第11話
第11話
五十嵐が、まずは事件が起こった時の状況から事細かに説明した。教室にたどり着いた時の状況。咲月の様子。続いて、教育指導室での咲月の態度。今日訪れた病院で被害者が語った当日の会話のやり取り。彼の記憶に
静恵は静かに五十嵐の言葉に耳を傾けていたが、被害者が語ったやり取りを彼が言葉にした時、静恵は自分の表情が険しくなっていくことに気付いた。コントロールが出来なくなるほど、感情が何かに
「・・・どうした?」
「な、何でもない」
五十嵐が静恵の顔を覗く。平静を保とうとしても、口の中が渇いているのか声が上擦ってしまう。何重にも閉ざされた記憶の蓋が、次々と開かれていく。
「・・・なぁ、静恵」窺うような声。五十嵐の中で状況が整理され、疑問が導き出されていく。
「・・・咲月君の両親、本当に、事故なのか?」
その言葉が、最後の蓋を、壊した。
記憶の底からかすかに漏れ出る
フラッシュバックする映像。やめてと心で叫んでも、それは止まらない。
紅い、絨毯。
微笑む、彼女。
・・・ごめんね。
その姿が、
突然・・・、
「事故だ」
重い呟きと共に、テーブルに無造作に置かれている静恵の手を何かが包んだ。顔を上げると、先ほどの声の主は磯で、彼の大きな手が静恵の手を包み込んでいた。止められなくなった感情が、その行為で冷静さを取り戻し、意識して呼吸することで、底から漏れ出る記憶の残滓に、再び幾重も幾重も蓋をする。
「・・・悲しい、事故だったんだ」
その場面に遭遇していた磯は、そう小さく呟いた。そう言い切ってしまうことで、五十嵐の質問を拒んでいるように見えた。
かすかな沈黙。五十嵐は難しい表情を浮かべながら頭を掻いて、それを破った。
「・・・悪かった。変なこと聞いて」
それでも生まれてしまった重苦しさは消えず、そこに救いの手を差し伸べたのは若い女性のウエイトレスだった。彼女は三人の重い空気などつゆとも知らずに、それを打ち消すような笑顔と声音で注文を尋ねてきた。
それに救われた静恵は少しでも場の明るさを足り繕おうと、渡されたメニューを開いて頭を悩ませることにした。
「・・・大丈夫か?」
あの後、二時間ほど昔話に華を咲かせた三人は、明日の仕事を気にしたのか誰からと言わず早々に喫茶店を引き上げた。五十嵐と磯は二人とも車で、静恵は磯に送ってもらうことになった。助手席に腰を落ち着けて、彼の言葉に小さく首を縦に振る。
「・・・なら、良いんだ」
磯は微笑んでそう返すと、再び視線を前方に戻して運転に集中し始めた。
静恵は不意に隣に視線を移した。目の前の光景が、人物が、現実としていまだ確かに捉えられない。まるで、夢の中にいるような感覚に近かった。
もう二度と会わないと思っていた。会うことはないと思っていた。その人物が十年後の姿で、今、隣に座っている。それが、信じられなかった。
「・・・ん?」
視線に気付いたのか、磯は小さく目を見開き、かすかに静恵に視線を移した。視線が重なった静恵は気恥ずかしくなって反射的に目を反らし、前方を走る車の赤いテールランプに視界の照準を合わせた。二つの赤いライトは、二人が乗った車を導くようにゆらゆらと揺れている。
それから静恵は、沈黙を嫌うように磯へ質問を繰り返した。一つ一つの答えが、十年前の彼と今の彼とのギャップをかすかにだが埋めていく。しかし、そんな時間はあっという間に過ぎていった。気付けば家の前にたどり着いていて、静恵は外から明かりが点いていることを確認した。
「あの子、帰ってるみたい。今日は本当にありがとう」
礼を言った静恵はコートを手に持って車を降りた。すると、磯も同時に運転席から降り、静恵に向かって車越しに小さな紙を差し出した。
「何?」
「番号とアドレス、渡しておくよ。良ければ、連絡待ってるから」
磯が差し出した手に、静恵は手を伸ばした。アドレス帳は消していないので必要はなかったが、彼から手渡されることが、少し嬉しかった。
その手が、紙を受け取った直後に捕まれる。突然のことに静恵は目を見開いた。視線をわずかに上げると、磯は真剣な眼差しで静恵を見据えていた。
「静恵。俺の気持ちは、今も変わってないから」
言葉が耳から、温もりが手から、体を通って浸透していく。それは懐かしく、愛おしいものだった。
だから、静恵は、そっと、手を振りほどいた。
「・・・ありがとう。でも・・・」静恵は振りほどいた手を胸の前で握り、笑顔を浮かべようと努めた。「私は、変わったわ。あの頃とは、・・・もう、違うの」
守るもの。
守りたいもの。
守らなければ、いけないもの。
それらが心を、体を動かしている。
そうして人は、
日々を生きていける。
上手く笑えていただろうか。静恵は心の中で不安に思う。磯はその言葉を聞くと、一度目を伏せてから、優しく微笑んだ。
「・・・分かった。じゃ、おやすみ」
磯は小さく手を振って車に乗り込んだ。車はエンジン音を響かせて、夜の闇へと消えていく。静恵は別れの挨拶を返さず、振り返らずに玄関の戸を開けた。振り返ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせて。
玄関をくぐると、家の中には良い匂いが充満していた。これはカレーの匂いだろうか。喫茶店で食事をしたわけではなかったので、静恵の腹の虫が思い出したように鳴り始める。
「あ、お帰りなさい。遅かったですね。夕飯は食べてきたんですか?」
玄関を上がって右手にある台所から、咲月が顔を覗かせた。彼は黒い長袖をまくり、タオルで手を拭いている。しかし、左手首から先が包帯で巻かれていた。
「ただいま。まだ食べてないわ。病院には行ったのね?」
静恵は靴を脱いで揃えると、コンロで火にかけられている鍋の蓋を開けた。中身はやはり、美味しそうなカレーだった。
「・・・はい。中指の打撲でした」
咲月は俯いて、申し訳なさそうに呟いた。そんな表情をさせたかった訳ではなかったので、静恵は少し大袈裟に明るく振る舞った。
「大事にならなくて良かったじゃない。カレーありがとう。何手伝えばいい?」
「あ、大丈夫です。俺やりますから」
「いいのよ。遠慮しないで」
そう返した静恵はコートを玄関に置くと素早くシャツの袖をまくり、ポケットに入っていたゴムで髪を後ろで一つに結んだ。咲月はその一連の動作を眺めた後、冷蔵庫から野菜を取り出した。
「じゃあ、サラダお願いしてもいいですか?」
「分かったわ。任せて」
静恵は笑顔で頷いて、流しで野菜を洗い始めた。彼と台所で並ぶのはいつ以来だろうか。咲月は微笑んで軽く頭を下げてから、おたまでカレーを掬い上げて少しだけ口に含んだ。
静恵は丁寧に野菜を洗いながら、隣の咲月の様子を窺ってみる。昨日の今日だから、あまり精神状態は良くないと思っていたが、それは
咲月とこの家に住んでから五年。あの時は細かった手足も、今は自分よりはるかに太く、自分より顔一つ分小さかった身長も、今では自分が少し見上げるほどにまで伸びていた。さの一つ一つの成長が、静恵は純粋に嬉しかった。その成長の分が、自分が咲月の母親である証だからだ。
「・・・大きく、なったわね」
静恵は野菜を刻みながら、小さく呟いた。返事なんかいらなかった。言葉にして、実感したかっただけだ。
咲月は一度視線を静恵に向けると、何事もなかったように再び鍋をかき回し始めた。
「静恵さんの、お陰です」
静恵は包丁を使う手を止めて、咲月を見上げた。彼は小さく微笑んで頷いただけだった。でも、それだけで、十分だった。
変わることの
変わらないことの
それらが対を為し、
今、こうしていられる。
守りたいと、思った。
今は、守り続けたいと、思う。
その想いが、彼を支えているのなら。
支えてあげて、いるのならば。
どれほど、尊いことだろうか。
「・・・何、調子良いこと言ってるのよ」
静恵は小さく微笑み返し、照れ隠しで軽い悪態をついて、息子との料理に精を出した。
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