第19話

第19話

「・・・夏海、何の病気なんだ?」


夏海の病室の前で壁に身を預けていた咲月は、唇を噛み締めながら病室の扉を見つめ続ける歩に問いかけた。


咲月が夏海を抱えたまま上昇するエレベーターを降りた時、歩と磯がちょうどエレベーターに乗り込む所だった。咲月は咄嗟の磯の指示に従い、夏海を抱えたまま彼女の病室に向かった。そこには既に二人の看護師が待ち構えていて、ベッドの脇にはモニタや酸素吸入の機械が準備されていた。


夏海をベッドに寝かせると、看護師は慌ただしく作業を始め、咲月と歩と結城の三人は、病室から追い出された。それから既に二十分は経過しているだろうか。


「・・・なぁ、新藤」


答えない歩にもう一度咲月は問いかける。振り返った歩の頬は、既に涙で濡れていた。


「・・・元々、お姉ちゃんは、心臓が弱いの。歳を重ねれば良くなるかもって先生は言ってたけど」歩は言葉を切って目を伏せた。瞬きをするたびに、雫が一粒床を叩く。「・・・もう、心臓が、循環に耐えられなくなってきたって」


咲月は息を呑んだ。歩の間接的な言い回しを、何とか良い方向へ導こうとした。しかし、そんなことは出来るはずもなかった。彼女の言葉は、残酷な推測しか思い浮かばせなかった。


「・・・どういう、ことだよ」


それでも一縷いちるの望みにかけて、咲月は再び問いかけた。歩はとうとう泣き崩れてしまい、その場に屈み混んで顔を覆ってしまった。それが咲月の中の残酷な推測を、更に克明に描かせていく。


「いつ、何が起きても・・・、か、覚悟しなさいっ、て・・・」


歩は震える声で吐き出すように零した。咲月はただ、彼女を見下ろしながら立ち尽くしていた。歩の言葉を、脳がうまく処理出来ない。


その時、病室の扉がゆっくりと開かれた。廊下で待たされていた三人は一斉に顔を上げる。扉から現れたのは磯で、彼は三人を視界に収めると笑顔を浮かべた。


「とりあえずもう落ち着いたよ。麻酔が効いているから、今は寝ている。じきに目を覚ます。安静にしなきゃだから、面会は一人ずつでね」


歩が何度も頭を下げる中、磯は手をひらひらと振って歩き出した。その歩調は少し緩やかで、安堵していることが窺えた。


咲月はすぐに扉を開いて病室の中に足を踏み入れた。ベッドの脇では点滴の量を看護師が調整していて、咲月の入室に気付くともう大丈夫ですよと残して病室を後にした。


二人きりの病室。咲月は夏海が眠るベッドに近付いた。


夏海はベッドの上で静かに眠っていた。規則的な呼吸をしていることが、口元に付けた透明なマスクが曇ることで確認できる。シーツの上には華奢な白い腕が出ていて、肘の裏の動脈には点滴のための針が刺されている。


咲月の内側で、声を上げてしまいたくなるような何かが突き上がってきた。それを漏らさないように、歯を食い縛る。視界が一瞬、かすかにぼやける。


「・・・夏海」


震えそうな声を必死に抑えて、咲月は名前を呼びかけた。しかし、夏海からの反応はない。咲月はそっと手を伸ばして、シーツの上に無造作に出されている白く細い腕に触れ、手を握った。彼女の体温が、かすかに伝わってくる。


何故、こんなにも、胸が痛いのだろう。


何故、こんなにも、悲しみが込み上げるのだろう。


「・・・咲月?」


指先の温度が伝わると同時に、くぐもった声が名前を呼んだ。咲月は細い腕から視線を移し、夏海の顔に向けた。


「・・・夏海、大丈夫か?」


咲月の問いに、薄く目を開けた夏海は小さく頷いた。視線を下げて、握られている手を力を込めて握り返す。しかし、咲月の感じ取れたそれは、とても弱い力だった。


「・・・もう、大丈夫。・・・最近、調子良かったんだけどな」


夏海はマスク越しにおどけて笑顔を見せた。それはいつもと変わらない笑顔のはずなのに、咲月の瞳にはもう、そう映ることはなかった。咲月は何と声をかけていいか分からず、夏海の手を手繰り寄せて両の掌で包んだ。彼女の手は、すっぽりと咲月の両手に収まった。


「・・・歩から、聞いたの?」


ゆっくりとした夏海の問いに、咲月は小さく頷いた。彼女はそうとだけ呟いて、白い天井を仰いだ。緩やかな瞬きが、一滴の涙を目尻から伝わせていく。


「・・・咲月には、知られたくなかった。ずっと普通に、接して欲しかったし・・・」夏海は首を動かして、真っ直ぐに咲月を見つめた。声はかすかに震え、その瞳は悲しみに押し潰されそうなほど、潤んでいる。「・・・そんな目で、見てほしく、なかった」


夏海が放った言葉の意味を咲月は一瞬で理解し、悲しみから我に返った。一瞬前の自分に、酷く後悔の念を覚える。


自分の内の悲しみを、咲月は瞳に投影してしまっていた。しかしそれはその時点で形を変えていた。瞳が夏海を映して描いていたのは、紛れもない、同情や、憐れみだった。


その瞳がどれほど傷付くか、どれほど心をえぐるか、咲月は誰よりも理解していた。理解していたはずなのに、そんな眼差しを、自分は彼女に向けてしまっていた。


「違うんだ!俺は・・・」


咲月は弁解を試みようとしたが、夏海は顔を窓の方に反らし、咲月が握った手はすり抜けていった。言いたい言葉が、彼女の態度に押し殺される。


「・・・ごめん。・・・一人にして」


それは咲月に対する完全な拒絶だった。咲月は何も言えず、何も出来ずに、俯きながらベッドから離れた。拳を握りしめ、後悔と無力さに苛まれながら、身を翻す。


「・・・ごめん」


一体何に対して謝っているのか分からなかったが、咲月はそれしか言葉に出来なかった。もちろんその言葉に何が返ってくるわけでもなく、咲月は振り返ることなく病室を後にした。


扉が開く音で、結城と歩は弾かれたように顔を上げた。咲月の表情がまるで伝染でもしたかのように、二人は一瞬で表情を曇らせる。


「・・・どうした?何があった?」


結城の言葉に、咲月は渇いた笑みを浮かべた。自分が最も忌み嫌っていることを、たとえ無意識だとしてもやってしまったことは、どんなに嘆いても許されない。情け無さすぎて、笑いが込み上げてきたのだ。


「・・・一人にしてくれって、さ」


誰に言うでもなく落とすように呟いた咲月は、エレベーターに向かって歩き出した。呼びかける声が聞こえたが、咲月は足を止めなかった。


エレベーターを一階で降り、いつもの裏口から病院を出る。陽は既に落ちかけていて、茜色の雲がダークブルーの空に漂っていた。


咲月はいつものベンチに腰を下ろし、足を投げ出してくわえた煙草に火をつけた。かすかに見える紫煙が、静かに昇っていく。


頭の中はパニックにおちいっているのに、こんなにも普通の動作が自然に出来るのが咲月には不思議だった。何もかもが思考の中心にあるのに、何も考えないようにしている。まるでミキサーで頭を掻き回されているような感覚で、自分でも自分の状態がよく分からなかった。


何度も紫煙を吐き出し、思考をクリアにしようと努める。そうして整理された思考の中で、優先して考えなければいけないことを探す。


それはやはり、夏海のことだった。彼女を思い、紫煙と共にため息をこぼす。


彼女を傷付けてしまったことに気付いたことよりも、彼女に拒絶されたことよりも、思考を真っ先に支配したのは歩の言葉だった。知り合ってまだ三日程度でも、夏海の存在は咲月にとって既に大きく、その事実の重さは、計り知れなかった。


感情が、どう対応したらいいかを考えあぐねている。そう考えられることが、自分が少しずつ落ち着いてきている証拠だと感じる。


「咲月」


小さな呼び声に、咲月は振り向いた。病院の裏口から姿を現した結城が、手に缶コーヒーを持って近付いてきた。彼は咲月の隣に腰を下ろすと、何も言わずに缶を差し出した。


「・・・ありがとう」


咲月は礼を言って缶を受け取る。それはホットコーヒーで、隣の結城はタブから缶の中に息を吹き込んで冷ましながら少しずつ飲んでいた。


結城はやはり、何も聞かなかった。その彼のいつもの気使いが嬉しかったはずなのに、今日に限って、辛く感じた。


「・・・俺、傷付けた」


咲月はベンチの背もたれに体を預けて、両手で包んだ缶に視線を落としながら小さく呟いた。


「俺が、一番、理解してるのに・・・、俺が一番嫌うことで、・・・夏海を、傷付けた」


「・・・そっか」


結城は小さく頷き、それだけを口にした。訪れた沈黙を、コーヒーを飲むことでもて余す。


「・・・冷たいこと、言うようだけどさ」結城は広場の中央を見つめながら口を開いた。「お前の後悔を俺が聞いたところで、何の意味もないだろ。思ったことは直接、本人に言えよ」


「・・・確かに、冷たいな」


「馬鹿。優しいだろ」


「分かってるよ」


結城の言葉で、力はないが咲月は笑顔になることが出来た。言葉にして吐き出したことで、よどんだ感情は少しだけ透明感を取り戻す。


「でも・・・、覚悟をしろ、か」


立ち上がった結城は大きく伸びをしたあと、落とすように呟いた。彼も突き付けられた突然の事実に、どう対応していいか分からないでいる様子だった。


「・・・俺、夏海に、何が出来るんだろう」


咲月はようやく缶のタブを起こし、口を付けてから呟いた。残された刹那せつなの時間の中で、何が出来るのだろう。拒絶された自分が、何を与えてやれるのだろう。


「俺は分からねぇけど、お前には、何か出来るよ」明るい声でそう言った結城は、項垂うなだれる咲月に向かって笑顔を見せた。「初対面でも、見てれば分かる。お前は多分、夏海さんにとって特別だよ」


「・・・そうだと、良いな」


咲月はそう呟いて立ち上がり、結城に小さく笑顔を返した。


そうであれば、考えなければ。


探さなければ。


自分の、出来ることを。


自分だけが、出来ることを。


「家、寄ってくだろ?」


ゆっくりと歩き出しながら呟いた結城に、咲月は小さく笑顔を頷いて彼の後に続いた。


ふと、暗さを増す空を仰ぐと、朧気おぼろげな満月が、空を漂っているように見えた。

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