第10話
第10話
「お疲れ様でした」
「雨宮さん。お疲れ様です」
その声に静恵が顔を上げると、既に帰り支度を整えた部下が二人、入口の前で頭を下げていた。静恵は笑顔で小さく手を振って、二人が見えなくなってから再びパソコンのモニタに目を向けた。
時刻は七時を回っている。このペースで行けば、夜勤で七時半に出勤する部下に良い引き継ぎが出来るだろうし、五十嵐と連絡を取って約束した八時には何とか間に合いそうだ。そう自分に言い聞かせながら、指先を操りキーボードを叩く。
静恵は大手証券会社のシステム管理部に所属している。五年ほど前に設立された部署で、社内のコンピュータメンテナンスやプログラム管理などが主な業務とされている。委託するよりは自社の社員に任せた方が会社の状況把握による効率化が図れるという表向きの理由と、委託にかかるコスト削減という切実な問題が混在した、特殊な部署である。そこで、若いながらも部長という席に静恵は座っていた。
静恵に白羽の矢がたったのはまさしく設立のための引き抜きだった。しかしパソコンなど経理の仕事で使う程度の、一般人に毛が生えたほどの知識量しかなく、異動して一年ほどは指名して共に異動した部下達と、部署設立の際に雇い入れた技術者にスパルタと言っても過言ではないほどの知識とノウハウを叩き込まれた。そのお陰か、静恵はたったひとつの鉄の箱で、会社の隅々まで知ることが出来る状態になっていた。
今日の残りはバックアップ処理だけだ。手持ちぶさたになった静恵は大きく伸びをして、背もたれに体を預けながら煙草に火をつけた。静恵は仕事中の喫煙が一番好きだった。思考をクリアに出来るし、スイッチのオンオフのように切り替えが出来るからだ。
細く煙を吐き出していると、入口から部下の笠井が顔を覗かせた。よれよれの黒いパーカーに色褪せたデニムを履いていて、ぼさぼさの髪は顔を覆い隠すほどに伸びている。会社でそんな格好を許されるのは、外回りや営業のないこの部署だけだろう。
「おはよう。笠井君」
「おはようございます。あれ?皆もう帰ったんですか?」
自分のデスクに着いた笠井は、リュックからノートパソコンを取り出しながら辺りを見渡した。現在、この部屋には静恵と笠井しか居ない。
「ちょっと前に帰ったわ」
かくいう静恵も煙草をくわえたまま椅子から立ち上がり、背もたれに掛けていた白いコートに手を伸ばした。
「あれ?部長も帰るんですか?あ、デートですか?」
笠井は手慣れた手つきで持ち込んだパソコンと周辺機器を繋ぎながら少し笑みを浮かべた。茶化しているようだが、腕時計に視線を落とした静恵は付き合っている暇などないことに気付き、慌てて灰皿で煙草をもみ消した。
「経理部から演算処理の依頼が来ているわ。まずはそれを先にやって。あと、今日の業務内容と明日の日勤の予定、送っておいたから」
「了解です」
引き継ぎを簡単に終えた静恵はコートに腕を通すと、急ぎ足で入口に向かった。細かな指示を出さない方が、かえって自分の部下達は納得する仕事をしてくれるからだ。入口を閉める際に振り返ると、笠井はパソコンの立ち上がりを待っているのか煙草をくわえながら静恵にひらひらと手を振っていた。
待ち合わせ場所は駅前にある喫茶店だったので、静恵はすぐにたどり着くことが出来た。
カウベルを鳴らして店内に足を踏み入れる。雰囲気を演出するために落とされた照明の下で、静恵は視線を走らせた。すると、入ってきたのに気付いたのか、奥のテーブルで五十嵐が笑顔を浮かべて手を上げていた。静恵も軽く手を上げてそれに応え、案内をするために近付いてきた店員を制して五十嵐の元へ歩き出した。
「ごめんなさい。待たせた?」
「いや、俺もさっき着いたばかりだから」
静恵は店員にエスプレッソを注文して、五十嵐の向かいに腰を下ろした。店内に流れるのは有線だろうか、軽快なリズムが耳を掠める。
「それで、相手方の容体は?」
運ばれてきたエスプレッソに口をつけながら、静恵が世間話もなく本題を切り出すと、五十嵐はそれに応えるように胸ポケットから一枚の紙を取り出して静恵の前に差し出した。そこには被害者であろう生徒の名前と電話番号、病院の名前と病室の番号が書かれていた。
「鼻骨と頬骨の骨折。完治には多少時間がかかるけど、退院は早いと思う。ま、電話で確認したけど、向こうの親御さんはそんなに気にしていない様子だったけどな」
「・・゜そう。ありがとう」
静恵はテーブルの上の紙をコートのポケットに仕舞った。向かいの五十嵐は一度仕切り直すように深呼吸をしてから口を開いた。
「それで、昨日の話だけど・・・」
「そう。仮退学って何?どういうこと?」
詰め寄る静恵に落ち着けと言わんばかりに五十嵐は両手を広げて静恵を制して、かすかに眉間に皺を寄せた。
「待てって。順に話すから。・・・学校側としては、警察沙汰になってもおかしくはない今回の事件にたいして、退学で処理しようとしたんだ」五十嵐はそこで言葉を切り、喉を潤した。
「・・・それで?」
「あぁ、ただ相手が咲月君だ。何かがあったと思わない方がおかしいだろ?彼みたいな子が理由もなく人を殴るわけがない。そこで、退学までに一週間の猶予が出来たわけだ。その間に理由や動機が判明したとして、それが正当に近ければ、また処分を考え直すってこと」
「・・・随分と、まぁ」
静恵は小さなため息を吐き、視線を天井に向けた。年代物のようなファンが、音もなく回転している姿だけが見えた。
学校が下す処分としては、まさに異例に他ならない。だが、静恵にとってのそれは、複雑な状況に
五十嵐の話を
しかし、そのための真実の追求が、静恵にとって大きな問題だった。咲月から経緯を聞いたわけではないが、その理由は聞かずとも静恵は理解していた。それは人に話せる事柄ではないし、話したいとも思わない。時間が蓋をした傷跡を再確認するなど、そんなことを望む人など居るはずもない。それに当事者である咲月が口を開かないという以上、静恵がそれらを語ることは許されない。
どうにかしたい。だが、どうにもできない。そんな
(・・・え?)
静恵は目を見開き、息を呑んだ。現れた人物によって思考は完全にフリーズする。五十嵐に応えるように手を上げて歩みを進めているのは、磯だった。
静恵は視線を反らせないまま反射的に立ち上がった。テーブルに着いた磯は少し申し訳なさそうな表情で静恵を見つめ返している。
黒いコートに黒いワイシャツ。背丈は軽く見上げるほど高く、髪は焦げ茶で肩まで伸びている。色のついたレンズの下から覗く瞳だけが、十年前と変わらなかった。
「・・・
必死に静恵が振り絞った声は、それだけだった。何かが喉を圧迫しているようで、まるで自分の声ではないように聞こえる。その言葉に、磯は申し訳なさそうに小さく頷いて微笑んだ。
「久しぶり。少し、痩せたか?」
「・・・どうして、ここに?」
静恵はまだ信じられなかった。信じることを否定していた。視覚から侵入する情報が脳に到達する前に、感情がそれを拒んでいるようだ。そんな静恵の様子を察したのか、磯は再び申し訳なさそうな表情を浮かべて目を伏せた。
「俺が呼んだんだ」
間を取り持つように口を挟んだ五十嵐が、二人に座るよう促した。五十嵐は奥へ詰めて磯に場所を譲り、彼は静恵の向かいに腰を下ろした。
「・・・お前に会うか悩んだんだけど、咲月君のことが気になって」
磯は落とすように呟いてから、取り出した煙草に火をつけた。静恵は警戒するように視線を磯に向けていたが、彼の口から発せられた言葉に、緊張を募らせ、表情を強張らせる。
「・・・会った、の?」
言葉から感じた不安は、一瞬で残酷な結果を推測させる。
十年ぶりの、再会。
それは、十年越しの、裏切りだった。
静恵の問いかけに、磯は口を開かなかった。煙草をくわえながら、視線を落としている。それら全てが、肯定の証だった。
「どうして!約束したじゃない!」
静恵は感情に任せてテーブルを叩いて立ち上がった。周りの視線が一斉にこちらを向いたが、そんなものは気にならなかった。それほどに、目の前の男が取った行動が許せなかった。
事件が起こった十年前。咲月のそばに居たのは静恵と磯だった。だからこそ、二人が別れた時に、磯は咲月には二度と会わないと誓ったのである。当時のショックのためか断片的な記憶喪失を起こしていた咲月に、身近だったものがそばにいてフラッシュバックを起こさせないためである。過去の人物が、事件の記憶を一つの線で結び付けてしまう可能性が十分にあったからだ。その言葉を受けて、静恵も引き取るまでは咲月に会わなかったのである。
しかし、静恵の剣幕に磯は
「・・・覚えて、なかった」
その声音に力はなく、磯は顔を上げ、静恵を見て悲しそうに小さく微笑んだ。
「覚えてなかったんだ、俺のこと。でも、・・・それで、良いんだ」
その磯の表情が、静恵は昔から嫌いだった。どんなに苛立っても、どんなに責め立てても、その表情をされてしまうと、感情が空気を伝わってこちらの感情をしぼませてしまうからだ。胸が締め付けられるからだ。それは十年経った今でも変わらなかった。激昂していたはずの静恵は小さく息を吐き、静かに腰を下ろして頭を下げた。
「・・・ごめんなさい。私」
忘却は、人が持ち得た傷を癒す唯一の方法である。だが、たとえそうだとしても、無視をされるより、軽蔑されるより、忘れられるほど悲しいことは、ない。
「お前が謝ることじゃない。だから、お前に会わない理由はもう無いのかなって。でも、嫌ならもう顔は出さないから」
磯の言葉に、静恵は大きく首を振った。確かに、突然のことで面食らったり、苛立ったりしたが、それよりも最初に一瞬感じたのは、紛れもなく懐かしいといった感情だった。
「・・・なら、良かった」
磯は十年前と同じ笑顔でようやく微笑んだ。それが静恵には、嬉しかった。
「・・・悪いんだけど、話を戻してもいいか?」
その声の方に視線を向けると、頬杖をついた五十嵐が二人を眺めていた。すっかり五十嵐の存在を忘れていた静恵は、小さく頷いて姿勢を正した。
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