二章
第12話
かすかな陽射しが瞼を照らす。ゆっくりと目を開けた咲月は静かに体を起こし、関節の痛みに顔を歪めた。
同級生の歩が泊まりに来ていて、部屋のベッドは彼女が占有しているため、咲月は少し小さなソファで縮こまって夜を過ごすことになった。まだ眠ったままの体は大きく伸びをすることで、オイルを注した機械のようにゆっくりと目覚めていく。
「起きた?」
視線を巡らせると、キッチンで歩が朝食の準備を進めていた。フライパンが油を弾く心地よい音と良い匂いが、起き抜けの腹を活性化させる。
「・・・あぁ、おはよ」
咲月は頭を掻きながら、テーブルの上の小さな置き時計に目を向けた。短針は八に近い位置にある。結城が家を訪問する約束が八時だったので、咲月は立ち上がりキッチンを覗き込んで朝食の量を確認した。型遅れのオーブンに入れられている食パンは二枚だった。
「悪い。そろそろ結城が来るから、三人分作ってくれない?」
「うん。分かった」
快く了承してくれた歩は、慣れた手付きで冷蔵庫から卵を取り出し、もう一人分の朝食の準備を始める。咲月はそれを見届けて礼を言ってから、着替えのために自分の部屋に入った。
着替えを終えて部屋を出るタイミングと同時に、小さなチャイムの音が響き渡った。咲月はそのまま玄関に向かい、扉を開いた。
「おう。久しぶり。元気か?」
扉の先には、カチューシャで上げた金色の髪に黒いサングラスをかけ、薄く黒いジャケットを着たいかにも怪しい男が満面の笑みで立っていた。その男は同級生の吉田結城で、相変わらずの外見に、咲月は思わず微笑みをこぼした。
「相変わらずだな。飯、食った?」
「まだ。あれ?誰か居るのか?」
結城は玄関の靴の数に首を傾げた。その時、タイミングよく顔を覗かせた歩が、結城に向かって小さく手を振った。
「おはよ。結城君。久しぶり」
「おぅ。なんだ、歩か。泊まってたのか?」
咲月を間に挟んで、二人の会話が始まりそうになる。薄い長袖のシャツしか着ていない状態の咲月にとって、朝の外気温はただの拷問に近かった。
「寒いから、とりあえず中に入れよ」
「そうだな。お邪魔します」
咲月の言葉にそう返した結城は、玄関に屈み込んでブーツの紐をほどき、部屋に足を踏み入れた。テーブルに広げられている簡単な朝食に、感嘆の声を上げながら腰を下ろした。咲月と歩も、後に続く。
三人で朝食を済ませた後、歩がキッチンで洗い物をしている間、咲月と結城は食後のコーヒーを飲みながら煙草を吸ってくつろいでいた。二つの紫煙が、混ざりあって上っていく。
「あ、そういえば。今日は誰が顔を出すんだ?」
コーヒーを口につけながら、結城が咲月に問いかけた。洗い物をしていた歩も、気になったのか少し顔を覗かせる。咲月はここ一週間の記憶の引き出しを漁り、電話越しに承諾を得られた相手を順に思い浮かべた。
「確か、静恵さん、直哉さん、高橋先生、五十嵐先生かな?」
「よく皆都合ついたな。今日、平日だぞ?」
「大勢の方がお姉ちゃんも喜ぶよ。さ、支度して」
食器を洗い終えた歩に急かされる形で、三人は咲月の部屋を後にした。その際、咲月は上着を羽織った後に、部屋の隅に掛けてあった白いジャケットを手にした。その毎年の光景に、結城と歩の二人は小さく頷いた。
「それ見ると、なんか気が引き締まるな」
結城はそう呟いて、先にアパートの階段を下りていった。歩はジャケットに視線を移してから、咲月に向かって微笑んだ。
太陽は少しずつ姿を現し、肌寒い大気に包まれている地上を照らしていた。それでも朝のこの時間帯は、陽光はただの自然光の役割しか発揮できないでいる。三人は肩を少し震わせながら、足早で結城が停めた車を目指した。
「静恵さんに連絡しとけば?今から出るって」
車に乗り込むと、バックミラーやサイドミラーを確認しながら結城は咲月の方を見ずに呟いた。助手席に腰を下ろした咲月は小さく頷いてポケットから携帯を取り出すと、アドレス帳から静恵の名前を呼び出して耳に当てた。
『もしもし。雨宮です』
変わらない、電話を手にした時の始めの事務的な口調。
「静恵さん、俺です。今から出るので、昼過ぎには着くと思います」
『そう。運転は結城君?気を付けてね』
「はい。じゃ、また後で」
別れを告げた咲月が携帯を閉じると、座席の間から顔を覗かせた歩が首を傾げた。
「敬語、まだ直してないの?」
「・・・まぁ、な」
その問いかけに、咲月は人差し指で頭を掻いてから苦笑いを浮かべた。
叔母の静恵も敬語は度々やめて欲しいと咲月に対して口にしていたが、咲月は頷くだけで直そうとは思わなかった。もちろん慣れというのが一番大きかったが、尊敬する静恵に対しては、そうしていたかったからだった。
「ま、人の付き合い方もそれぞれだろ」
ハンドルを握っている結城が、サングラスを上げながら言った。歩はふーんと生返事をしてから小さく頷き、後部座席に体を預けた。
会話をしているうちに、三人を乗せた車は料金所を抜けて首都高に入り、遠い故郷を目指すために走り続けた。
「・・・なぁ」
車を走らせてから二時間ほどが経過しただろうか。首都高から東北へ向かう自動車道へと進路を変えた車は、どこまでも長く続く舗装された道を進んでいた。開けた視界と単調な風景が、速度感を麻痺させていく。結城はしきりに前方の情報を脳に素早く取り入れながら、咲月の方を見ずに口を開いた。
「歩のこと、どうするんだ?」
発せられた名前に、咲月はバックミラーを覗き込んだ。後部座席を独り占めしている歩は背もたれに身を預けて静かな寝息を立てている。かすかに夏海の面影を持つ彼女の寝顔は、可愛いものだった。
結城が振った話題は、咲月が前々からずっと考えているもので、いまだに答えを導き出せない問題だった。歩の寝顔を見て、咲月は表情を変えずに小さく息を吐いた。
「・・・気持ちは、分かるけどよ。あんま待たせると、どっか行っちゃうぞ?」
結城は器用に片手で煙草を取り出してくわえた。助手席の咲月が運転する彼に気を使ってライターで火を起こして差し出すと、結城は小さく頭を下げ、揺らめく炎に煙草の先端をかざして大きく息を吸い込んだ。そうして吐き出した紫煙は、ゆらゆらと車内を舞い始める。
「あいつの気持ち、分かってんだろ?」
結城のその言葉に咲月は口を開かずに、揺れ舞う紫煙に視線を向けた。それは車の天井に近付くと、かすかに開いた窓の隙間から外に追い出されていく。
歩の気持ちは、十分なほど知っていた。彼女が口に出さなくても、自分に好意を抱いているのは伝わっていた。けれど、それに気付かない振りをしていた。それも自分自身、十分理解していた。
彼女の優しさに甘えていることを分かっているのに、自分は踏み出すことも出来ずに日々を過ごしている。それが彼女にとってどれだけ残酷な行為か、たまに自己嫌悪に苛まれることだってある。
それでも、その一歩を踏み出すことが出来なかった。それはいまだに、自分が夏海を強く想っているからだった。どんなに時間が経ってもそれは変わらず、また褪せることもなかった。
不毛だと、無意味だと、割りきらなければいけない。ただ、そんな簡単なことが、自分には出来ない。それを一番知っているからこそ、感じているからこそ、歩は、何も言わない。何も、言えない。
「分かってるよ。・・・分かってる」
結城と同じように煙草に火をつけた咲月は、吐き出した紫煙を仰ぎながら口を開いた。言葉にすることで、自分の心に釘を刺す。
言葉にしなければ、伝わらない。
伝えない言葉に、意味はない。
それが、どんな想いでも。
「・・・分かってるなら、いいんだ」
小さく微笑んでそう返した結城は再び意識を運転に集中させた。咲月は煙草の火を消してから少し深く助手席に腰掛け直して、何もない車の天井を仰ぎ見た。
鼻を掠める、ミントの香り。それが彼女を思い出させる。
咲月は瞼の裏に一瞬だけ懐かしい姿を思い浮かべて、静かに目を閉じた。
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