一章

第1話

不意に夜空を見上げると、一片の欠けもなく満ちた月が、漆黒に近い空の中に静かに鎮座ちんざしていた。その光源のせいか、深夜と呼ぶにふさわしい時間帯のはずなのに、視界には空全体がかすかに光を内包しているように映る。手をかざして遠い満月をさえぎれば、星屑ほしくずがまんべんなくちりばめられそうな気がした。


無意識に夜空を見上げる行為。それは雨宮咲月あまみやさつきにとって、習慣というより既に癖となっていた。夜道を歩いている時、気付かぬうちに気付いたようにふと見上げてしまう。食事や睡眠のような日常の行動。咲月にとって、その行為はそれらとあまり大差はなかった。


普段の仕事では着ることのない、堅苦しいスーツの襟をゆるめて小さく深呼吸をする。昼間に雨が降っていたせいか、雨露あめつゆにまみれた空気は冷たく咲月の肺を満たしていった。煙草を吸おうかと一瞬考えてポケットに手を入れたが、もう家はすぐそこなので諦めることにした。


(・・・?)


満月を眺めていた視線を不意に落とすと、自分の住む年季を感じさせるアパートがすぐ目の前にあった。しかし咲月が疑問に感じたのはその見慣れた点ではなく、二階の一番奥の自分の部屋に明かりが点いていることだった。瞬時に朝の記憶をたどってみたが、電気を消し忘れたなんてことはない。


その時、思考をさえぎるようにジャケットの胸ポケットが振動を始めた。取り出した携帯の画面に目を落とすと、そこには新藤歩しんどうあゆみという名前と十一桁の番号が表示されていた。咲月はその場で立ち止まり、明かりの点いた部屋を見上げながら携帯を耳に当てる。


「もしもし?」


『あ、咲月。お疲れ様。もう仕事終わったの?』


受話器の向こうから、聞きなれた可愛らしい声が耳を伝う。


「あぁ。もう家に着くけど、お前、居る?」


『え?嘘?』


慌てた声が耳をかすめた瞬間、咲月が視線を送る自分の部屋の窓が豪快に開け放たれた。咲月からは部屋の明かりが逆光になっていてシルエットしか見えないが、歩はどうやら窓から少し身を乗り出して手を振っていることがうかがえる。

咲月は影に向かって小さく微笑んで携帯をしまい、すぐそこのアパートまで再び歩を進めだした。


コンクリートの階段を上り、短い廊下の突き当たりの扉を開く。広くもない部屋の中で、窓の外を眺めていた歩は振り返って微笑んだ。


「お帰り。ん?どうしたの?スーツなんか着て・・・」


肩まで伸ばした栗色の髪を揺らしながら、歩は目を見開いて首をかしげた。彼女は薄い青色のデニムに黒のTシャツ。その上に薄手の白いカーディガンを羽織っている。


「ただいま。まぁ、内装工事の打ち合わせとか色々あったからさ。・・・んー!!」


咲月はそう言いながらジャケットを脱いでハンガーで壁際にかけ、ポケットから取り出したあらゆるものを部屋の中央のテーブルに置いていく。ようやく我が家にたどり着いた安心感からか、咲月は大きく伸びをした。


「そうなんだ。お疲れ様。内装って、大分話進んでるんだね。いつ頃お店出来そうなの?」


歩は疑問を投げかけながら、勝手知ったる様子で冷蔵庫を開け、咲月にペットボトルのお茶を取り出して手渡した。


「んー・・・。店舗の契約も完了してないし、まだまだ先かなぁ」


咲月はテーブルの前に腰を下ろし、渡されたお茶に口をつけた。少し苦い冷えた液体が喉を通り、ふぅと自然と息がもれる。


「そうなんだ。でも、・・・あと少しなんだね」


テーブルの向かいに腰を下ろした歩は小さく微笑んで自分のお茶に口をつけた。そしてそっと、部屋の隅に視線を向けた。その瞳は、どこか遠くを見ているようで、少し寂しそうだった。つられて咲月も、視線を向ける。


窓の横の部屋の隅には、白いライダース調のジャケットが壁際にかけられていて、その下の小さなテーブルには、一枚の写真立てが飾られていた。


写真を見つめながら静かに微笑んだ歩の頬に、小さな雫が伝った。咲月も目頭が熱くなったが、小さく息を吐いてそれを我慢した。


「・・・明日はみんな顔を出すって言ってたから。夏海なつみもきっと、喜ぶよ」


「うん。・・・うん」


歩は何度も頷いて、濡れた頬をそっと手で拭った。鼻をすすり、もう一度写真立てに笑みを向ける。


何度年を重ねても、幾度四季を越えても、目を瞑れば思い出せる。彼女との追憶。それは咲月や歩の中では決して褪せることはなく、これ以上ないほど鮮明だった。


写真立てに飾られていたのは、かすかに幼さを残す歩に似た女性の写真だった。栗色の髪は陽光で天使の輪をえがき、眩しいほどの笑顔を二人に向けていた。

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