第6話

第6話

「!!!」


意識を覚醒させた咲月は、勢いよく体を起こした。無意識に涙を流していたのか頬は少し湿っていて、シャツは汗でびしょびしょに濡れていた。


震える肩を上下させて、何度も何度も意識して呼吸を繰り返す。つい力んでしまったせいか、右拳が酷く痛む。


しばらく見ることのなかった悪夢。忘れることが出来ないと心の奥の奥でふたをした記憶。それが再び呼び起こされたのは、昨日の一件が原因だろうか。


咲月は濡れたシャツを脱ぎ捨ててベッドから立ち上がり、姿見に自分の体を映した。右脇に残る鮮明な傷跡が、痛みを訴えているように錯覚してしまう。


大きなため息を吐いて、感情をコントロールしようと試みる。沸いた感情に呑まれてはいけないと、目を瞑って何度も自分に言い聞かせる。


少しだけ落ち着きを取り戻した体を動かし、咲月は部屋を出て階段を降りた。階下に人の気配はなく、凛とした静寂に包まれている。居間に顔を出すと、テーブルの上には簡単な朝食と一枚の手紙が置いてあった。


『保険証置いておくから、必ず病院に行きなさい

静恵』


手紙の下には言葉通り一通の保険証が置いてあった。柱時計に視線を移すと、時刻は午前八時を示している。近場の総合病院の開院は九時からだと記憶しているので、咲月はゆっくりと朝食を食べることにした。


幸い昨日の傷といえば拳の痛みだけなので、咲月は抵抗なくシャワーを浴び、身仕度を整えて家を後にした。時刻は九時を示していたので、時間的にはちょうどいい。


夏の名残だろうか、陽射しはまぶたを焦がすほどに燦々さんさんと降り注いでいたが、頬を撫でる風は日々冷たさを増しているので、陽射しも不快にはならない。黒い薄手のパーカーを身にまとっている咲月はかすかな肌寒さに体を縮こまらせて歩くことにした。


磯崎総合病院は三十分ほどあれば徒歩でもたどり着く距離にあった。無駄としか思えない前衛的な外装。多すぎる病室のためか縦にそびえ立つ高層。しかし、地元で設備、人員共に充実しているのはこの病院ぐらいしかなく、正面の駐車場は既に八割がた車で埋め尽くされているほどだった。


咲月は正面入口から入り、混雑している総合待合室を避けて初診受付へと歩を進める。事務的な看護師に保険証を渡し、待合室のベンチに腰を下ろした。周りを見渡すとちらほらと患者らしき人々が前を行き交っている。車椅子を腕で運転している人。松葉杖をついてぎこちなく歩く人。三角巾で腕を吊っている人。当然症状は様々だ。


独特な病院の匂い。消毒液を薄めた香りとでというのだろうか。どうも長そうな待ち時間に、咲月は鈍い痛みを忘れるため目を閉じた。


『・・・月さん。雨宮咲月さん。外来二番にお入りください』


事務的なアナウンスに、咲月はゆっくりと目を開けた。どうやら少し眠ってしまったらしい。腕時計に視線を落とすと、既に来院してから三十分は経過していた。慌てて辺りを見渡し、外来二番と書かれたプレートの部屋を目指した。


診察は思ったよりもあっという間だった。レントゲンの写真では骨に異常は見られず、医師は中指の付け根の打撲と診断した。湿布の上から包帯を巻いただけで、診察は終了した。


替えの湿布や痛み止めの処方箋しょほうせんをもらうために総合受付に戻ると、昼に近付いているためかかなり混雑していて、受付内の看護師達が忙しなく動き回っていた。咲月は患者の列に並んで、手持ちぶさたのまま自分の番を待つことにする。その時だった。


「・・・咲月君?」


自信のない呼び声に、咲月は首を巡らせた。総合受付を横断しようとしている白衣の団体の内の一人が、咲月に視線を合わせて足を止めている。その独特な風貌ふうぼうを、咲月は急いで記憶に残る人物との照合にあてた。


身長は百八十ぐらいあるだろうか。綺麗なダークブラウンに染め上げられた癖のない髪は首元まで伸び、サングラスみたいな茶色のレンズの眼鏡には度が入っているか疑わしく、白衣の下にはそれとは対照的な黒いワイシャツを身にまとっている。職業の象徴に近いその白衣さえ羽織っていなければ、ホストにしか見えない風貌である。


それだけ特徴的なのにも関わらず、咲月の記憶に残る人物達にはかすりもしなかった。しかし、正面から咲月を見据えた白衣の男はそんなことなどお構いなしに表情をほころばせた。


「やっぱり!咲月君か!久し振りだな!」


白衣の男は笑顔のまま近付いてきたが、やはり記憶に該当する人物は現れない。咲月は眉をしかめながら警戒心をあらわにして、一定の距離を保とうとした。


「・・・誰ですか?」


咲月の問いに白衣の男は一瞬だけ不思議そうな表情を見せたが、すぐに笑顔を取り戻した。しかしその笑顔は、どことなく寂しそうだった。


「・・・そっか。いや、覚えてないならそれでいいんだ。静恵の古い友人だよ。・・・元気そうで、良かった」


「・・・あの」


「磯先生。行きますよ」


磯と呼ばれた白衣の男はそう急かされて、懐かしそうに咲月を眺めていた視線をそらした。同僚らしい男に手を上げて、彼は身をひるがえす。


「じゃ、また。あまり静恵に迷惑かけるなよ」


そう言い残した磯はにこやかな笑顔で、遠くに遠ざかっていった。突然の出来事に少し困惑を隠せない咲月は我に返ると、いつの間にか順番待ちの列からはみ出していることに気付く。咲月は小さなため息混じりに、再び最後尾に並び直した。

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