第20話
第20話
「今日は、満月ですね」
助手席に腰を下ろした高橋は、ドアの窓から空を仰いで、誰に言うでもなく呟いた。頭上に広がる暗闇を纏った空の中には、綺麗な満月と散りばめられたような星屑が広がっていた。
「お月見にはちょうど良いですね」
運転席でハンドルを握っている五十嵐は笑みを浮かべながらそう答え、少しだけ前屈みになりフロントガラス越しの満月を見上げた。
五十嵐は昼頃、雨宮の叔母に連絡を入れて会うことに了承をもらえたらしく、高橋は再び甘えるように助手席に乗り、雨宮邸を目指していた。
七時を過ぎているため大通りにあまり混雑は見られず、二人を乗せた車は十分程度で雨宮邸付近にたどり着くことが出来た。
コインパーキングに車を止めて降り立つと、渇いたような冷えた空気が肌を刺してくる。高橋は慌ててコートに袖を通した。
「ここですよ」
三分ほど歩いたところで、五十嵐は足を止めた。示された方に高橋が視線を向けると、そこには年季の入った二階建ての家屋が居を構えていた。垣根から覗ける庭は花こそないが綺麗に剪定されていて、古風な趣の中に何とも言えぬ威厳を潜ませている。その全体像は、小さい時に作った田舎町のジオラマを彷彿とさせた。
「時間通りなので、静恵は帰ってきていると思いますよ」
五十嵐は笑顔でインターフォンを押した。どうやら緊張しているのは自分だけだと高橋は気付き、深呼吸をしてほぐそうと試みる。
『どなたですか?』
インターフォンから漏れてきた声は予想していたよりはるかに理知的でハスキーなもので、高橋は思わず息を呑んだ。
「夜遅くに悪いな。咲月君は居るのか?」
五十嵐は高橋にとって違和感の残る口調で尋ねた。
『・・・いえ。今行くわ』
一瞬の間のあと、家の主はインターフォンの向こう側でそう呟いた。五十嵐はやれやれといった様子で、高橋に向かって苦笑いを浮かべている。幾分声のトーンが落ちたのは、気のせいではないと彼の表情が裏付けた。
「・・・何か、怒ってません?」
窺うように高橋が尋ねると、五十嵐は間髪いれずに呟いた。
「まぁ、良くは思われていないでしょうね」
五十嵐の返答に、高橋の緊張は更に増していった。許されるのならば、このまま帰りたいと思うほどに。
少し待っていると、玄関の戸が開かれ中から一人の女性が姿を現した。百六十ぐらいの身長だろうか、服装は完全に仕事帰りといった様子で、黒のパンツに白いワイシャツ、端正な顔立ちをなぞるように黒髪は伸び、少し上がり気味な眉は不機嫌そうな表情に更に磨きをかけていた。彼女は二人を交互に一瞥してから、上がるように促して家の中へと消えていった。
「じゃ、行きますか」
彼女の好意的とは言えない対応に五十嵐は微塵も表情を変えず、彼女の指示通り玄関に足を踏み入れた。高橋もそれに続こうとしたが、五十嵐が下を向いて棒立ちになっているので、高橋は窺うように問いかけた。
「どうしました?」
「あ、いや・・・」
五十嵐は小さく首を振ると、靴を脱いで玄関を上がった。高橋も続いて玄関を上がろうとしたが、足元を見て靴を脱ぐ動作を止めた。そこには女性のヒールの横に、寄り添うように高級そうな革靴が脱がれてあった。おそらく五十嵐もこれに目を止めたのだろう。雨宮咲月が履くようには思えなかったが、高橋は特に気にすることもせず靴を脱ぎ、五十嵐の後に続いた。
入ってすぐ右手にある台所でコーヒーを淹れている静恵に言われて、五十嵐は廊下を少し進み左手の襖を開いた。再び彼は足を止めたので、今度は尋ねずに高橋は五十嵐の肩越しに居間を覗いた。
「磯先生!」
「先生はやめてくださいよ。高橋先生」
居間の中央のテーブルに腰を下ろしていたのは、先日高田への面会で世話になった医師の磯だった。彼は笑顔で二人を迎え、座るよう促した。
「何でお前が、ここに居るんだ?」
「私が呼んだの」
険しい表情を浮かべながら腰を下ろした五十嵐の質問に答えたのは静恵だった。彼女は磯に盆を手渡すと、居間の襖を閉めて磯の隣に腰を下ろした。ちょうど高橋の向かいである。
「改めて、初めまして。咲月の叔母の雨宮静恵といいます。いつも咲月がお世話になっております」
静恵は渡した盆をまた手に取り三人の前にコーヒーを配ると、表情を崩さずに小さく頭を下げた。高橋も慌てて倣うように自己紹介をして頭を下げる。
高橋の緊張は予想以上に高まっていた。それもそのはずである。五十嵐と磯と静恵の三人は同級生にあたり、この四人の関係性で何もないのは自分だけだからだ。それが張り詰めた緊張を助長させているに違いない。
しかし、今回の一席を設けたのは間違いなく自分自身だ。自分が会話を先導しなければ、この席の意味がなくなる。高橋はどうにか会話の主導権を握るよう必死に言葉を探したが、先に口を開いたのは静恵だった。
「磯や五十嵐から話は伺っております」静恵は事務的な口調で言うと、再び頭を下げた。「先日の咲月の件は、大変ご迷惑をおかけしました」
「あ、いや・・・」高橋は不意を突かれて言い澱む。「あの、咲月君の怪我の具合は・・・」
「指の打撲程度です」
「・・・そうですか」
静恵のはっきりと切り捨てるような物言いに、高橋は心の中でため息を吐いた。
良くは思っていない。そう言った五十嵐の言葉の意味が肌で感じられるほど、静恵の態度には
高橋が言葉に詰まっていると、
「直哉。お前がここに居るのは、・・・何か、関係があるってことか?」
笑みを消した五十嵐の問いに、磯は小さく頷いた。その返答が、高橋に余計な混乱を与える。彼が、何故、どうやって、関係しているのか。
「磯先生。それは、どういう・・・」
「高橋先生」
高橋の質問を遮ったのは、静恵だった。彼女は有無を言わせぬほどの眼光で高橋を見据えている。高橋はただ、出なかった言葉を飲み込み、静恵の視線に息を呑むしかなかった。
「は、はい」
「質問があります」
静恵は姿勢を正して深呼吸をした。その仕草が、張り詰めた空気を更に圧迫していく。一瞬の沈黙が、やけに重い。
「・・・高橋先生は、何故そこまで、事情をお知りになりたいのですか?」
「・・・え?」
高橋は聞き返した。質問の意味が、正確に理解出来ない。お互いの隣で沈黙を守る磯と五十嵐も静恵の真意が分からないらしく、彼女が紡ぐ言葉に耳を澄ませていた。
「高橋先生が、どういうお考えで事情をお聞きしたいのか、お尋ねしているんです」
丁寧に淡々と紡がれる疑問に、高橋は身構えた。彼女の真意が、かすかに窺える気がする。教え子を救いたい、そんな建前だけのありきたりな理由など求めてはいないだろう。彼女の言葉は高橋の真意を探ろうとする問いかけだった。
一瞬、自問自答が繰り広げられる。導き出せなかった答えが、彼女が求めているもの。それこそが、根底にある、真意。
「・・・不愉快な思いをされたら、すいません。僕は・・・」高橋は目を伏せてゆっくりと口を開いた。考えなど纏まっていないが、纏めても意味がない気がする。言葉にした瞬間、それは飾られた感情でしかないからだ。「最初は、どうでもよかったんです。その、雨宮君が、どうなろうと・・・」
頼りなげな高橋の呟きに、五十嵐は何を口走っているのかと驚きの眼差しを向けた。しかし、磯と静恵は顔色一つ変えなかった。真剣な眼差しで、高橋の言葉を一言一句逃さぬよう耳を澄ましている。
「学校が下した処分だって、僕からすればありがた迷惑でした。だけど・・・」高橋は顔を上げて、睨むような静恵の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。「今はもう、違うんです」
「・・・何が、どう、違うのですか?」静恵はやはり表情を崩さずに問い返した。
「・・・救いたいとか、そんな格好いいものじゃありません。ただ・・・、彼の未来を潰してしまうのが、・・・怖いんです」
自分自身が紡いだ情けない言葉に、高橋は目を伏せた。その言葉と言動に、三人は意味が分からないと眉をしかめたり首を傾げたりしている。
「・・・皆さんは笑うかもしれませんが、今回の件が起きて、彼のことについて色々と調べて、最近考えるんです。もし雨宮君が退学にならなかったら、どうなるんだろうって」
高橋は顔を上げた。三人の視線が真っ直ぐ注がれていることが少し恥ずかしかったが、ここまで言っておいて口をつぐむわけにはいかない。
「その、いつか雨宮君と笑顔で再会したり、彼が成人を迎えて一緒に酒を呑み交わしたり出来るのかなって。もしそういう未来もあるのなら、僕はそれを、選びたいんです」
幾百、幾千の選択。そこから紡がれる、幾万の未来という可能性。より良い未来を得るために、そう在りたい自分を目指すために、人は考え、悩むのではないだろうか。自分も、今、そうではないのか。
その時、先日の五十嵐の言葉が思い出されて、それが高橋の肩をそっと後押しした。
「何もしないで後悔するより、出来ることをして、後悔したいんです」
「相手が深く傷付くと、分かっていても?」
高橋の言葉に間髪入れず口を挟んだのは磯だった。鋭い眼光と威圧的な口調が、高橋を一瞬怯ませる。だが、高橋は譲らなかった。
「傷は、いつか癒えます。でも未来を失ったら、もう取り戻すことは出来ません。それなら僕は、どんなに傷付けても、どんなに恨まれても、未来を残したいんです。それが、僕のエゴだと分かっていても」
「咲月君の気持ちを、考えないということですか?」
「そうです。これは、僕のためです」
「自分が何を言ってるのか、分かっているんですか?」
「・・・静恵?」
五十嵐の小さな呟きに、今にも取っ組み合いをしそうなほど睨み合っていた高橋と磯は視線を移した。高橋の向かいに座る静恵は深く俯いて肩を震わせている。高橋は彼女が泣いていると感じ、少し冷静になって自分の言動を振り返った。彼女を傷付ける言葉を、自分は幾度口にしただろうか。
「あ、その・・・。す、すいません。僕・・・」
「・・・ふっ」
「・・・静恵?」
磯が呼び掛けた瞬間、静恵は肩を震わせながら顔を上げた。確かに涙を流していたが、それは悲しみからくる涙ではなく、笑いを噛み殺して出たものだった。彼女は目尻の涙を人差し指でそっと拭っていて、三人は呆然とそれを眺めていた。
「ふふっ。凄い、自己中心的な主張。そんなものが返ってくるなんて、考えもしなかった」
ようやく笑いが収まった静恵は、小さく深呼吸をし、高橋に視線を向けた。その眼差しに、もう敵意のようなものはなかった。
「高橋先生みたいな先生に、私も会いたかったわ」
静恵の笑顔に、高橋は訳も分からずつられるように渇いた笑いを浮かべた。彼女を傷付ける言葉は発したが、笑わせるような言葉は何一つ言っていないはずだ。五十嵐も状況が飲み込めず、磯に視線を移して首を傾げた。
「・・・何がそんなに面白いんだ?」
「さぁ、俺にもよく分からん」
磯と五十嵐の二人が首を傾げる中、静恵は必死に笑いを堪えていたせいか軽く咳き込み始める。何が面白いのか、同じく高橋にも到底理解出来ない。
「だ、大丈夫ですか?」
高橋が尋ねると、静恵は口元を押さえながら大丈夫と呟き、大きく深呼吸をした。
「ごめんなさい。気を悪くなさらないでください」静恵は笑みを浮かべて、高橋に頭を下げた。「咲月の先生が、貴方みたいな方で良かった」
「・・・静恵、話すのか?」
一瞬で険しい表情を浮かべた磯の問いに、静恵は少しだけ表情を引き締めて頷いた。
「高橋先生なら、大丈夫だと思うわ。咲月の事を生徒としてではなく、一人の人として接してくれていると、私は思うから」
高橋の心に、極度の緊張が走る。自分としては叔母であり保護者である静恵に会うだけの予定だった。
「高橋先生。お願いがあります」
静恵は姿勢を正して、真っ直ぐに高橋を見据えた。先ほどまで笑いを噛み殺していた人物とはまるで別人のように見える。しかし、初めて会った時のような刺々しさはなくなっていた。高橋は彼女に倣うように姿勢を正し、その視線に応えた。
「先生を信じて、全てをお話します。ただ、一つだけ、約束して下さい。話をしても、・・・理解出来ないと思いますが、どんな事を聞いても、どう思っても、咲月に対する態度を変えないで頂きたいのです。難しいとは思いますが、あの子は、とても敏感なので」
「・・・理解出来なくても、お約束します」
高橋の頷きと小さな呟きに、静恵は軽く吹き出して、視線を磯へと移した。彼も高橋と同じように頷く。静恵は再び高橋に向き直り、呼吸を整えた。高橋と五十嵐の緊張が、張り詰める。
「・・・どこから、話せばいいのかしら」
静恵は一度目を伏せて、静かに、淡々と、語り始めた。
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