第14話

第14話

「やっぱ太陽の光は良いねー!」


ベンチの上で声を上げた夏海は目を細めて空を仰ぎ、天に手を差し出すように大きく伸びをした。


談話室を後にした咲月と夏海は、一度部屋に戻って道具を置いてから上着を羽織り、再び昨日と同じ病院の裏手にある広場のベンチに並んで腰を下ろしていた。咲月も煙草をくわえたまま彼女に倣うように空を仰ぐと、瞳が映す上空は、どこまでも青く澄んでいた。


「あ、月!ほら!」


夏海はわずかに体を傾かせて咲月の肩を叩き、東の空を指差した。目を凝らすと、確かに青い空の中に白い大きな円が見えた。まだ太陽にお預けをくらっているのか、存在感は朧気おぼろげだった。


昼下がりの二人だけの団欒だんらん。その中で、咲月は夏海の色々なことを知ることが出来た。今年で二十五を迎えること。美容師としては五年目ということ。美容学校で学んだ様々な技術。美容室に勤め始めた頃の雑用や練習の下積み。それらを夏海は身振り手振りで楽しそうに話し、自分もそれを楽しく聞いていた。彼女の話し方が上手くて楽しいのか、彼女のことを知ることが嬉しいのかは分からなかった。だが、分からなくても別に良かった。楽しいなら、理由など些末さまつな問題だった。


「お姉ちゃん!」


一時間ほど話していただろうか。それでも会話は途切れることなく、そしてどういう経緯でたどり着いたかは分からないが冬の服装についての議論の最中、突然誰かを呼ぶ声が聞こえた。人気ひとけのないこの広場には今は二人の姿しかなく、呼び方からして夏海が呼ばれているのは明白だった。二人は同時に、思わず声の方に視線を向けた。


広場の入口には、見覚えのある女子高生が立っていた。短い黒髪に柔らかな顔立ち。すらりと伸びた長身を包む見慣れた制服。咲月が必死に思い出そうと記憶の糸を手繰ろうとした時、隣で煙草をくわえていた夏海が勢いよく立ち上がった。


「歩!」


夏海は吸いかけの煙草を咄嗟とっさに咲月に手渡して走り出した。その行動に、歩と呼ばれた女子高生は声を張り上げた。


「お姉ちゃん!走っちゃダメ!」


その怒声に足を止めた夏海は少し苦笑いを浮かべて立ち止まり、頭を掻いた。走って夏海の元までたどり着いた歩は眉を吊り上げて、姉に対して容赦のない叱咤しったを繰り広げる。


「あれほど言ったじゃん!走っちゃダメだって!」


「えっと・・・、つい」


「ついじゃない!磯先生にも言われてるでしょ!」


「だって・・・、歩が来たから、嬉しくて」


「嬉しくてもダメ!」


「ご、ごめんって。そ、そんな怒らなくても・・・」


どっちが姉でどっちが妹か分からなくなる光景だ。咲月は夏海に手渡された煙草を備え付けの灰皿に入れて、ゆっくりと立ち上がった。


今の状況は、咲月にとってあまりいい状況とは言えなかった。昨日の夏海の話では、歩と呼ばれた妹は自分と同級生なので、一昨日自分が起こした騒ぎを知らないはずがない。自分としてはどうということはないが、謹慎処分を受けている以上、お互い関わらないに越したことはない。咲月は俯きがちに歩き、歩と手を取り合っている夏海の隣に並んで小さく囁いた。


「俺、そろそろ帰るよ」


しかし、立ち去ろうとする咲月を夏海の手が制した。予想していなかった彼女の反応に思わず振り向いた咲月は、妹である歩と目が合った。


記憶の照合が瞬時に一致を示す。夏海の妹は、咲月が所属するクラスの学級委員である、新藤歩だった。


「何で?歩が来たんだから、まだいいじゃん」


夏海は歩から事情を聞いて知っているはずなのに、そんなのはお構いなしの態度だった。目の前の歩は突然の咲月の登場にただ目を見開き、警戒心を露にしている。


「・・・雨宮、君」


「・・・おぅ」


歩は困惑しながら、咲月と夏海を交互に見た。その仕草に、先ほどの威勢の良さは微塵も感じられない。妹の疑問にようやく気付いた夏海は悪戯な笑みを浮かべて、居心地の悪そうな咲月の腕に抱きついた。突然のことに、咲月は体を強張らせた。


「・・・な、何だよ」


「歩、紹介するね。私の彼氏」


「えっ!」


「・・・はぁ?」


「・・・って、言うのは冗談。ははっ」


夏海の言葉に、咲月と歩は同時に声を上げた。重い空気が、一瞬にして緩んでいく。


「・・・ちょっと。離れろって」


「いいじゃん。減るもんじゃないし」


「・・・そういう問題じゃない」


「じゃあ、どういう問題?」


「・・・ふふっ!」


咲月と夏海の下らないやり取りに、堪らず歩は吹き出した。彼女のお陰だろうか、歩から警戒心はもうほとんど感じられなくなっていた。先ほどまで重く切迫せっぱくした空気も、今は跡形もなく消え去っている。


夏海は再びベンチに戻って話そうと提案し、二人はその意見に異議を唱えなかった。歩は飲み物を買ってくると言って姿を消したので、広場は再び咲月と夏海の二人だけになった。


「新藤、夏海さんだったんだ」


今思えば、昨日彼女が名乗ったのは名前だけだった。今更思い出す、少し前の記憶。彼女の部屋の前に訪れた時に見た、プレートに書かれていた名前を。


「あ、さん付けはやめて。私嫌いなんだ。夏海で良いよ」


「・・・夏海」


「何?」


「あ、いや。呼んでみただけ」


「ふふっ。何それ」


夏海は小さく笑いながら、煙草をくわえて火をつけた。咲月も同じく、自分の煙草を取り出して火をつける。


二人が吐き出した紫煙が揺らめいて絡み合い、音もなく消えていく。咲月は口を開かなかった。それは夏海も同じだった。二人で生み出した沈黙は、心地よい感覚だった。沈黙でいても平気で居られる人はそうそういないだろうと咲月は思いながら、二人して歩が帰ってくるのをただ待っていた。


コンビニまで行っていたのだろう。歩はビニール袋を提げて帰って来た。中には数種類の飲み物とお菓子が入っている。


かすかに冷たい風が吹く雲一つない青空の下、三人は長い時間会話に華を咲かせた。その全てが他愛もない会話だというにもかかわらず、それが楽しくて沈黙が一度も訪れないまま、太陽は静かに身を沈ませ始め、青かった空は赤に染まり始めていた。


「もう、こんな時間なんだ」


会話が一瞬途切れた時、夏海は空を仰いで小さく呟き、ゆっくりと立ち上がった。咲月は腕時計に視線を落として時間を確認してみる。短針は既に午後四時を示していた。広場に来てから、もう三時間は経過している。空の景色が移ろわなければ、こんな時間だとは気付かなかっただろう。


「咲月、明日も暇?」


夏海の問いかけに、咲月は小さく頷いた。謹慎中に出歩くことは問題だが、退学になると分かっている以上、処分に従う理由はなくなっていた。


「じゃ、待ってる。あ、歩を送ってってあげてね」


夏海はそう言い残すと、一人ですたすたと歩き出してしまった。残された咲月はゆっくりと立ち上がり、姉に向かって手を振る歩に声をかけた。


「新藤。送っていくよ」


「あ、うん。ありがと」


二人は夏海が院内に姿を消すまで見送ってから、病院を後にした。




「・・・一昨日は、悪かったな」


夕闇に染まる空の下、帰路をたどっている最中に咲月は口を開いた。沈黙が嫌だったわけではないが、歩に会って、彼女にだけは謝らないといけないと思った。あの現場で教師を呼びに行ったのは彼女だけだし、一人のクラスメイトとして迷惑をかけたからである。


「え?」


「・・・いや、迷惑をかけたと思ってさ」


咲月は視線を反らしながら頭を掻いた。謝るというシチュエーションにはあまり耐性がない。しかし、謝罪の言葉に対して、歩からは何も返ってこなかった。咲月が振り返ると、彼女は足を止めたまま咲月を見つめていた。


「どうした?」


「あ、ううん。何でもない」


我に返った歩は軽く走って咲月に追い付いた。言葉を選んでいるのだろうか、彼女は何か言いかけては口を閉ざし、それを幾度か繰り返している。


「何?言いたいことあるなら言っていいよ」


咲月はあまり警戒されないように努め、柔らかく歩の言葉を後押しした。意識しなければ高圧的な言い方と捉えられる可能性が十分にあったからだ。彼女は窺うような視線を向けると、まるで決意したような真剣な表情を一瞬浮かべて、小さく頷いた。


「うん。・・・雨宮君って、イメージと随分違うんだね」


「・・・そうか?」


咲月は小さく首を傾げた。どんなイメージを描いていたのか少し気になったが、敢えて聞かないことにした。何となく分かる気がしたからだ。


「・・・学校の方は、色々と大変みたい」


歩は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。自分の中でも、情報を整理しているらしい。


「聞いた話だけど、雨宮君の処分。・・・仮退学になっているんだって」


「・・・仮退学?」


聞き慣れない言葉に咲月が鸚鵡おうむ返しで問い返すと、歩は真剣な表情を浮かべた。


「退学処分は、一週間後。それまでにあの騒動の動機や背景が分かれば、もう一度処分を検討するって」


「・・・何だ、それ」


咲月は鼻で笑いながら、再び歩き始めた。猶予のための一週間など、何の意味もない。高田は実際に理由を知っているわけではないし、自分も口を開く気などさらさらない。だから、学校側がそれを知る術はないはずだ。


・・・話して、楽に、なれるなら。


そう、何度も、何度も思った。


「高橋先生も色々と頑張っているみたい。でも・・・」


・・・忘れて、楽に、なれるなら。


そう、何度も、何度も思った。


「雨宮君が話してくれないと、本当の解決には・・・」


「・・・新藤」


咲月は立ち止まり、懇願こんがんするような瞳で訴えている歩を睨み付けた。彼女は一瞬にして言葉を飲み込む。今度は言葉も、態度も、咲月は選ばなかった。


「・・・俺は、話さない。絶対に」


「・・・でも」


歩はなおも食い下がろうとしたが、それ以上言葉を紡ぐことはなかった。その代わりに発せられたのは、頬を伝う小さな涙だった。


何故そこまで考えてくれるのか、咲月には理解出来なかった。クラスメイトだからだろうか、学級委員だからだろうか。それでも、歩は確かに自分のために泣いていた。それだけは、理解出来た。


俯いて涙を拭う歩の頭を、咲月はゆっくりと近付いてそっと撫でた。どういう慰め方をしていいか分からなかった。顔を上げた彼女の赤い瞳には、少し困ったような表情を浮かべる自分の姿が映し出された。


「悪い、その・・・。言い方、きつかったな」


「・・・」


歩は再び顔を俯かせて小さく首を振った。彼女の涙で少し気持ちを落ち着かせることが出来た咲月は、頭を掻きながら必死に言葉を探す。


「気持ちは嬉しいんだ。ありがとな。でも・・・」


歩の瞳に今はどう映っているかは分からない。それでも咲月は、小さく微笑んだ。


「これは、俺の問題だし。・・・言いたくないことは、誰にだってあるんだ」


言おうと思えば、思うほど。


忘れようと、すればするほど。


あの頃の自分が、突き立てる。


心にやいばを、突き立てる。


その言葉がどう受け取られたかは分からない。どう受け取って欲しいか自分でも分からない。そんな胸中の咲月の言葉に、歩は少しの間を開けて、小さく頷いた。


「・・・ごめんなさい」


「・・・いや、俺の方こそ、悪い。じゃ、行くか」


咲月がそう言って歩き出すと、歩も小さく頷いてから咲月と並んで歩き出した。涙を拭った彼女は必死に明るく振る舞おうとしている。そうさせているのは自分だと、咲月はかすかな自己嫌悪に苛まれた。


それでも今は、咲月は歩の行動に甘えることにした。格好悪くても、そうするしか、他になかった。


心の中で、あの頃の自分が、微笑みながら泣いている気がした。

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