第3話

第3話

拳が、痛みを訴えている。鈍いそれは頭まで響いているようで、咲月は額をおさえたまま小さなため息を吐いた。


痛みが響けば響くほど冷静さを取り戻していき、自分がしてしまったことの重大さを思い知らされる。断片的に残る記憶が、痛覚とリンクして心を責める。


(・・・何で、あんなことしたんだろ)


愚痴るように自分を責めて、その重圧に項垂うなだれる。苛立ちを拳で吐き出したいと思ったが、痛みのせいでそれも叶わない。


「咲月、大丈夫か?」


声がしたので顔を上げると、結城がカップを二つ持って立っていた。彼は心配そうな表情でカップを一つ差し出し、咲月の向かいに腰を下ろした。


帰宅を許された二人は、結城のバイクにまたがりとりあえず彼の家を目指した。血まみれの服装のまま帰るわけにもいかず、家に帰るにしても、咲月は落ち着くだけの時間が欲しかった。


「ん、ありがと」


咲月は差し出されたカップを受け取り口をつけた。エスプレッソだろうか、芳醇な香りが鼻をかすめ、深い味わいが喉を通り抜けていく。


結城は何も言わず、何も聞かずに咲月の前に腰を落ち着けて、静かにカップに口をつけていた。それが彼なりの不器用な気の使い方だと、長い付き合いの咲月は痛いほど分かっていた。


「・・・ごめん」


その言葉が、自然と口から零れ出た。その言葉に、結城は少しだけ微笑みながらゆっくりと立ち上がった。


「俺には気を使うなって。前から言ってるだろ」


そう言って結城がキッチンに消えると、水が弾ける音が聞こえた。カップを洗っているのだろう。咲月はその音に耳を傾けながら、再びカップに口をつけた。


咲月にとって結城は幼稚園からの付き合いで、しばらく会わなくなったりはしたがかれこれ十年以上の付き合いが続いている。はたから見れば対極の二人ではあったが、再会して以来は結構一緒にいることも多く、自分の事を理解してくれる数少ない一人だ。


だからこそ、原因や理由を知らなくても、結城は咲月にたずねなかった。その思いを、咲月も理解していた。


結城は溜まっていたらしい洗い物を終えると、タオルで手を拭きながら戻ってきた。頭にはいつの間にか銀色のカチューシャを付けていて、鮮やかな金髪はオールバックになっている。


「だけどさ、退学になったらどうするんだ?あ、吸う?」


結城は再び咲月の向かいに腰を下ろして赤い箱から煙草を取り出すと、それをくわえて咲月に箱を差し出した。咲月は抵抗なくそれを受け取り一本くわえると、テーブルの上に置いてあった無数のライターから一つ手に取り、煙草の先端に火をつけた。


くすぶる紫煙を掻き消すように、咲月は透明さを増した煙を吐き出した。煙を吸うために深呼吸をしたせいか、拳が再び痛みを訴える。


「っ痛・・・。どうするって言われても、そうなったらやっぱ働くしかないだろ。静恵さんに、迷惑はかけられない」


「そうだよな。・・・停学で済めばいいんだけどな」


二人がそう言って口を閉ざすと、部屋の中は重い空気に包まれた。


たとえ無意識に近い行動だったとしても、責任は取らなければいけない。どんな理由があろうとどんな経緯があろうと、それは義務として与えられる。自分が犯した罪は、自分が償わなければ意味がない。


咲月は小さくため息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がった。家に帰ることから逃げてここまで来たが、ここに留まっていても何の解決にもならない。


「もう行くのか?」


「あぁ、悪いな。着替えありがと」


咲月は血で汚れた制服の代わりに着ている白いジャージの首元を引っ張る。


「洗い終わったらメールする。送っていくか?」


「いいよ。歩きながら、色々考えたいし」


咲月はそう言って玄関に向かい、靴を履き始めた。利き手である右手が使えないので、慣れているはずの行動に悪戦苦闘する。


「何かあったら言えよ。力になれるなら手、貸すから」


「・・・ありがとな」


「おぅ」


咲月は怪我をしていない左拳を突き出し、結城がその拳を軽く小突いた。それは二人の別れ際のいつもの挨拶だった。咲月は扉を開け放し、階段を下りていく。


アパートの敷地から出ると、景色は既に茜色に染まり始めていた。遠くに見える太陽は、月へとバトンタッチするためにビルの隙間に体を沈め始めている。もう秋へと趣を変え始めている大気は、少しだけ冷えた風でそっと咲月の頬を撫でていく。気のせいか、それが少し拳に染みた気がした。


一人暮らしの結城が住むアパートから自宅への距離は、普通に歩いて十分ぐらいの距離だ。それを咲月はゆっくりと、十五分かけて歩いた。


実際に、何かを考えていたわけではない。共に暮らす叔母の静恵には洗いざらい話すつもりだったし、学校から下される処分も甘んじて受けるつもりだった。ただ、歩いていたかった。今、独りであることを、再認識したかっただけかもしれない。


たどり着いた玄関先には、一人の女性が待ち構えていた。長く黒い髪は風になびいていて、整った顔立ちを時折隠している。しかし、たまに覗く瞳ははっきりと咲月を見据えていて、細い腕を胸の前で組んでいる。その人こそが、咲月の叔母の雨宮静恵だった。


「・・・お帰り」


怒気を含んだ声が、風に遮られることなく咲月の耳を襲う。咲月はただ、目を合わせることが出来ずに俯きながら言葉を返すしかなかった。


「・・・ただいま」


「中に入りなさい」


抑揚のない声で簡潔にそれだけを告げると、静恵はきびすを返して玄関の奥に消えていった。残された咲月は、一度だけ深呼吸をして彼女の後に続いた。


玄関を上がり、廊下の左に位置するふすまが居間へと続いている。右は台所兼風呂場で正面突き当たりは静恵の部屋。その手前の階段から二階に上がる事ができ、二階には咲月の部屋と物置部屋がある。古い木造の家はもちろん咲月のものではなく実家でもなく、正真正銘静恵の所有物である。咲月は甥に当たるが、結果としてただの居候の身だった。


咲月は居間へと続く襖を開く前に、もう一度大きく深呼吸をした。思考は最善の説明を紡ぎ出すために、高速で回転している。


「・・・失礼します」


咲月は強張る声でそう言うと、ゆっくりと襖を開けた。


八畳ほどの空間の中心にちょうど一畳分ほどの木製のテーブルがあり、そこで静恵が正座で待ち構えていた。視線は庭へと向けられており、咲月の方へ向き直る素振りは一向に見せない。


「・・・」


作られた静謐せいひつな空間は音を許さないようで、咲月は強張った体を慎重に動かして、音を立てないように気を配りながら静恵の向かいに腰を下ろした。


「やっぱりこの季節は、花がなくて寂しいわね」


視線を庭に向けている静恵は、独り言のように小さく呟いた。その表情に先ほどまでの怒りはなく、凛とした姿勢で、穏やかに見えた。


咲月は倣うように視線を庭に向けると、人の手によって整備された庭は確かに彩りを失っていた。植物が内包する色としてそこに存在するのは、見た限りでも緑、黄、茶程度だった。少し寂しい気もするが、これはこれで自然としての華やかさがある気もする。


「・・・そうですね。でも俺は、今の方が好きです」


緊張が少し解けた咲月がそう呟いて視線を戻すと、いつの間にか静恵は咲月を真っ直ぐに見据えていた。その眼差しにはすでに怒りは宿っていなかったが、庭に向けていたものとも違う真剣な瞳で、咲月の両目を捉えていた。


「病院は、行ったの?」


「まだです。明日行こうと思って」


「五十嵐先生から電話をもらったわ。・・・何があったかは、聞かない。でも、今回が、中学の時と状況が違うのは解るわね?」


「・・・はい」


「どうするか、決めてあるの?」


静恵の問いに、咲月はすぐには返答出来なかった。少し俯いて、再び思考を回転させる。


「就職口は探すつもりです。それまではバイトをして、生活費を入れようと思っています。・・・ご迷惑をお掛けして、すいません」


頭を下げた咲月の言葉に、静恵は難しい表情を浮かべながら目を瞑った。何やら考えている素振りだ。そうして訪れる、少しの静寂。


就職口に、咲月は当てがあるわけではなかった。しかし退学が免れない以上、そうは言っていられない。学校の庇護ひごがどれほど未成年にとって大きいか、失いそうになった今になって思い知る。


「・・・はぁ。ちょっと早いけど、ご飯にしましょ」


立ち込める静寂を払うように、静恵は大きなため息と共に腰を上げて台所に向かった。残された咲月は顔を上げて正座の姿勢のまま、小さなため息を吐いて視線を再び庭に移した。


花の無い、彩りの欠けた世界。それが自分には、お似合いだなと咲月は感じた。

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