第※話
第※話
家へと続くコンクリートで舗装された道を、咲月は黒いランドセルを揺らしながら懸命に走っていた。はやる気持ちが抑えきれずに、何度も転びそうになっては体勢を立て直し、懲りずにまた走り出す。息は充分上がっていたけれど、そんな程度で足を止めようとは思わなかった。
漢字テストで百点を取れた。そんな些細な事が、今の咲月にはとても嬉しかった。母親の笑顔を想像しただけで、口元が思わず綻んでしまう。
お母さん、喜んでくれるかな。お母さん、笑ってくれるかな。嬉しい想像は留まることを知らずに膨らんでいき、咲月の足を加速させる。
自分の家庭が普通とは「違う」ことに、小学生ながらも咲月は理解していた。眠りにつく時に隣の部屋から聞こえる怒声。何かが倒れたり、割れたりする音。笑顔のかわりに、よく頬を腫らして涙を流すようになった母親。
それでも、咲月にはそこしかなかった。そこにしか、居場所は存在しなかった。どんなに恐くても、悲しくても、帰る場所は、そこだけだった。
だから、出来る事をしようと子供なりに考えた。小さな手でも家事の手伝いは出来るし、未熟な頭でも、頑張れば百点が取れる。そうやって、母親の笑顔を増やせればと思った。母親の笑顔を守れると思った。子供ながら、本気で。
目の前の角を曲がれば、家はもう目の前だ。咲月は勢いも落とさずに角を曲がり、マンションの階段を駆け上がって四階に上がり部屋のドアノブを回して玄関に足を踏み入れた。
瞬間、足を止めた。まとわりつくような
違う。いつも「違う」のと、違う。
「・・・お母、さん?」
震える声が、廊下に響く。しかし、応えるものは何もなかった。沈黙。重く、暗い静寂。不安が、とめどなく込み上げる。
「・・・お母さん!」
震える声を絞り上げ、咲月は靴を脱ぎ散らかしたまま廊下を駆けた。キッチン、トイレ、風呂場。どの扉を開いても、そこには誰も居なかった。
「どこ!お母さん!」
今にも泣き出しそうになる。不安が、体中を這い回る。焦る足は廊下を突き当たって、小さな手はリビングへと続くドアノブを回した。ドアが開くと同時に、咲月は声を上げた。
「お母さん!」
瞳に飛び込んだ、リビングの光景。
一瞬。
綺麗だと、思った。
真紅に染まる、小さな世界。
歪な絨毯の上、
力なく、
紅い
目が、離せなかった。
それは、ゆっくりと振り返り、
目が合うと、美しく微笑んだ。
「・・・お帰り。咲月」
「・・・ぁ」
四肢の力が抜けた咲月はその場に崩れ落ち、ただ声にならない声を上げて目を逸らせずにいた。とても気持ち悪い臭いが鼻をつくのに、それを吐き出すことも出来ずに、立ち上がって近付くそれを見ていることしか出来なかった。
左手には、紅い携帯電話。
右手には、紅い刃物。
「・・・ごめんね。・・・本当に、・・・ごめんね」
笑顔のまま、壊れたように、繰り返される、謝罪の言葉。
耳を塞げれば、どんなに楽だろう。目を瞑れれば、どんなに救われるだろう。
それはゆっくりと咲月の前に腰を落とし、携帯電話を落とした左手を伸ばした。染まった指先が頬をなぞり、紅い筋をいくつも描いていく。
伸ばされた右手。突き立てられた切っ先が、ゆっくりと、皮膚を裂いて、体を侵す。
「咲月・・・、愛してるわ。だから・・・」
聞き慣れた、いとおしい声が、鼓膜を、震わす。
「・・・一緒に、・・・死のう?」
その瞬間。
恐怖など、なかった。
痛みも、あまり、感じなかった。
ただ、・・・悲しかった。
守れなかった。
壊れないように、守ろうとしたものは、
もう、とっくに、
壊れていた。
・・・ねぇ、お母さん。
僕のこと、嫌いになった?
僕のこと、邪魔になった?
僕ノコト、要ラナクナッタ?
暗転する視界が、
最後に捉えたのは、
一筋の雫を頬に伝わせて、
美しく微笑む、
血化粧の母親の姿だった。
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