第9話
第9話
「・・・嫌な思いをさせて、ごめん」
高橋は手段を選ばなかった自分に罪悪感を抱きながら、高田の前に再び腰を下ろして頭を下げた。思い出したくもない過去を思い出させるのは、胸元にナイフを突き立てるのと大して差はないと感じたからだ。
高橋と五十嵐は、ただ高田が口を開くのを待ち続けた。彼はぽつりぽつりと呟くように、昨日のことを語りだした。それは
「・・・一週間ぐらい前、中学のダチと、遊んだんだ。そいつが、雨宮と一緒の小学校らしくて、変な噂・・・、聞いたんだ」
「変な、噂?」
「・・・雨宮の、母親。・・・人殺しだって」
「・・・え?」
高田の言葉に、高橋は耳を疑った。彼が放ったそれはドラマや小説で聞くような、現実では耳にすることのないような言葉だった。思わず五十嵐に視線を向けると、彼も同じことを思っているのか、珍しく眉間に皺を寄せている。
「それで、話してるとき、ふざけて、つい、言っちゃったんだ。お前の母親、人殺しなのかって・・・」
「ちょ、ちょっと待って!」
高橋は高田の言葉を制して、必死に頭を働かせた。確かに言ってはいけない言葉に違いないが、現実的にありえない。どう考えても冗談で済まされる話ではないのか。それがなぜ、あんな事態を招いてしまうのだろうか。
「そ、それは、本当なの?」
「お、俺だって、知らないよ!噂で、聞いただけだし・・・」
「雨宮君のご両親は、十年近く前に、・・・事故で亡くなっています」
困惑で会話のキャッチボールすら
「・・・事故で、両親が?」
高橋は初耳だった。しかし、それも当然だった。生徒との関係に境界線を張っている高橋が、四十人の中のたった一人の家族構成など、知るはずがなかった。高橋が知っている雨宮咲月の情報などたかが知れている。名前と性別、年齢ぐらいだ。
「その一言の後、何が起きたんですか?」
会話に追い付けない高橋を置いて、五十嵐は高田に向かい淡々と問いかけた。高田は五十嵐に向けて言葉を続けようとしたが、その時の光景が
「わ、分からない。急にあいつが、な、殴りかかってきて・・・」
答えを聞いた五十嵐は眉間に皺を一層深く刻んだ。とうとう彼も、状況が飲み込めなくなってしまったらしい。口元に手を当てて、俯きがちに思案に
「なぁ、・・・先生!退学だけは勘弁してくれよ!あいつ良いやつだし、悪いのは俺だから!なぁ!頼むよ!」
高田は
「わ、分かったから。落ち着いて」高橋は必死に高田を
ようやく落ち着いた高田の姿を確認して、高橋はパイプ椅子から腰を上げた。これ以上聞き出せる情報はないだろうし、高田の怪我の具合や磯の立場に迷惑がかかってしまう。高橋は安静にと彼に優しく告げて、五十嵐と共に部屋を後にした。
廊下の先、病室から少し離れている場所で、磯は壁にもたれながら書類の束に視線を落としていた。二人が部屋から出た来たと同時に顔を上げ、二人の沈痛な面持ちに苦笑いを浮かべる。
「収穫は、無しですか。ロビーまで送っていきますよ」
磯はそう言うと、壁から体を離して歩き始めた。会話のない高橋と五十嵐はただ、吸い寄せられるように彼の後に続いた。
「・・・まさかとは、思うんですが」
沈黙を纏う三人の中で、口を開いたのは磯だった。彼はすれ違う患者一人一人に挨拶を交わしながら、どちらに言うでもなく呟いた。
「高田君に怪我を負わせたの、・・・雨宮咲月君じゃないんですか?」
何気なく発せられたような言葉に、高橋と五十嵐は同時に足を止めた。
「何で、知って・・・」
「いや、昼間に咲月君に会ってな。同時期に同年代が来たから、もしかしたらと思ったが・・・」
「は?お前、あの子に会ったのか?静恵があれほど・・・」
「あぁ、それは・・・。もう、大丈夫だよ」
先ほどの言葉で固まっている高橋をよそに、二人の会話はどんどん進んでいった。知らない名前まで出て来て、完全に置いていかれている。
「・・・何が、大丈夫なんだ?」
睨み付ける五十嵐の威圧的な問いに、磯は小さく微笑んだ。高橋にはその表情が、どことなく悲しそうに映った。
「・・・覚えてなかったよ。俺のこと」
小さく呟いた磯は再び歩を進め始めた。彼の落とすような言葉に、高橋と五十嵐は何も返せないまま、彼の後に続いた。
「高橋先生。すいませんが、先に車に戻っていてもらえませんか?」
病院の入口から駐車場に向かう途中、五十嵐がそう言ったので高橋は鍵を受け取り先に戻ることにした。旧知の磯と積もる話でもあるのだろうか。
渡された鍵で車のロックを外し助手席に乗り込んだ高橋は、腕を組んで目を瞑った。視界を遮ることで先ほどまでの記憶を鮮明に
高田が放った言葉。雨宮はなぜ、あれほど
磯と五十嵐の会話。磯と名乗る医師はなぜ、雨宮のことを知っているのだろうか。
根本的に、情報が足りない。その足りない情報を補うのに、一体何をすればいいのだろうか。
「すいません。お待たせしました」
扉を開ける音で目を開くと、運転席に乗り込んだ五十嵐が外に向かって軽く手を振っていた。視線を向けると、病院の入口でそれに応えるように磯が手を振っている。高橋は彼に向かって小さく頭を下げると、車はアクセルを踏まれてゆっくりと動き始めた。
道中、二人の間で簡単なディスカッションが行われた。といっても、高橋が抱いた疑問について五十嵐が答えるという一方的なものだった。だが、それだけでも、高橋の情報の中に少しの進展が見られた。
五十嵐と磯は昔、今の雨宮咲月の保護者である雨宮の叔母と交友関係にあり、それで彼が雨宮咲月を知っていたこと。たったそれだけの情報だが、あるとないとでは雲泥の差だ。思考の幅が広がったのは、気のせいではないだろう。
「高橋先生。家まで送って行きますよ?」
五十嵐は運転のために視線を忙しなく動かしながら、笑顔で高橋に問いかけた。高橋にとってそれは願ってもないことだった。再び学校に戻って帰路をたどるために電車に揺られるとなると、選択は至極簡単だった。
高橋がありがとうございますと小さく頭を下げると、五十嵐もそれに合わせて頷き、ウインカーを点滅させながらハンドルを右に切った。
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