第8話
第8話
高橋は資料を束ねて机の上を整理整頓した。それが一日の終わりを意味する、スイッチを切り替えるための彼流の儀式だった。
しかし、今日のそれは意味合いが違っていた。あくまでもこの職場での勤務を終えたという一区切りにしか過ぎない。彼は思考をスイッチオンにしたまま、自分の席から立ち上がった。
「すいません。待たせちゃって」
高橋は職員室の入口で壁に寄りかかりながら待っていた五十嵐に軽く頭を下げた。彼は気にしていない素振りで笑顔を浮かべてから、高橋を先導するように歩き始めた。
「田中先生はどうやら来られないみたいですね。病院と部屋番号は聞いておきましたから」
廊下を歩く間、高橋は五十嵐に簡単な説明を受けた。どうやら大怪我を負わされて入院した高田は鼻こそ完全に折れているものの、頬骨の損傷は軽いヒビが入った程度なので、日常会話に支障はないということだった。これはどうやら田中が時間を割いて病院に連絡を取って得た情報らしい。しかし病院側は、高田が情緒不安定のため面会はしばらく控えてほしいとの見解だった。それを五十嵐は、どんな手段を用いたのか皆目見当が付かないが、面会の許可を得たという。二人の迅速な対応に、高橋はただ脱帽するしかなかった。
「なんか、すいません。色々と・・・」
高橋は苦笑いを浮かべながら頭を下げた。昨晩は恨み言の一つでも言ってやろうと意気込んでいたのに、結果としてこのザマだ。自己分析では情けないを通り越して、むしろこの変わり身の早さは才能ではないかと自己嫌悪に
そんな胸中を察したのか分からないが、五十嵐は何も気にする素振りを見せずに首を振った。
「これは私達が進んでやっていることですから。むしろ謝らなければいけないのは私達の方です。結果として、あなたを当事者として巻き込んでしまったのですから。さ、乗ってください」
校舎を後にした二人は職員用の駐車場にたどり着き、黒い乗用車に乗り込んだ。もちろん、電車通勤の高橋のものではなく、五十嵐の私用車である。
助手席に乗り込んだ高橋は、シートベルトを締めながら再び聞こえないほどの小さなため息を吐いた。五十嵐の何気ない一言が、かすかに胸を締め付ける。
雨宮咲月の担任である以上、当事者には、始めからなっていた。それを拒んでいたのは紛れもない高橋自身だった。それを感じた上で、五十嵐は論点をすり替えて当事者にしてしまったと謝罪を述べた。そんな
「・・・乗り気では、ないみたいですね」
小さな呟きに高橋が視線を移すと、五十嵐は車のエンジンをかけずに高橋を見つめていた。威圧感など感じられないが、その真摯な眼差しは高橋を困惑させるには十分だった。
「いや、その・・・」
高橋は必死に思考を回転させながら、相手を不快にさせないで自分の意見を述べるための言葉を探した。しかし、考えれば考えるほど、ミキサーにかけられたように方向性の違う言葉達がぐちゃぐちゃになっていく。
そんなしどろもどろの状況を見かねたのか、五十嵐は小さなため息を吐いて視線を反らした。
「確かに、プライベートにまで進んで干渉するというのが良いか悪いかは判断できません。でも、何か出来るなら、何もせずに後悔するより、出来ることをして後悔した方が私は良いと思うんですよ」
そう言い切った五十嵐の笑顔に、迷いは
言葉としては、もちろん理解できる。しかし、高橋は本心では同意出来なかった。高橋が抱えるクラスメイトは雨宮咲月一人ではない。四十人のプライベートに干渉するなど不可能なわけだし、校内で事件として扱われている以上仕方はないが、一人だけを特別扱いは出来ない。だからこそ、教え子といえどもどこかに境界線は張らなければいけない。そうしなければ、共同生活は成り立たない。
「・・・生徒は、彼一人ではないです」高橋は自分の中に
「・・・保身、ですか。いや、それも大事だと思います」
五十嵐の口からついて出た言葉に、高橋は眉をしかめた。見抜かれてしまったからこそ、
「し、仕方ないじゃないですか!」
感情的になり少し声を荒げたが、次の言葉が見付からず、吐き捨てるように言った高橋はふてくされたように視線を反らした。言い分が通らないと口を閉ざすなんて子供のすることだと分かっていながら、そうするしか抵抗出来ない自分がいた。
「・・・知っておいてください」
五十嵐の声音が急に重さを増した。ゆっくりと発進した車内の中で高橋が見たのは、雨宮を制した時のような鋭い眼光だった。それはフロントガラスに向けられていたが、高橋を緊張させるには、間接的でも十分な威力だった。
「生徒にとって、学校が、私達が、第二の居場所だということを」
二人を乗せた乗用車は十五分ほどで磯崎総合病院にたどり着いた。前衛的な外装を見上げ、助手席から降りた高橋はため息を吐く。
高田と会話をするのは、自分の役目である。高橋はナースステーションにたどり着くまで、必死に頭を回転させて色々なシミュレーションを試みた。
「すいません。磯先生はいらっしゃいますか?」
五十嵐が看護師に用件を伝えてしばらく待っていると、廊下の奥から白衣を纏った男が現れた。男はナースステーションの前で待つ二人を確認すると、笑顔を浮かべて小さく手を上げた。
「悪い。待たせたか?」
場に似つかわしくない男の風貌に、高橋は驚いた。白衣さえ着ていなければ、夜の街に居そうな出で立ちである。しかし直後、高橋は更に驚くことを耳にした。
「いや、今着いたところ。こっちこそ悪いな。忙しいのに」
それは五十嵐の言葉づかいだった。彼が敬語で話さないのを聞くのは、高橋にとっては初めてだった。彼は生徒にでさえ、敬語を徹底しているからだ。目の前には変わらない姿の同僚がいるのに、それだけで別人に見えてしまう。
「ん?そちらは?」
ようやく高橋に視線を向けた白衣の男は、首を傾げながら五十嵐に紹介を求めた。
「あぁ。こちらは高田君の担任の高橋先生」
「あ、そうでしたか。初めまして。磯と申します」
「こ、こちらこそ。高橋です。お忙しいところすいません」
高橋は外見にそぐわぬ礼儀正しさに面食らいながらも、負けじと深く頭を下げた。
「では、参りましょうか」
磯は二人を先導して廊下を歩き始めた。
意外にも高田が入院していたのは個室だった。高橋は深呼吸をして心の準備を整える。
「あまり長時間は避けてください。それと、精神的に負担を与えるような言動も控えてください」
磯の言葉に、高橋はひきつった表情で小さく頷いた。極度に緊張しているのが自分でも分かるほど、心拍数が上がっている。たかが教え子から話を聞くだけだというのに。相変わらずの情けなさである。
「高田君。入るよ」
軽くノックをした磯は、相手の意思を確認せずに扉を開き、磯、高橋、五十嵐の順で入室した。
広い個室で、室内は当然のように無機質な白でほとんどが統一されていた。カーテンも、冷蔵庫も、なにもかもが。窓際にベッドが置かれ、そこに一人の少年が座っている。あぐらをかいた足の上には何やら雑誌が広げられているらしく、彼の視線はそこに落とされていた。
「高田君。ちょっと、いいかな」
二度目の磯の声で、ようやく高田は顔を上げた。顔の鼻から下半分は、口元以外が包帯で覆われていて、左耳にはガーゼが当てられている。それだけで、前日の惨劇の凄惨さが、十分に伝わるほどだった。彼は三人を視界に捉えたまま、目を見開いて固まっていた。
「・・・先生」
頬の怪我のせいなのか、高田の言葉は何か噛みながら発せられたように感じられる。高橋は磯の前に進み出て、傷付いた教え子を見つめた。
始めに一瞬顔を覗かせた感情は、当然同情だった。しかし次の瞬間、目の前の痛々しい姿がそれを憤りへと変質させていった。何でこんなになるまで平然と殴っていられたんだと、それはこの場に居ない当事者に向けられた。
拳を握りしめ、今やらなければいけないことに疑問を抱く。どうして被害者を問い詰めて、加害者を弁護しなくてはならないのか、当然の矛盾が、感情に押されて疑問を加速させる。
「高橋先生」
五十嵐の呼ぶ声に、高橋は振り向いた。冷静な佇まいと落ち着いた発声に、高橋は暴走し始めた感情を理性という膜に包み込んだ。
今、やらなければいけないこと。それは被害者を問い詰めて加害者を弁護することでもなく、悪い方を見付けて裁こうとするのでもなく、真実の追及。
高橋は大きく深呼吸をして、部屋の隅に置かれていたパイプ椅子を手に取って高田の前で腰を下ろした。拳を握りしめ、平静を保とうと努める。目の前の少年は些細なプライドを保持したいのか、
「・・・じゃあ、俺は外で待ってる。後は頼んだぞ」
「あぁ」
高橋の後方でそんなやり取りが交わされたが、高橋は振り向くことなく高田を見つめ続けた。
「・・・何か用すか」
視線を反らした高田は再び足元に置いた雑誌に顔を向ける。それは会話に対する小さな拒絶のようにも見えた。
「怪我は、大丈夫?」
「・・・」
「・・・昨日、何があったの?」
「・・・」
怪我を心配した高橋はいつもと変わらない口調で本題を切り出したが、しかし高田は、何の反応も示さなかった。
これはある意味シミュレーション通りの結果だった。こうなるであろうことは簡単に予測出来ていた。だからこそ、考えていた次の手を使うしかなかった。
少しばかり手荒な言葉になるが、今この部屋に磯は居ない。高橋が一度後方に視線を向けると、扉に寄りかかっていた五十嵐は一瞬の間を空けて小さく頷いた。作戦を立てていたわけではないが彼なら同意してくれるだろうという予感はしていた。即興の合図。度が過ぎれば、止めてくれるだろう。
高橋は一度深呼吸をして、慎重に言葉を選ぼうとした。会話を拒むなら、一方的に話せばいい。
「・・・話したくないなら、別に構わないよ。雨宮君が、退学処分になるだけだから」
その言葉に、高田は反応を示して顔を上げた。信じられないというように、目を見開いている。
「・・・退、学?」
「そう。動機や理由が分からない以上、僕達は状況から結論を出すしかないんだ。これはどう見たって、喧嘩じゃない。暴行だ」
高橋はゆっくりとした動作で立ち上がった。高田の注意は完全に高橋の行動に引かれている。それが、狙いだった。
「・・・一応処分については猶予期間をもらえたけど、雨宮君は話す気はないみたいだし、君も喋らないなら、手の打ちようがない」
高田は口を真一文字に結び、必死に目を泳がせている。自分の中で処理しきれない事態を、必死に噛み砕いて理解しようとしている様子だ。
これは、一種の賭けだった。高田が雨宮に対して何の感情も抱いていなければ、高橋の言動に動揺は見せたとしても、何も感じずにそれで終わってしまう。だがもしも、それがただのクラスメイトという些細な関係性でも、高田が雨宮という人間に何かしらの感情を持っているとすれば、彼は何かしらの行動を起こす。それを、高橋は望んでいた。
「・・・じゃ、お大事にね」
高橋は期待と緊張で胸を軋ませながらも、何食わぬ顔で高田に向けて軽く手を上げて部屋を後にしようとした。あくまで普段の動作で、普段の速度で。
時間にすれば部屋を出るのはたったの五秒だ。しかし高橋には十秒にも二十秒にも感じられた。歩く速度が、無意識に遅くなっているのではと疑うほどに。
五十嵐が諦めたように目を伏せて、入口の取っ手に手をかけようとした、その時だった。
「話すよ!」
すがるような叫び声が、室内に響き渡った。高橋が五十嵐に視線を向けると、彼はドアの取っ手から手を離して小さく頷いた。
「・・・話すよ。全部、話すから」
高橋が振り向くと、高田は今にも涙をこぼしそうなほど瞳を潤ませて、拳を握りしめていた。
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