第7話

第7話

三十分ほどで薬を手に入れてようやく病院から解放された咲月は、外の広場に設置されている喫煙可能スペースでベンチに腰を下ろして火をつけた。この広場が正面入口の反対側に位置していることと時刻が十二時を回っていて昼食の時間にあたるためか、患者や来客の姿は見えず、咲月の貸切状態になっていた。


整然と剪定せんていされた緑。風が吹くとかすかに波を打つ芝生。作られた自然の静寂が耳に優しい。どうして自然が多いと煙草が美味しく感じられるのだろうかと、咲月は他愛もないことを考えた。


「ねぇ!」


二本目の煙草を吸い終える頃、誰かの呼び声に咲月は視線を動かした。辺りを見渡しても誰も居ないのは一目瞭然だ。とすると、呼ばれているのは自分に他ならないと、今度は視線だけでなく首を巡らせた。


広場の入口。そこに一人の女性が立っていた。身長は遠目だが目測で百六十ほど。栗色の髪は肩のところで外側に少しカールがかっていて、端正な顔立ちの中にある大きな瞳が真っ直ぐに咲月を見据えている。着用しているのは患者用の水色の服で、その上から白いレザージャケットを羽織っていた。そんなミスマッチな格好ではおとろえないほど、綺麗な女性だと咲月は思った。


だが、今回もまた、記憶の中の数多あまたの人物の中に、彼女の存在はなかった。


「・・・俺?」


咲月が少し面倒そうに尋ねると、彼女は辺りをきょろきょろと見渡してから、不思議そうに首を傾げた。


「君以外、誰かいる?」


そう呟いた彼女は、ゆっくりと咲月の方に歩を進めた。


「・・・何か用?」


「初めまして。私、夏海なつみって言うの。一つ、お願いがあるんだけど・・・」


夏海と名乗ったその女性は咲月の隣に腰を下ろし、咲月に向かって顔の前で手を合わせた。初対面の彼女の唐突な行動に、咲月は驚きを隠せずに思わず身を引いてしまう。


「な、何?」


「煙草一本恵んで!」


「・・・は?」


予想もしていない一言にたいして、間抜けな返事と共に訪れる一瞬の静寂。夏海は照れたような笑顔を浮かべてその静寂を打ち消し、軽く頭を掻いた。


「いやー、煙草を吸いに来たのはいいんだけど、降りてきてから忘れたのに気付いてさ。戻るのも面倒だし・・・。ね、ダメ?」


「・・・はい」


咲月はポケットから煙草の箱を取り出し、夏海に手渡した。ようやく思いが届いた彼女は華のような笑顔を浮かべて、受け取って取り出した煙草に火をつけた。しかし、視線はまだ咲月に注がれたままだった。


「ありがと。雨宮咲月君」


その言葉に咲月は目を見開き、夏海の瞳を見つめたまま固まってしまった。名前など、今までの短い会話では一度も口にしていない。では何故なぜ、名前を知っているのだろうか。その様子を不敵な笑みで見つめていた夏海は堪えきれなくなったのか、視線をそらして肩を震わせながら笑いを噛み殺していた。


「・・・何だよ」


「ふふっ、ごめんごめん。あまりに顔が真剣だったから・・・」夏海は指先で目元の涙を拭いながら続けた。「私の妹が君と同級生なんだ。ま、誰かは内緒だけどね」


答えた夏海は煙草をくわえると、吸い込んだ煙を上品に細く吐き出した。色を失った煙は一瞬で大気に溶け込み、香りだけをその場に残していく。二人はただ、少しの間だけそれを眺めた。


「ねぇ、はなししない?」


唐突に切り出した夏海は無邪気な笑顔で咲月の瞳を覗き込んだ。彼女の瞳には、不思議そうな表情を浮かべている自分が映し出されている。


「・・・何の話?」


咲月は視線をそらしながら、小さな苦笑を浮かべた。それを同意と受け取ったらしい夏海は、空を見上げながら言葉を選び始める。


「んー・・・、何でもいいよ。友達のこととか、学校のこととか。あ、恋人の話とかでもさ」表情を綻ばせる夏海は、まだ会話が始まってもいないのに楽しげだった。


咲月には断る理由がなかった。午後という時間を持て余していたし、綺麗な女性との会話が嫌だという男はなかなかいないだろう。咲月にとってそれは、ちょうどいい、ただの暇潰しでしかなかった。


しかし、時間が経ち会話が進むにつれ、そういう感覚は徐々に薄れていった。自分自身、夏海との会話を純粋に楽しんでいた。お互いが質問しあい、それに答えるという他愛もない会話だが、それは相手の中に自分が作られていくようで、まるでパズルのピースを交換しているような面白さがあった。


一つ答えを聞くたびに、カチリとピースがまっていく。そうしてまた相手のイメージが、補足されて出来ていく。それがただ、楽しかった。


お互いが話に夢中になると、時間は二人だけのために錯覚を始め、終わらない質問と回答は、気付けば二時間も経過していた。


何が経緯かはもう分からないが、好きな映画を夏海が語っている時、二人の間に影が落とされた。咲月はすぐに、ベンチの後ろに顔を向ける。


そこには、先ほど話しかけられた磯という医師が立っていた。ダークブラウンの髪は陽光に射されて赤みを帯び、表情は笑顔を取り繕うと努力しているように見えるが、完全にひきつっていた。


夏海もようやく咲月の行動と落とされた影に気付き、話を中断して振り向いた。


「咲月?・・・げ」


磯を視界に捉えた夏海は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて身構えた。その発言や行動が逆効果だったのか、磯のひきつった笑顔は更に強固さを増す。


「・・・検診の時間、過ぎてるんだけど」


おそらくは第三者がいることで怒りを抑えているのだろうが、それが無意味なほど、言葉にとげがある。夏海は誤魔化ごまかすように渇いた笑いを浮かべると、小さなため息を吐いて立ち上がった。


「あー、あはは・・・。はぁ、すいませんでした」


「まったく・・・。早く病室に戻るんだ。いいね?」


「はーい。・・・じゃあ、咲月。また明日ね」


素に戻った磯の強い口調に、夏海は咲月に小さく部屋番号を耳打ちしてから主治医の指示に従った。とぼとぼと入口へと歩を進める彼女を鋭い視線で見送ると、磯は咲月の方に向き直った。その表情からは、もう怒りは窺えない。


「咲月君、夏海ちゃんとは知り合い?」


「・・・まぁ」


磯の言葉に、咲月は咄嗟とっさには答えられなかった。今日が初対面の相手を知り合いと定義できるか分からなかったからだ。咲月が曖昧あいまいな返事で返すと、磯は不思議そうに首を傾げてから、夏海が消えた入口に再び視線を向けた。


「・・・何か、彼女の様子で変わったことはなかった?」


「・・・え?」


突然の質問に、咲月はわずかな言葉を発すると共に思考を回転させた。ついさっきまでの記憶と夏海の仕草がすごい速度で脳内を通過していく。普段の彼女を知らなかったので変わったところなど分かるはずがなかったが、流れる記憶の中の彼女に、咲月はかすかな違和感を覚えた。

時々だったが、夏海は胸に手を当てるという仕草をしていた。しかしそれが普段とは違う変化だとは比べようがないし、彼女自身、その仕草を別段気にしている素振りがなかった気がした。


咲月がその事を伝えようと腰を上げると、磯は小さく首を振って笑顔を浮かべてから振り向いた。その動作はまるで、先ほどの質問をなかったようにしようとしている風にも見えた。


「じゃ、咲月君。俺は戻るよ。お大事にね。あと、未成年は吸わないように」


背中越しにそう言った磯は、咲月に向かって小さく手を振ってから白衣のポケットに手を入れて歩き始めた。その背中を眺めながら、咲月は深いため息を吐いてベンチの背もたれに身を預けた。


今日はどうしたというのだろう。自分で自分を分析してみる。普段なら他人との干渉は意識的に避けているというのに、今日は迂闊うかつだった。普段とは違う環境で感情が緩んでいたのか、彼女が心の隙間に侵入するのが上手いのか、しかし考えても答えは出ない。


夏海が帰り際に放った一方的な約束。もちろん、返事をしていない以上守る義務はない。だが、明日自分はここに足を運ぶだろうと、咲月自身がもうそう思っていた。


鬱陶うっとうしいと、思わなかった。それが不思議だった。その不思議さが、嫌ではなかった。


立ち上がった咲月は、空に向かって大きく伸びをした。かすかに冷える大気の中、体がシンとほぐれていく。青と赤のグラデーションをまといどこまでも続く空を眺めながら、咲月は家路をたどるために足を一歩踏み出した。

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