第2話

第2話

(・・・困ったな)


そんな単純な言葉では言い表せないほどの葛藤かっとう焦燥しょうそうが、身体中を電気のように駆け巡っている。今すぐにでもこの問題を投げ出してビールを飲みたいところだが、職務中にそんなことは言語道断ごんごどうだんだ。


教師という職に就いて六年。今までなぁなぁに過ごしてきたツケが回ってきたとでもいうのか。今までにない大きな問題に、高橋洋一たかはしよういちは巻き込まれてしまっていた。


元凶は目の前でうつむいている一人の生徒。高橋が担当しているクラスのうちの一人だ。その生徒はどんな質問を何度しても口を開くことはなく、壊れた人形のように顔を上げることすらしなかった。


自分に少しの性格の荒さと度胸があれば、怒鳴り散らして色々と聞き出すことも出来ただろうが、高橋に元来そんなものは欠片も備わっていない。ただ何度も、何があったか、何でそんなことをしたのかを、うかがうように聞くことしか出来なかった。よく見る刑事ドラマの取り調べをする刑事が、初めて羨ましいと思えてしまう。


生徒指導室。今は二人きり。高橋は小さなため息まじりに、もう何度目か分からない質問を、再び口にした。


「・・・雨宮あまみや君。なんであんなことをしたの?理由を聞かないと、問題は何も解決しないよ」


我ながら情けない質問の仕方だと思う。しかしこう言う他に言葉が見つからなかったのだから仕方がない。当たり前だが今度の質問にも、雨宮咲月は何の反応も示さなかった。


らちのあかない事情聴取。高橋は何度目かの深いため息を吐き、椅子に背に深くもたれ掛かった。一度天井をあおぎ、再び生徒に視線を向ける。


しかし、高橋にはいまだに信じられなかった。目の前の寡黙かもくな少年が、あんな凄惨な光景を生み出した張本人だということに。




一時間前。


高橋は職員室で同僚の五十嵐と他愛のない会話をしながら昼食をとっていた。といっても、弁当を作ってくれる相手など高橋にはいないので、出勤前にコンビニで買ったサンドイッチを口に頬張るだけである。職員室の中には二十名ほどの教師が、各々短い休憩時間を好きなようにやりくりしていた。


その時、職員室の入口が勢いよく開かれた。あまりの音の大きさに、高橋は口をつけていた缶コーヒーを手から落としそうになるほどだった。職員室にいる全員が、音の方に目を向ける。


「先生!高橋先生!」


悲痛な声が室内中に響き渡る。あまりに突然のことだったので、自分の名前を呼ばれていると気づくのに、高橋は数秒の時間を要した。


「し、新藤さん?どうしたの?」


「先生!早く!雨宮君が!」


新藤と呼ばれた女生徒は高橋の元まで走り寄ると、食事中にも関わらず容赦なく高橋の袖を引っ張りだした。あまりに異様な生徒の態度に、室内は一瞬で糸を張ったような緊張に包まれる。


「ちょ、待ちなさい!一体、何が・・・」


「いいから!早く!」


切迫した新藤の声はエスカレートし、瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。何がなんだか分からない高橋は新藤のされるがまま椅子から立ち上がり、職員室を後にする。室内では異変を察知して慌てるように数人が立ち上がり、二人の後に続いた。


高橋が担当するクラスは二階上の一番奥の教室だった。血相を変えて階段を駆け上る新藤に何とか速度を合わせながら、高橋は再び問いかけた。


「い、一体・・・、何が」


「私も・・・、分からないんです。・・・もう、突然で」


そう小さく呟いた新藤の頬には、もうこらえきれなくなったのか涙が数滴伝っている。いつもはクラスをまとめる中心として冷静かつ活発に振る舞っている彼女がここまで取り乱すとは、それほどに事態が深刻で異常だという裏付けに他ならない。高橋は膨らむ不安と瞬間的な運動のせいで、かすかに目眩めまいすら覚えていた。


階段を上りきって体の向きを変えると、高橋は一瞬歩むのを止めた。普段ならあちこちに生徒が散らばっていて貴重な一時間を有意義に過ごしているはずなのに、今は廊下を見渡しても生徒一人の姿も見えない。その全てが、高橋が受け持つクラスの教室の前に集っていた。


近づけば近づくほど喧騒けんそうは音を増し、かすかに聞こえる物音と叫び声や嗚咽おえつが、高橋の不安を更に掻き立てる。


「ちょっと!通して!」


新藤が先頭に立って生徒の塊を掻き分けていくので、高橋はその後に続いてようやく教室の入口の前にたどり着くことが出来た。


(・・・っ!!)


息を呑む音が、やけに自分の体の中で響いた。視界が捉えた映像を、脳がうまく処理することが出来ない。


無作為に散乱している机や教科書。かすかに床に見える赤い斑点。逃げ遅れたらしいクラスメイト達は教室の隅で、目の前で繰り広げられている惨状に声を押し殺して怯えていた。


教室の中央の近くで、二人の男子生徒がうめき声を上げてうずくまっている。その中心で、一人の男子生徒が膝をつき何度も拳を振り上げては勢いよく振り下ろしていた。


「・・・ちょっ!こらっ!」


中心にいるのは一人ではなかった。一人が馬乗りになってもう一人の顔に拳を振り下ろしていた。入口からでは後ろ姿しか確認できないので、高橋は二人の元まで駆け出した。


しかし、止めに入ったはずの手が宙を掻いた。同時に視界が天井を映し、続いて腹部に痛みが走る。


一瞬、何が起きたか理解が出来なかったが、すぐに掴みにいった手が思い切り払われ、その勢いで転倒したことに思い至った。痛みをこらえながら素早く体を起こすと、位置的にようやく馬乗りになっている生徒の姿が高橋の目にはっきりと見て取れた。


背筋を這う悪寒。血の気が音もなく引いていく。


馬乗りになっているのは高橋が受け持つクラスメイトの一人、雨宮咲月だった。彼は口元から血を流しているにも関わらず、無表情のまま下で苦しげな呻き声を漏らす男子生徒に、機械仕掛けのように規則的に拳を振り下ろしていた。下で拳を受けている生徒は、かすかに覗く顔が血まみれで一瞬では誰だか判別がつかず、振り下ろされる拳から顔を守ろうと、必死に手をかざしていた。


その異常な光景に、高橋はただ目を見開くことしか出来なかった。自分から見た普段の雨宮咲月は、とても内気で寡黙かもくな少年のように見えていたからだ。人に拳を振り上げるような、振り上げられるような人間ではない。だが、目の前には見違うはずのない彼が、拳の痛みに顔を歪めることもなく幾度と拳を振り下ろしている。


何故なぜ何故なぜ。同じ疑問が壊れたように高橋の頭の中で回り続ける。


「先生!」


誰かの叫び声でようやく我にかえることが出来た高橋は、歯を食いしばって再び二人を引きはがそうと床を蹴った。今度は振り払われないように、体重をのせて体ごと突進する。


高橋と雨宮の体は暴行を加えられている生徒の上から退き、教室の床を転げ回った。身体中が床に打ち付けられて小さな声を上げたが、そんなことを気にしている暇などなかった。


しかし、運動神経の悪さがあだになったのか、すぐに体勢を立て直すことが出来なかった。高橋が体を起こした時には、雨宮は立ち上がっていて蹲っている生徒に歩を進めている。瞳や表情にはなんの感情もない。それが恐怖と戦慄を誘う。


「雨宮君!やめろっ!」


止めなければいけないと思っても上手く動けない高橋が叫び声を上げると同時に、黒い影がいくつか視界の端から飛び出した。それらは瞬時に雨宮に覆い被さり、床へとその体を叩きつける。


「高橋先生!手伝ってください!」


「お前!自分が何をやっているのか分かってるのか!」


二人の声が、教室に響き渡った。


手伝いをと叫んだのは先ほどまで共に昼食をとっていた五十嵐で、押さえ込まれている雨宮に怒鳴り散らしているのは教育指導の田中だった。彼らは大人二人分の体重で、抵抗を見せる雨宮の体を押し潰している。


「す、すいませんっ!」


高橋は慌てて立ち上がり、二人に加勢して雨宮を押さえつけた。三人の体重に潰されてかすかな身動きすら出来なくなった彼は、糸の切れた人形のように抵抗を止めて動かなくなった。


「おいっ!そこの君!救急車を呼んでくれ!」


「手が空いている人は教室を片付けてください!もう午後の授業始まりますよ!」


雨宮を押さえつけたまま、田中と五十嵐は周りの生徒に指示を与え始めた。この場でその指示に逆らう生徒など、誰一人としていない。誰もが困惑の表情を浮かべながらも、与えられた仕事に従事し始めた。それこそが一番安全で、安心出来るからだ。


高橋はただ、うつ伏せでおさえつけられている雨宮を見下ろしていた。まるで別人のような彼の表情が、行動が、目の前に広がる惨状の現実味を薄めている。


(・・・彼が、やったのか?)


(・・・本当に、雨宮君なのか?)


疑問が幾度となく脳内を駆け巡り、わかるはずもない答えを探すように、高橋は動かなくなった雨宮を呆然と見つめることしか出来なかった。




「・・・話す気は、ないの?」


高橋はため息まじりに落とすように呟いた。雨宮をこの教育指導室へ連れてきてから、かれこれ二時間は経過している。その間、彼は一言もなく、口を開く行為すらしなかった。まるで、自分はここには居ないと思い続けているようにも、高橋には感じられた。


正直、高橋はもううんざりしていた。今回の件の責任が誰にあるにせよ、自分にも必ず火の粉が振りかかってくるからだ。担任という立場上、責任から逃れるのは許されざる行為だし、自分もそれは重々承知している。ならば火の粉は少ない方が身のためだろうと努力するのは間違ってないはずだ。


しかし、当事者である雨宮が口を開かない以上、進展は一つも見られない。まるで自分の努力が空回りしているようにさえ感じてしまう。


再び訪れる静寂。しかしそれを破ったのは、高橋でも雨宮でもなかった。


「失礼しまーす」


突然開け放たれた扉と覇気のない声に、雨宮は顔を上げ、高橋は振り返った。


現れたのは、高橋の教え子であり雨宮のクラスメイトである吉田結城よしだゆうきだった。肩を越えるほどの長い髪は金色に染め上げられていて、上下黒のジャージにはワンポイントで白い髑髏どくろが描かれている。端から見ても、どこをどう良く評価したところで街に根を張る不良にしか思えない風貌ふうぼうだ。


「よ、吉田君?今日は休みじゃなかったの?それにその格好・・・」


「あぁ。午前中に用事あったから。今は来賓ってことで一つよろしくー」


まるで目上をうやまう気のない口振りで、吉田は遠慮なく教育指導室に入り雨宮の隣に腰を下ろした。かすかに浮かべている笑みはどこか威圧的で、高橋はわずかにたじろいでしまう。典型的に苦手なタイプなのだ。


「い、今大事な話の途中なんだ。五十嵐先生に入室を止められなかったの?」


万が一雨宮が何かをしようとした時や、他の生徒が指導室に入ろうとした時のために、部屋の外では五十嵐が待機している手筈だった。ではなぜ彼が入室出来たのか、高橋は首を傾げた。


「私が許可しましたよ」


穏やかな声と共に再び扉が開かれ、五十嵐が顔を出した。彼は涼しげな笑顔を浮かべてそっと入口近くの壁に寄りかかる。長身で穏和そうな風体が、高橋の焦りを一層膨らませた。


「いや、許可しましたって言われても。・・・参ったな」


「今日はこのぐらいにしておきませんか?雨宮君も話す気はないみたいですし。とりあえず自宅謹慎という形で、校長先生には私から伝えておきますから」


「あ、ありがとうございます。五十嵐先生」


五十嵐の言葉に礼を言ったのは、意外にも吉田だった。高橋に見せた憮然ぶぜんとした態度とは違い、敬語を述べて頭まで下げている。その豹変ぶりに高橋は少しむっとしたが、この場にどんな妥協案であれ決着が着くのは自分にとっても望ましいことだ。高橋は五十嵐に向かって頷くことで、同意の意思を示した。


「じゃ、雨宮君。今日のところは帰宅して構いませんよ。処分が決定したら、追って連絡しますから」


五十嵐は穏やかに言うと、扉を開けて二人を退室するよう促した。それが高橋には、どこか突き放すような冷たさを感じた。言葉では優しさを取り繕っていても、やはり今回の行動には彼も腹を立てているのだろうか。


「・・・し、失礼しました」


吉田もその気配を察したのだろう。少し萎縮した態度で五十嵐に頭を下げると、雨宮を促してから教室を後にしようとした。雨宮は無言で立ち上がり、無表情のまま吉田の後に続こうとする。


雨宮が立ち上がることで、高橋は再び先ほどの惨状を鮮明に思い出してしまった。ところどころ血の染み付いたシャツは、どれだけ相手が怪我を負った証拠で、赤く染まる拳は、彼がどれだけ暴力を振るったかの証明で、感情の映らない彼の瞳に、高橋は再び戦慄した。


「・・・雨宮君」


吉田が退室し、続いて雨宮が部屋を後にしようとした時、彼を呼び止めたのは五十嵐だった。さっきとは違い、笑みを浮かべていない突き刺すような瞳が、振り返った雨宮の瞳を厳しく見据える。


「・・・自分が何をしたのか、自覚はしていますか?」


「・・・・・・」


五十嵐の問いに、雨宮は口を開かなかった。ただ目の前で睨み付けてくる男の瞳を、感情もなく見返している。


「・・・退学は、覚悟しておいた方がいいですよ。吉田君が待っているから、もう行きなさい。あ、病院に行くのも忘れないように」


ため息混じりの五十嵐の言葉に、雨宮は何の反応も示さずに部屋を後にした。高橋はかすかに残る張りつめた空気の中、言葉を出さずに五十嵐の出方をうかがった。


結局、雨宮咲月はこの部屋を訪れてから、一度も口を開くことはなかった。


「・・・なかなかどうして、あんな表情が出来るんですかね」


誰に言うでもなく小さく呟いた五十嵐は表情を崩し、いつもの穏やかな笑みで先ほどまで雨宮が腰を落ち着けていた高橋の向かい側に腰を下ろした。ようやく高橋も、空気が元に戻ったような気がしたので安堵のため息を漏らす。


「何で吉田君は、五十嵐先生の前では態度が違うんですかね」


すぐには本題に入らず、高橋は気になったことを口にした。五十嵐と吉田には、同じ学校に所属する以外に接点がないはずだ。あくまでも、自分の知っている範囲では。


「あぁ、彼のお兄さんが私の後輩なんですよ。それよりも・・・」


五十嵐は簡単に質問に答えると、大きなため息を吐いて背もたれに身を預けた。何もない天井を見つめ、何かを思案しているようだ。


「・・・どうすれば、いいんですかね」


高橋はそう呟くとテーブルに突っ伏して、五十嵐に続き大きなため息を吐いた。わずかに顔を上げ、助けを乞うような視線を五十嵐に向ける。


「・・・難しいところですね。ただの喧嘩で済むなら謹慎処分や、いっても停学ぐらいで済むのですが」


「やっぱりここまで来ると、警察沙汰にもなってしまいますよね・・・」


「最悪、そうなってしまいますね。生徒三人が病院送りですし、原因や動機が分からない以上、こちら側では対処に限界がありますから」


「・・・はぁ。何でこんなことになっちゃったんだろう」


どんなに考えても、ため息ばかりが漏れてしまう。高橋は体を起こして投げ出すように、今度は背もたれに深く寄りかかった。


あくまで主観だが、高橋から見れば雨宮咲月はいわゆる問題児には該当しなかった。成績は良好。人当たりは良いとは言えないが、出席態度も問題はない。問題があるとすれば彼と仲の良い吉田結城の方だ。成績は驚くほど優秀ではあるが、金髪やピアスなど校則違反の模範を突き進んでいるし、バイクを乗り回しては素行の悪い連中とつるみ、最近ではライブハウスにも通い詰めているらしい。教師の立場から見ても、関わってろくなことがないのは一目瞭然である。


しかし、今回騒動を引き起こしたのは、紛れもない雨宮咲月だ。彼が目の前で、クラスメイトに際限なく暴行を繰り返していたのだ。


そう。あれは喧嘩の域ではない。暴行。または、傷害。


「・・・ん?」


高橋は何かが引っ掛かり、眉を寄せて向かいに腰掛けている五十嵐に視線を向けた。彼は高橋に見られていることに気付き、かすかに首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「いや、何で雨宮君と吉田君は仲が良いのかと思いまして・・・」


思い返せば雨宮と吉田は全てにおいて対極といっても過言ではない。火と水のような組み合わせだ。なぜ今まで疑問に思わなかったのか、自分でも不思議だった。


「たしか、昔からの知り合いって聞いてますが。高橋先生、知らなかったんですか?」


「・・・はぁ。そうなんですか」


不思議そうに首を傾げる五十嵐に、高橋はバツが悪そうに視線を反らした。


こんなことを他の教師に言えるわけはないが、高橋にとって生徒のプライベートなど知ったことではない。あくまで教師というものは自分にとっては仕事、ビジネスである。むろん、社会人として職務は全うしているつもりだ。だが、生徒の問題はあくまで生徒個人の問題であり、自分の職務にアフターケアなど含まれていない。


その時、高橋の曖昧な返事のあとに生まれた一瞬の沈黙を破るように、部屋の扉が豪快に開かれた。弾かれるように視線を移すと、そこには教育指導の田中がすごい形相で仁王立ちしている。過去の記憶と現在の状況を照らし合わせて、彼が表情を歪める理由に高橋は思い至った。


「田中先生!あ、いや、これは・・・」


「・・・帰したのか?」


高橋は立ち上がり状況の説明を試みたが、田中の呟くようなたった一言で一蹴されてしまった。突き刺すような眼光と威圧的な言葉の発し方が、高橋に次の言葉を呑み込ませる。


「勝手な判断ですいません。私が帰宅を許可しました」


助け船を出すように、二の句がつげない高橋の代わりに五十嵐が答えた。その発言だけで田中の表情が更に二割険しくなる。間に立っている高橋にとっては、助け船でも状況が改善されたとは言い切れなかった。


「俺が帰ってくるまで待ってろと言わなかったか?」


「何も喋る気はなかったみたいですし、彼も怪我をしていましたから病院に行くよう伝えました」


「・・・処分が決定するまでは」


「自宅謹慎するよう言っておきました。状況を保護者に電話でお伝えしたあとに、処分が決定し次第、再度連絡を入れるつもりです」


「・・・なら問題はない、か」


ようやく落ち着いたらしい田中は二人に座るように促すと、高橋の隣に腰を下ろした。彼の恵まれた体格が自然と幅をとってしまうため、高橋にとっては窮屈で仕方がなかった。


「それで、被害を受けた生徒は大丈夫でしたか?」


五十嵐の言葉に、田中は険しい表情を浮かべた。救急車が到着して怪我人を搬送した時に付き添ったのが田中だったからだ。


「相川と徳井の怪我は大したことはなかったんだが、高田の怪我がな・・・」


田中の言葉を聞き、そのグループかと高橋は内心で舌打ちした。顔を確認出来なかったのではっきりと誰かは判別出来なかったが、おそらくそうではないかと考えていたからだ。


高田、相川、徳井はいわゆる高校デビューというタイプの三人組だった。中学までは普通の学園生活を送っていたが、何かの影響で外見や態度が一変、はたから見れば不良や問題時というカテゴリに分類されることを選んだ若者だ。


しかし、しょせんは紛い物である。外見と態度が横柄なだけで、問題はたまに起こすがあくまで保身を前提とした趣向である。喧嘩などはしないし、ましてや本物の不良の前では随分と大人しい。純粋に方々から危険物扱いされている吉田に近づかないのが、何よりの証拠だ。


「では、その二人から経緯は聞けたのですか?」


「いや、相川と徳井は理由も分からず始まった喧嘩を止めにいってやられたらしいから、詳しいことは何も知らないらしい」


「た、高田君の容態は?」


「あぁ。鼻と頬の骨が折れているから、すぐに話せるというわけでもないな。ま、骨が折れるほど殴ったのなら、雨宮の拳も無事では済まないと思うが、まったく・・・」


「収穫は、なしですか・・・」


ため息まじりに呟いた五十嵐に、田中は小さく頷いた。


重苦しい空気の中、その沈黙を破るように立ち上がったのは田中だった。彼は気持ちを切り替えるように大きく深呼吸をして、大きな手のひらをテーブルに叩きつけた。


「ここで悩んでいても仕方がない。職員会議は三十分後にやるから、お前らも遅れるなよ」


そう言い残すと、体に似合わず機敏な動作で田中は部屋を後にした。残された二人は一瞬唖然としてしまったが、払拭した嫌な空気に再び捕らわれないように、同時に立ち上がった。


「まぁ、私達だけで頭を抱えていても何の解決にもなりませんしね」


五十嵐はそう呟きながら高橋の横を通り、部屋の扉を開け放った。どうやら高橋が退室するのを待っているようだ。


「・・・そうですよね。あ、すいません」


高橋は部屋を出ると、あちこちがきしむほど大きく伸びをした。雨宮を指導室に招き入れてから、ゆうに三時間は経過していた。長い呪縛から解き放たれたような気分で、そろそろ最後の授業が終わるであろう廊下は、どこか浮き足立っているようにも見える。


「・・・高橋先生」


背後からの声に高橋が振り返ると、五十嵐は指導室の扉を閉めてゆっくりと体の向きを変え、真摯な眼差しを高橋に向けた。


「もし・・・、雨宮君が退学処分になったら、高橋先生はどうしますか?」


「・・・え?」


五十嵐の質問の意味が、高橋には咄嗟に理解出来なかった。たとえ理解したところで、望まれた解答を導き出すことは出来なかった。


決定は決定だ。どうする気もないし、どうすることも出来ない。


「どうすると言われても、その・・・」


困惑しながらしどろもどろに答えようとする高橋に、五十嵐は申し訳なさそうに表情を綻ばせた。


「あぁ、困らせるつもりで言ったわけではないんですよ」


柔らかい声音で囁くように、五十嵐は歩を進めながら続ける。


「私や田中先生は、正直、何も出来ません。でも、担任である高橋先生なら、何か出来るかもしれません。ただ、そう思った。それだけですよ」


そう微笑んだ五十嵐は高橋の肩をそっと叩いて、だんだんと遠ざかっていった。取り残された高橋は大きなため息を吐き、天井を仰いで先ほど五十嵐が囁いた言葉を反芻はんすうする。


(・・・どうしろって、いうんだよ)


雨宮咲月を、最低限の良心から、助けたくないとは言わない。だが、自分ごときが助けられるとも思えない。抗う勇気や立ち向かう度胸がないことは、自分が一番よく知っている。


空転する思考を掻き消すように再び大きくため息を吐いて、高橋は五十嵐に続いて長い廊下を歩き始めた。

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