第13話

第13話

咲月は結局やることなど見付からずに、翌日も再び病院に向かうことにした。静恵はいつも通り仕事だったので昨日のカレーを温めて簡単な朝食を済ませ、赤いチェックシャツに白いパーカーを羽織って家を後にする。


今日も昨日と変わらないような天気で、かすかにだが寒さが増している気がする程度だった。気になるほどではない。


今日は調子が良かったのだろうか、昨日のように悪夢にうなされて起きるようなことはなかった。気分としてもそれはありがたい。あんな記憶を毎夜繰り返されたら、簡単におかしくなってしまう。咲月はポケットに両手を突っ込みながら、安堵の息を漏らした。


病院にたどり着いて、咲月は総合受付へと歩いた。患者への面会は身分証の提示と面会名簿への記入、面会バッジの装着が義務付けられている。咲月は去年取得したが一度も効力を発揮していない二輪の免許を提示し、名簿に記入を済ませてバッジを受け取り、昨日夏海から聞かされていた番号の病室を目指した。エレベータに乗り、廊下の掲示を頼りに歩を進めていく。


五二五室にたどり着いて部屋割りを確認すると、そこはどうやら個室らしく、白いプレートの中央には「新藤夏海」の文字が確認できた。咲月は個室であることに少し胸を撫で下ろして、縦長の取っ手が付いた扉を軽くノックした。しかし、二回ほど繰り返したが、反応が返ってくることはなかった。


それ以外に不在かどうかを確かめる術を持たない咲月は、そっと取っ手に触れてみた。ドアは思いの外簡単に動いたが、力をコントロールしてゆっくりと開いていく。


「・・・夏海、さん?」


咲月は小さく名前を呼びながら、徐々に視界に広がっていく病室の風景を、瞬時に脳に送り、処理していった。


どこまでも統一された、いや、統一されそうな空間。白い壁。白い天井。白ではないものを探す方が、手間がかかるぐらいに、まるで少しの汚れも許さないような空間だった。


白いカーテン。それを窓際で走らせる小さなレールらしきものには、見覚えのある白いジャケットがハンガーで掛けられていた。ベッドの布団は綺麗に畳まれていて、主が居ないことを示している。カーテンの隙間から射し込む陽光が、白に反射して眩しい。


主の居ない部屋に、もちろん勝手に入っていい理由はない。咲月は静かに部屋の扉を閉めた。彼女が居ないのならば、自分がここに居る理由はない。そう思った咲月が小さなため息を吐いてエレベータを目指そうと足を踏み出した、その時だった。


「咲月!」


透き通るような、それでいてかすかにハスキーな声に、咲月は振り返った。廊下の奥の方から声を上げた夏海が、笑顔で小さく手を振っている。


夏海は急いで走る様子もなく、ゆっくりと近付いてくる。咲月もまるで引かれるように、身を翻して歩き出した。


「迷わなかった?ここまで来るの」


「・・・ガキじゃないんだ」


夏海の開口一番の売り言葉にぶっきらぼうに答えた咲月は、少し難しそうな表情を浮かべながら指先で頭を掻いた。彼女はその不自然な仕草に、少しだけ首を傾げる。


何を話すかなど、咲月は何も考えていなかった。ただ、彼女に言われた通りに足を運んだだけである。昨日あれほど会話が成立していたのは、彼女のお陰だったのだ。


それに、こういう状況にあまり免疫があるとも言えなかった。決して友好的でもなければ社交的でもない咲月は、極力他人との接触を避けてきたのである。向こうから来てしまうのは拒みようがないが、自分から進んで話しかけにいくなど、学校生活でも吉田結城一人ぐらいだ。


何も話せばいいか、分からない。それが余計な焦りを生み出し、次の言葉を濁らせる。


「あの、さ・・・」


考えた挙げ句に咲月の口から出た言葉は、そんな接続詞である。それが更に思考の焦りに拍車をかける。夏海は更に首を傾げるかと思われたが咲月を真っ直ぐに見つめて小さく微笑んだだけだった。


「そんな無理に会話しようと考えなくていいよ。話したいことを話せば。話すことがなければ話さなくたっていい。そんなもんでしょ?」夏海は屈託のない笑顔で身を翻した。「ま、言葉を選ぶのは大事だけどね」


部屋の前まで戻り、咲月は夏海が部屋の中に消えている間、ただ驚いて立ち尽くしていた。どうして自分の感情が理解されているのか、不思議でしょうがなかった。


夏海はすぐに部屋から姿を現した。その手には小さなバッグが握られている。それは若者なら誰もが持っていそうな、ズボンに装着できるバッグだった。しかし中から覗くそこに収納されているものは、自分には見慣れないものばかりだった。


「さ、行こ」


「は?・・・どこに?」


「いいから!」


夏海は急かすように咲月の質問を一蹴すると、バッグを持っていない手を伸ばして咲月の手を取った。突然のことに少し緊張したものの、彼女の強引な行動に咲月は従った。


「暇だから来たんでしょ?だったら何しても暇潰しにはなるじゃん」



変な理屈を咲月に言い聞かせながら、夏海はどんどん廊下を進んでいった。たどり着いたのは突き当たりの扉がない部屋で、入口の上部に取り付けられているプレートには「談話室」と書かれていた。


「はーい!お待たせ!」


声を張り上げながら夏海が入っていくと、談話室の中で無邪気に遊んでいた子供達が歓声を上げながら彼女のもとに集まった。目の前の光景に呆気に取られている咲月を置いて、夏海はその場に屈み込んで視線を子供達に合わせると、負けず劣らずの無邪気な笑顔を浮かべた。


「じゃあ、いつも通りやっちゃいますか!」


「おーっ!」


夏海の掛け声に拳を高々と上げた子供達三人は、それを合図に散り散りになって走り出した。先ほどからの光景が、ここを病院だと忘れさせてしまう。しかし、注意をする者は誰も居ない。この階では、当たり前の光景なのだろうか。


「・・・何?」


一人取り残された咲月が疑問を投げ掛けると、子供達が散ったのを見届けてから腰を上げた夏海は、振り返って悪戯いたずらな笑みを浮かべた。


「へへっ。今から私の格好いいところを見せてあげよう」


そう言うと、夏海は窓際にいるように咲月に勧めて、談話室にある自動販売機へと歩を進めた。咲月はいまだに何が何だか分からないまま、とりあえず言われた通りのポジションについて、壁に体を預けることにした。


目の前の、部屋の中央より窓際の場所で、一人の少女が椅子に腰掛けていた。ちょうど咲月の正面に近い位置だった。少女は怖いものでも見るような怯えた瞳で咲月を見上げている。綺麗な黒髪は腰に達するほど長く、年齢は見た目で判断するなら十歳には満たない程度に見える。


「・・・こ、こんにちは」


聞こえるかどうかというほどの挨拶を口にして、少女は小さく頭を下げた。突然目の前に知らない、しかも大人に近い男が現れれば、子供なら誰でも怯えるのは当然だった。


「・・・こんにちは。今から何すんの?」


子供の接し方にも慣れていない咲月は微塵も笑顔を浮かべずに問いかけた。ただ、内心では彼女の恐怖心が増さないよう祈るばかりである。


「あ、あの・・・夏海お姉ちゃんに、髪を切ってもらうんです」


何とか少女は質問に対して必死にそう答えた。その言葉で、咲月は先ほど夏海が手にしていたバッグの正式名称を思い出した。


シザーバッグ。今はファッションや利便性で若者が身に付けているのが主流に見られがちだが、本来は美容師やフラワーデザイナーなどが持つ仕事道具の一種である。様々な道具を忍ばせ、腰から簡単に取り出すために使うのが本来の用途だ。


納得した咲月の視界の前で、先ほど夏海の前から散り散りになった子供達が頼りないが慣れた手付きで各々の仕事をしていた。一人は少女の周りに満遍まんべんなく新聞紙を広げ、一人は少し背の高い机を運び入れ、一人は掃除道具をどこからか手に入れてきていた。


準備が整ったのだろうか。三人は一列に並んで夏海の次の指示を待っている。自動販売機から数本の飲み物を取り出した夏海は、部屋の中央で子供達の仕事ぶりを確認したあと、笑顔で声を上げた。


「よしっ!完璧!ありがとね!」


夏海は元気な声で言うと、子供達一人一人にジュースを手渡した。お駄賃の代わりなのだろう。子供達はそれを嬉しそうに受け取ると、壁際に並べられた椅子に腰を下ろした。


「咲月。はい」


夏海は咲月に缶コーヒーを投げ渡すと、背の高い机にシザーバッグの中身を並べて薄い青の着衣の袖を捲った。華奢で白く綺麗な腕が露になる。


「・・・夏海さんって、美容師?」


咲月は投げ渡された缶コーヒーに口をつけながら問いかけた。問いかけられた夏海は慣れた手付きでハサミを指先でもてあそびながら、少女の前の机に置いてある少し大きめな鏡の角度を調整し始める。少女も椅子に腰掛けた子供達も目を輝かせて、彼女の一挙手一投足を見逃さぬようにしているようだ。


「ま、見ててよ」


軽くピースサインを咲月に向けた夏海は、少女の後ろに立って長い髪をそっと指先で撫でた。まだ傷みを知らない綺麗な黒髪は、絹のように彼女の指の隙間をすり抜けていく。


「じゃあ、香織ちゃん。生まれ変わろっか」


香織と呼ばれた少女の顔の横で鏡に向かって微笑んだ夏海は、その笑みをたたえたまま、指先を動かし始めた。


咲月はただ、目が離せなかった。離せなくなっていた。


(・・・すげぇ)


指が一本一本、まるで意思を持っているように動いている。それは踊っているようで、それでいて舞っているようにも見えた。指先に操られたハサミも倣うように舞うように動いて綺麗な黒髪を散らしている。目が、意識が、その一連の動作を、無意識になぞってしまう。


「目を瞑って。自分に魔法をかけるの。綺麗になりますように、綺麗になりますようにって」


優しい声で夏海は囁き、香織はゆっくりと目を瞑った。指先は更に黒髪の周りを躍り、ハサミを舞わせていく。


それは、咲月の体感時間をいとも容易く狂わせた。五分か十分しか経っていないと感じるのに、壁時計の長針はカットが始まってから既に半周も進んでいた。夏海は香織の肩にかかっている髪をそっと払って、静かに道具を片付けた。


「もう一度、綺麗になりますようにって魔法をかけて。そうしたら、ゆっくりと目を開けて」


夏海の囁きに小さく頷いた香織は、少し間を開けてからゆっくりと目を開いた。目の前の鏡に映る自分に、かすかに頬を染めながら口元を上げた。


「・・・うわー」


「どう?綺麗になったでしょ?」


綺麗に切り揃えられた髪は輪郭りんかくにそって長くなり、小さな顔をより小さく見せていた。前髪も整えられていて、瞳や鼻筋を強調している。それはファッション雑誌でよく見かけるような、ボブテイストな髪形だった。


香織は言葉にならないのか、ただ口を開けたまま首を動かし、様々な角度から鏡に映る自分を観察していた。夏海は笑顔のまま自分の仕事ぶりに満足げに頷くと、大きく手を二回叩いた。


その合図に呼応するかのように、先ほどまで椅子に腰掛けて夏海の姿に見いっていた子供達が弾かれたように動き出し、各々の仕事に取り掛かった。分担は予め決まっているらしく、先ほど新聞紙を広げていた子はその上に散った髪を落とさないように丸め、掃除道具をどこからか持ってきた子は新聞紙が取り除かれた床を丁寧に掃き、机を運び入れた子は夏海が道具を仕舞ったのを確認すると、その机を持って廊下へと姿を消していった。夏海は自動販売機で自分の缶コーヒーを買うと、咲月の横に並んで壁に体を預けた。


「どう?感想は?」


悪戯な笑みを再び浮かべて、夏海は缶コーヒーに口をつけながら咲月を覗き見た。咲月は回答から逃げるように一度缶コーヒーに口をつけてから、少し恥ずかしかったので視線を反らして口を開いた。


「・・・凄かった。格好よかったよ」


褒め言葉としては簡単な表現だったが、素直な感想だった。それを耳にした夏海は一度真顔に戻ってから、一瞬で満面の笑みを浮かべる。突然の表情の変化に、咲月は再び反射的に視線を反らした。


「ありがと!あ、もうちょい香織ちゃんに優しく接してあげたら?さっきのは、さすがにないでしょ」


夏海は咲月にしか聞こえないほどの小さな声で、諭すように囁いた。どうやら先ほどの些細なやり取りを彼女は聞いていたらしい。


咲月がどう答えようか口をかすかに尖らせていると、ちょうど香織が椅子から降りて夏海の元に歩み寄り、眩しいほどの笑顔を浮かべて頭を下げた。綺麗に切り揃えられた髪はその動きに合わせて、レースのカーテンのように揺れている。


「夏海お姉ちゃん!ありがとうございました!」


その言葉を聞いた夏海は穏やかな笑みを浮かべて腰を落とした。香織に視線を合わせて、そっと頭を撫でてやる。


「どういたしまして。うん!凄く綺麗になったよ。自信、持ってね」


「うん!」


夏海の言葉に、香織は大きな声と満面の笑みで答えた。すると、夏海は咲月を見上げて小さく笑みを浮かべた。「咲月はどう思う?」言葉と共に、顎で合図を送る。


夏海の思惑おもわくに気付いた咲月は、気付かれない程度に小さくため息を吐いて腰を落とした。咲月の突然の会話の介入に驚きと困惑を隠せない香織は、おずおずと怯えるように咲月を見つめている。


「・・・可愛いよ」


咲月はそう言って、きちんと笑えているか確かめる術はないが笑顔を浮かべた。かすかに警戒を解いた香織の頭を、夏海に倣うようにそっと撫でてみる。


「とっても、似合ってるよ」


しかし、咲月の中では精一杯頑張ったつもりだったが、返ってきた反応は予想とは違っていた。香織は急に俯いてしまい、咲月の言葉には何も返さずに走り出してしまった。咲月が呆気に取られている間に、彼女の姿は廊下の奥へと消えてしまった。


一体、何がいけなかったのだろう。固まったまま考えている咲月の耳に、かすかな笑い声が聞こえてきた。横を見ると、夏海が口元を覆って笑いを噛み殺している。


「・・・俺、何かおかしかった?」


咲月の質問に、夏海は小さく手と首を振った。香織が姿を消した廊下を見つめながら、まだ笑いを噛み殺している。


「ふふっ、香織ちゃんも女の子ってこと」


ようやく込み上げる笑いが収まったらしい夏海は、窓際に置いておいた缶コーヒーを一気に飲み干した。気付けば、後片付けをしていた子供達はいつの間にか姿を消していた。談話室は何事もなかったかのように静まり返っていて、そこには咲月と夏海しか居なかった。


「さ、用も済んだし。咲月、下行こっか」


空き缶をゴミ箱に捨てた夏海はそう言うと、咲月の返事も待たずに部屋を後にして廊下を歩いていった。咲月はいつもペースが握られていることに小さなため息を吐き、でもそれが何故か嫌じゃないと思う自分自身に苦笑いを浮かべながら、彼女の後に続くことにした。

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