第5話

第5話

満月に近い月が、寂しそうに夜空に浮かんでいた。縁側に腰を下ろしていた静恵は薄い白のカーディガンに身を包み、煙草をくゆらせながらそれを眺めていた。街はしんと静まり返り、世界には誰も居ないのではないかという錯覚に陥ってしまいそんな、そんな夜だった。


大きく吐き出した紫煙が、音もなく消えていく。手を伸ばせば、指先すら溶けて消えてしまいそうな、眼前に広がる闇。それが少しだけ心地よかった。視界が働かなければ、記憶と思考は自然と精度を増していく。


この家屋を知人から買い取ってから、そして咲月を引き取ってから、もう五年の月日が流れていた。それはとても長いようで、あっという間の気がした。思い出を忘れるには十分で、傷跡を癒すには足りないような、そんな時間感覚。




大学を二年で中退してすぐに職にありついた静恵は、ただ働くという目的だけで生きていた。理由は簡単だった。ある事件をきっかけに病み始めた心がとうとう耐えきれなくなり、その結果か三年間付き合っていた彼氏と別れる羽目になったからだ。楽しかった思い出はただ苦しみを伴う苦痛となり、徐々に心を食い潰そうとしていた。それを回避するため、何も考えないようにするために、静恵は無我夢中で仕事に没頭することにした。仕事の事だけを考えていれば、過去を思い出さなくて済むからだ。


五年もあれば、人は変われる。変われてしまう。あれほど苦痛を伴った事件も当時の思い出も、いつの間にかセピア色に褪せていき、思い出しても、心が断末魔を上げることはなくなっていた。自分の心が麻痺したのか、時間がそれらを薄めてくれたのか、静恵には分からなかった。


その頃には、仕事に没頭していたお陰か、そこそこの地位と有能な部下にまで恵まれはじめていた。順風満帆なキャリアウーマン。誰もがそう思う存在に、望まないにしろ自分は近付きつつあった。


しかし、変化は前触れもなく訪れる。突然言い渡された部署異動。しかし静恵は特に抵抗はしなかった。気持ちを切り替えるため環境を変えようと、知人から格安で古い家屋を譲ってもらい、引っ越すことにした。賃貸は細かなことを気にしなければならないし、将来的に家はあっても損はしないだろうという、安直な考えだった。


大して荷物のない引っ越しを済ませた数日後。一本の電話が、静恵のポケットを震わせた。


内容は普通に考えれば至極簡単で、難解だった。電話の相手は父の弟に当たる人物で、引き取った静恵の姉の息子の面倒を見てくれないかと言う。静恵にとっては、甥に当たる子だ。


静恵が断る理由はなかった。大好きだった姉の息子だし、風の噂で親戚中をたらい回しにされていることも聞いていたので、驚くこともしなかった。


むしろ、無意識に望んでいたのかもしれない。姉に何も出来なかった、してあげられなかったという悔恨かいこんだけが、唯一セピア色の記憶の中で鮮明に色付いていたからだ。それに、ちょうど広い家も手に入れたので、お互い一人より二人の方が気が紛れるだろうと、そんな甘い考えを、漠然と抱いていた。


数日後。親戚と約束をして待ち合わせた。甥とはあの事件以来、何年振りの再会だろう。大きくなっただろうか、怪我は大丈夫だったのだろうか、そういったさまざまな感情が、静恵の中を行き交っていた。


しかし、それらの感情は一瞬で吹き飛ばされた。少年と出会った瞬間、静恵はただ、息を呑んだ。


まるでここには居ないような、希薄な存在感。生気のないうつろな瞳は感情を何も映さず、ただ目の前の人物や風景を反射する役割しか果たしていないように見えた。


あの事件が、どれほど幼い心に刃を突き立てたのだろうか。生きる意味を見失ったその少年は、ただ親戚に言われるがまま静恵をレンズで反射し、頭を垂れた。


静恵は今にも泣き出しそうになった。目の前の少年を見ているだけで、胸が張り裂けそうだった。自分の中では癒えたと思っていた傷跡は、いまだ少年の中で、「今」を、「意味」を、食い潰し続けていた。


静恵は泣かないように歯を食い縛り、咲月と紹介された少年を抱き寄せた。力ない体が、無防備に腕の中に委ねられる。


「・・・私はずっと、側にいるから」


言葉にした瞬間、静恵の頬に静恵の頬に涙が伝った。


本気で守りたいと、守ってあげたいと、心からそう思った。




あれから五年。時間は誰にでも平等に流れ、咲月は少しずつ笑顔を取り戻していった。一番大きな要因は、幼稚園で仲が良かった吉田結城との再会だと思うが、この家で自分と過ごした時間が少しでもその手助けになっているのが、静恵にとって嬉しかった。自分の事よりもつい優先してしまう。これが、母性というものなのだろうか。


その時、テーブルの上に置いてある携帯電話が軽やかなメロディを奏で始めた。現実に意識を戻した静恵はゆっくりとした動作で部屋に戻り、携帯に耳を当てた。


「はい。雨宮です」


『夜遅くに悪い。今、平気か?』


それは昼間に聞いた声で、電話の主は静恵の高校の同級生で咲月の通う高校の教師でもある五十嵐だった。静恵は縁側に戻り、新しい煙草に火をつけた。


「大丈夫よ。どうしたの?」


『いや、雨宮・・・、咲月君の様子はどうだったかなって気になって』


「えぇ。芯はしっかりしているから大丈夫だと思うわ。ただ・・・」


『ただ?』


「・・・学校の処分には、従うみたいよ」


静恵はため息と共に紫煙を吐き出し、記憶を少しさかのぼる。食事の前に話をした時、これからの事を言葉にした咲月の真摯な眼差しには、迷いは感じられなかった。その事に、静恵は落胆した事を覚えている。


「退学になったら、仕事が決まるまではバイトするって。・・・多分言っても聞かないわ」


『そうか。・・・はは、参ったな』


五十嵐は笑いながら、電話越しに喉を鳴らした。酒でも飲んでいるのだろうか。


「それで、正式に処分は決まったの?」


静恵もビールを飲みたい衝動に駆られたが、翌日仕事がある場合は集中力の低下を起こすので平日は飲まないようにしている。静恵は疑問を口にしながら、煙草を吸うことで誘惑を打ち消した。


『あぁ、一応は、な。だけど、事情は複雑なんだ』


五十嵐は唸りながら、思わせ振りな口調でそう言った。静恵は遠回しな物の言い方が好きではなかったので、眉間に皺を寄せて先を促した。表情を気にしなくていいので、電話越しだと気が楽だ。


「はっきり言って。退学なの?退学じゃないの?」


『だから複雑なんだって。・・・一応、仮退学って形かな?』


「え?・・・仮退学?」


聞いたこともない言葉に、静恵は少しだけ声を張り上げた。読み取れそうで読み取れない、言葉遊びのような単語に聞こえた。


『まぁ、言葉だけじゃ分からないよな。明日会えるか?詳しく話したいし、出来れば協力してもらいたいんだ』


突然の誘いに、静恵は頭を悩ませた。今日は五十嵐からの電話で仕事を早退したので、出来なかった分の仕事の穴埋めを明日の残業で補おうとしていたからだ。二つの責任が、天秤にかけられる。


「・・・分かったわ。仕事で遅くなるかもしれないけど、構わない?」


『あぁ、悪いな。連絡待ってる』


その後に続く無機質な電子音から静恵は耳を離して、ため息混じりに再び夜空を見上げた。唯一の存在だったはずの月は、雲に呑まれて消えていた。


どんな気持ちで、彼は力に訴えたのだろう。


どんな思いで、彼は拳を振り下ろしたのだろう。


あの時の自分なら痛いほど理解してあげられただろうに、今の自分には、到底理解してあげられない。


あの事件を、あの人を、自分は思い出にしてしまったからだろうか。セピア色に、褪せてしまったからだろうか。


「・・・本当、恨むわ。・・・姉さん」


静恵は月の消えた夜空を睨みながら、落とすように呟いた。

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