に多くのものを望みませんでしたし、だからといって愛情を注いでくれなかったわけでもありません。周りを見てそういう気配りが出来るほど、子供ながら姉は本当に出来た人でした。
もちろん、そんな姉が私は大好きでした。どんなに褒められ讃えられても、それらを鼻にかけず、周りの期待に応えるために
そんな姉が両親を裏切ったのは、姉が高校三年で、私が中学一年の時でした。あれは確か、夏が終わりを告げる頃だったと思います。
私は陸上部に所属していたので、練習でくたくたになりいつもより早く寝床につきました。意識を手放し始めてようやく眠りにつけると思った時、居間の方から、言い争うような声が聞こえてきたのです。私は静かに身を起こし、息を殺して居間の襖を少しだけ開けて覗きました。
言い争いを繰り広げていたのは、姉と母でした。二人は凄い剣幕でした。父は母の横に腰を下ろしていて、口を結んだまま険しい表情を浮かべていました。
その時の私は、目の前の光景がとても怖いと感じました。姉と母が喧嘩をしている場面など、その瞬間まで一度も見たことがなかったからです。
二人の言い争いは、一時間も続きました。子供がどうとか、進学がどうとか、会話の内容はよく覚えていません。私はどうしてこんな事態になってしまったのかが気になっていましたから、二人の声に、耳を傾けていませんでした。
やがて、姉は埒があかないと思ったのか、何かを小さく呟いて頭を深々と下げると、母の制止を聞かずに立ち上がりました。その態度に、母はとうとう顔を覆って泣き出してしまいました。父はそれでも、口を開こうとはしませんでした。
私はそこで気付いたのです。姉の横に大きな旅行鞄が置いてあったことに。姉はそれを右手で持つと、真っ直ぐに私の方に向かってきました。私に隠れる時間は、到底ありませんでした。
襖を開けた姉は、目の前に私がいることにとても驚いていました。私は姉を見上げながら、どこへ行くのと問いかけました。多分、私自身が今までの流れで気付いていたのでしょう、姉が家を出ていこうとしていることを。問いかけると同時に、私は涙を流していました。
姉は私の前で屈み込み、穏やかな笑顔で私の頭を撫でてくれました。その手が暖かかったのを、今でも覚えています。姉はまた会えるからと言い、頬に涙を伝わせて立ち上がり、玄関へと歩き出しました。姉は一度も振り返ることなく、家を出ていってしまったのです。その背中が、・・・とても遠く感じられました。
家を出る姉を前に何も出来なかった私は、母に慰められるまで、大きな声で泣きました。まるで体が半分に引き裂かれたような痛みに、耐えられなかったのです。今思えば、ふふっ。少し大袈裟ですね。でも、あの時は、・・・本当に、悲しかった。
それからしばらく塞ぎこんでしまった私に、母はあの日のことを話してくれました。話すべきではないと思っていたのでしょうが、塞ぎこんでいる私を見ていられなかったのだと思います。私は真剣に、母の言葉に、耳を傾けました。
言い争ったあの夜、姉は既に咲月を
当然、そんな事情を聞いたところで、私は立ち直ることが出来ませんでした。それどころか、血の繋がった私より赤の他人を選んだことがショックで、裏切られた気分でした。子供って、・・・残酷ですよね。どんなに相手が幸せでも、自分に都合が悪ければ受け入れないんですもの。あの頃の私が、・・・まさに、そうでした。
あまり時間はかからずに母と父は、娘が幸せになったことをすぐに受け入れられました。電話で姉から時々相談を受けていたようですし、私が知らない内に、姉と母は外で会っていたらしいのです。ですが、私の思いは、変わりませんでした。母との電話で姉が代わってくれと言っても、会いたいと姉からの伝言を聞いても、私はそれらを拒み続けました。裏切られた悲しみはいつの間にか怒りへと変わり、私は姉を拒むようになっていたのです。
姉の思いを、何ヵ月も、何年も、私は無視し続けました。そのことで母に本気で怒られたこともありましたが、それでも、私の心は変わりませんでした。それほど、私にとっての姉は大きな存在で、その反動が、大きかったのです。
それでも、時間は自然に、過去の感情を風化させていきました。気が付けば、姉が家を出ていってから三年が経っていて、高校生になっていた私の中で、もう姉に対する怒りは薄れていました。だからといって私が姉に進んで連絡することもなく、姉からの電話もタイミングが悪く、結局姉と話す機会もありませんでした。
あの日は、姉が出ていった日のように、夏が終わりに近付き涼しい風が吹いていました。学校が休みの私は窓を開けて、音楽を聴きながら勉強をしていたと思います。その時、かすかに聞き覚えのある声が風に乗って聞こえてきたのです。ですが私は、気のせいだと思いました。音楽を聴いていましたし、姉があれ以来家を訪れることは一度もありませんでしたから。私はすぐにペンを持ち直して、机に広げられているノートに目を落としました。
その時、来客を告げるインターフォンの音が家の中に響きました。私は弾かれたように立ち上がり、玄関へと駆け出しました。もし空耳じゃなかったらと一瞬で思い至ったら、逸る気持ちを抑えられなかったのです。
あの時の気持ちをどう言葉にすればいいのか、今でも分かりません。喜びも驚きも怒りさえも、全てがないまぜになったような、そんな感情だったと思います。
玄関には、三年前と何一つ変わらない姉が佇んでいました。ただ一つ違うのは、その手に小さな手が握られていたことでした。姉は私の姿を捉えると、久し振りねと小さく微笑みました。私の頬には涙が伝い、私は姉に駆け寄り抱きつきました。裏切られたとあれほど
手を引かれた二歳ぐらいの幼子の名前は、咲月と言いました。満月の日に生まれたからそう付けたと、姉は嬉しそうに話してくれました。咲月を見る姉の瞳は、今まで私が見たことのない眼差しでした。慈しむような、優しい瞳でした。私はその眼差しから姉が母親になったことを知り、姉が幸せであることを肌で感じました。その時、私はようやく姉の幸せを受け入れて、喜ぶことが出来ました。
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