第5話

日本に戻ってきた花は、流石に、何も出来なかった。毎日、ぼんやりとするだけ。それでも、音だけは容赦なく降ってくる。最近では「いつまで、降ってくるのだろう」と思うことがある。決して、嫌ではないが、音の神様、意地になっているんじゃないかと思ってしまう。

10日ほどはそんな状態が続いたが、気が付いたら作業が始まっていた。父には「貧乏性」だと言われ、納得してしまう。今回の母のデザインも気に入っていた。キャサリンも「いいね」と言ってくれた。

毎日、曲作りの作業が続く。自分でも「よく飽きないね」と思うが、楽しい。いや、かなり、楽しい。一曲が完成した時の達成感という麻薬を、何度も飲みたいと思ってしまう。「もう、病気かも」と思いながら、つい、笑ってしまう。

アルバム発売日から2週間ほどして、キャサリンから連絡があった。

「バカ売れよ」

「よかった」

「イギリスだけじゃない。いろんな国で話題になってる。これだと、来年のコンサートは飛行機で飛び回ることになるかもしれない」

「脅かさないでくださいよ」

「喜びなさいよ。うちの偉いさんも文句言わなくなったし、続けられそうよ」

「うーん」

「大丈夫。私、花のこと守るから」

「ありがとうございます」

「サブスクのこと、どうする。まだ、解禁しないの」

「もう少し、このままでいいでしょうか」

「何か事情があるの」

「いや、そうではありませんが」

「うちはCDの形で売れるほうがいいけど、もう、そんな時代じゃないし、花は世界を顧客にしたほうがメリットあると思うけどな。特に、多くの曲を多くの人に聴いてもらいたいと思っている花が、躊躇する意味がわからない」

「歌手としてのプレッシャー強くなりません」

「もう、今でも、プレッシャーきついじゃない」

「はあ」

「別に急がないけど、考えておいて」

「はい」

書き貯めたフレーズは300を越え、曲として完成させたものも約150曲になった。自分でも、よく頑張ったと思っている。ただ、終わりは見えていない。作曲に専念している期間は9カ月もあるのに、日常の変化は乏しい。百年一日のような作業が続くだけだった。ただ、花はその時間が好きだった。時間は飛ぶように過ぎていく。

そして、また、コンサートの時期が来た。

せっかちなキャサリンが空港にまで迎えに来るということは、何か難しいことをさせるためなのだろうと推測していた。

「キャサリンさん」

「えっ、花」

「どうしたんです」

「見違えちゃった」

「ああ、これですか。髪型変えたんです」

キャサリンが、ここまで驚いてくれるとは思わなかった。

「あなた、きれい」

「えっ、そっちですか」

成田空港で雪乃に会った時も、驚かれた。「別人みたい」と言われた。

「こうすると、顔、隠せますよね」

後ろで束ねているゴムを外し、髪をほぐして前に持ってくると、顔が半分隠れ、印象が変わる。顔が少し大人びてきたこともあって、以前の花ではないように見える。

「どうです。これだと、わかりませんよね」

「そうね。驚いたわ。いや、前から綺麗な子だとは思っていたけど、ここまで、とは思っていなかった。驚いた。一年会わないと、ここまで変わるんだ。若い娘は凄いね」

「雪乃さん、キャサリンさんに褒められました」

服装は、相変わらず、中学生みたいな服装だが、体型は既に大人の体型になっている。雰囲気は、もう、昔の花ではなかった。

「で、何か、又、難しい話ですか」

「あら、どうして」

「顔に書いてありますよ」

「何、言ってるの」

「車、借りてきてくれました」

「ああ、借りてきた」

「じゃあ、車で、その難しい話聞きますよ」

「もう」

運転は雪乃に任せて、後部座席でキャサリンの話を聞いた。

「あなた、英語は話せるようになったけど、他の言葉は、どう」

「日本語と、英語が少し、それだけです」

「今回、オランダでもコンサートしたいの。で、オランダ語の歌が歌えないかな、と思って」

「今から、ですか」

「そう」

「無理なんじゃないですか。オランダ語の単語なんて1つも知りませんよ」

「Ken je mij」

「ああ、それなら、聴いたことあります」

「アンコールで、それを、歌って欲しいの」

「それは」

「今年はオランダだけど、この先、いろんな国の歌を歌って欲しい。全部、その国の言葉で歌えと言ってるのじゃなくて、1曲だけ、相手の国をリスペクトするという意味で」

「わあー、大変」

「イギリスだけとか英語だけという取り決めはしてないよね」

「まあ、そうですが」

「だから、今から、交渉したいの」

アルファベットで出来ている言葉と平仮名と漢字で出来ている言葉を同一視して欲しくないが、そんなことは理解できないのだと思う。

「今回のコンサートは、オランダの一回でいいということですか」

「えっ」

「一曲覚えるのに、3カ月くらいかかりますよ」

「まさか」

「その、まさかです」

「それは、ちょっと」

「だって、私は、何年もかかって、この程度の英語しか話せないんですよ。3カ月で一曲マスター出来れば褒めてもらいたいくらいです」

「それは、いくらなんでも」

「平仮名と漢字の言葉を使っている私達が、アルファベットの言葉を使うのはハードル高いんです。そこは、理解して欲しいです」

「うーん、それじゃ、努力目標ということで、どうかしら」

「努力しろってことですか」

「ん。まあ」

「2年後のオランダ公演で歌えるように努力しろ、と言うのであれば頑張ってみますが、今年、何とかしろというのは無理です」

「わかった。諦める」

「オランダ公演を、ですか」

「いやいや、オランダ語で歌うことを諦める」

「オランダには、行くんですね」

「行きます」

「全部で、何公演ですか」

「10」

「体力、大丈夫かな」

「3カ月で20公演する人だっているよ」

市内の花のアパートに来た。留守の間は、時々、ローレンが掃除をしてくれているので、いつ来ても使えるようになっている。

コンサートのスケジュールについて話を聞いた。

「チケットは」

「発売、即、完売。数時間だったそうよ」

「よかったです。SNSは、まだ、賑やかですか」

「いや、もう、収まった」

「よかった」

「明日、10時に、コンサート内容をスティーブと打ち合わせて」

「はい。ところで、ヘレンは」

「まだ、暗礁に乗り上げたまま」

「そうですか。ヘレン、大丈夫ですか」

「少し、時間をかけて説得すると言ってた。作詞はいつでもすると言ってる」

「よかったです」

キャサリンに話すべきかどうか迷っていたが、オランダ公演を決めたということは、アメリカ公演が決まるのも時間の問題なのだろう。

「先程、キャサリンさんは、コンサートはイギリスだけとは決まっていない、と言いましたよね。オランダの後は、フランスとかスウェーデンとか出てくるんですよね」

「そうなるわね」

「アメリカ公演だけはしない、という取り決めをしてくれませんか」

「どうして。アメリカを外すなんてあり得ないでしょう」

「そこを、お願いしたいんです」

「サブスクの件も、アメリカが原因なの」

「はい」

「アメリカには行きたくない」

「はい」

「理由を教えてもらってもいいかな」

「言いたくありません」

「それでは交渉にならない」

「誰にも言わない、推測されるような発言もしない、という誓約書を書いてくれますか」

「書く」

「普通、秘密はどこから漏れたのか特定が難しいものですよね」

「そうね」

「特定できないとしても、漏れた場合は、漏らしたのはキャサリンさんだとする、という内容でいいですか」

「それは、ひどくない」

「はい。ひどいと思います」

「わかった」

「で、ペナルティーですが、25万ポンドでどうでしょう」

「25万」

「はい」

「私、払えない」

「分割でいいです」

「どうして、そこまで」

「私、まだ、死にたくありません」

「えっ、殺される」

「そうと決まったわけではありませんが、その危険があるという意味です」

「花がそこまで言うということは、軽々しく約束はできないということね」

「はい」

「少し、考える」

「お願いします。キャサリンさんが個人的にリスクを取る必要はないと思います」

翌日、音楽社でスティーブと打ち合わせをした。

顔を隠す必要がないので、髪を後ろで束ねた。

「花」

「お久しぶりです」

「驚いたな。2年で別人だ。歌の上手な可愛い女の娘だとは思っていたけど、ここまで変わるとは」

「どうも」

「10代の女の子が変わるのは何度も見てきたけど、ここまで綺麗になった娘に会ったのは初めてだよ。いや、驚いた」

「ありがとうございます」

「化粧はしてないよね」

「はい」

「今回の演出プラン、変更だな。化粧はしない、衣装は変えないという約束だったけど、この約束、変えてもいいかな」

「駄目です」

「じゃあ、1つだけ。化粧はする必要ない。でも、衣装は変えてもらいたい。もちろん、どんな衣装にするのかは、君が選んでくれ。気に入る衣装が無ければ、何度でも提案する。衣装だけは譲歩してもらいたい」

「それは」

「無理なら、演出家を変えるように言ってくれ。いや、私から降りると言ってもいい。花は、今着ている服で歌うつもりだろ。それでは、私の演出家としてのプライドが許さない。そんなことは、私にはできない」

「・・・」

「演出家の仕事は、お客さんに最高の美と最大の感動を届けるのが仕事だ。それができないのなら、演出する意味がない。美しいものはより美しく、感動は可能な限りお客の心の奥底に届ける。それを否定されたら、私は必要ないと言われているのと同じなんだ」

「スティーブさんは、私に歌手を辞めろと言ってるんですか」

「いや、そうは言っていない。私を辞めさせろ、と言ってる」

「無茶言わないでください。そんなこと、私にはできません」

「なら、私は、この仕事から降りる」

スティーブは立ち上がった。

「もし、気が変わったら連絡してくれ」

部屋を出ていってしまった。

「雪乃さん、どうしましょう」

「私には、花さんがやりたいようにやってください、としか言えません」

「じゃあ、雪乃さんなら、どうします」

「私は、花さんではありませんので、答えられません」

「もう」

「とりあえず、帰りましょうか」

「わかった」

部屋に帰り着く前にキャサリンから電話が来た。

「今、どこ」

「部屋に戻る途中です」

「今から、行っていい」

「明日ではいけませんか」

「んんんん、できれば、今がいい」

「わかりました」

花は、部屋に戻ってから東京へ電話をした。

「ごめんなさい。仕事中ですか」

「いいよ」

スティーブとの経緯を話して、「どうすればいい」と聞いた。

「花は、どうしたい」

「それが分からないから、電話してるの」

「確かに。結論から言うけど、私は、衣装を変えることをお勧めする。花だって、いつまでも言い分が通るとは思っていないよね。以前も言ったけど、仕事は交渉の連続なんだ。これを譲歩したら何を得られて、譲歩しなかったら何を失うのか、その大きさの比較だと思う。もっと言えば、得られるものを最大にするためには、どうすればいいのか。衣装を変えて得られるものがあるのなら、それを選択する。化粧も衣装も、言ってみれば花のこだわりなんだろう。花が気持ちを切り替えれば済む話だと思う。百年同じなんてことはない。私は、そう思う。それに、最悪の場合は、基本契約を破棄すればいい。音楽業界での仕事は難しくなるかもしれないが、花の曲が素晴らしければ、道はあると思う」

「わかった。ありがとう」

キャサリンが勢いよく部屋に入ってきた。

「経緯を教えて。どうして、こんなことになってるの」

「スティーブさんが、衣装を変えなきゃ演出しないと言い出したの。わけ、わかりません。化粧と衣装は約束事でしたよね」

「そうだけど、何も喧嘩することはないんじゃない」

「私は喧嘩してません。スティーブさんが、勝手に怒っているだけです」

「それにしても」

「私が、悪いんですか」

「そうは、言ってない。でも、私達、あなたもスティーブもチームの一員でしょ。コンサートを成功させることが、私達の目標なのに、二人が喧嘩したんじゃ、台無しじゃない。話し合いましょうよ」

「席を立って出ていったのは彼のほうです」

「スティーブには、私から言って話し合いに戻ってもらう。だから、花も、そうして欲しい」

「でも、どうやって合意するんです。スティーブが折れる可能性なんて、あるんですか」

「だから、それを話し合うのよ」

「難しいと思いますけど」

「花は、衣装を変えることは、どうしても納得できないの。私がスティーブだったとしても、同じ提案をしたと思う。あなたの美しさを最大化するのは、彼の仕事だから、強く言いたくなる気持ちはわかる」

「スティーブさんは、演出家のプライドだと言ってましたが、衣装を変えないことは、私のプライドでもあるんです。それなのに、私が折れるしかないんですか」

「そうは言ってない。でも、何とかしないと、このコンサートは失敗する。それだけは避けたい。どうすれば、花は、譲歩してくれるの」

「私に、折れろ、と言うんですか」

「コンサートを成功させるためには、そうするしかないと思う。スティーブだって、失敗させたいわけじゃないと思う。いや、成功させたいから、無理言っているのだと思う」

「どんな条件でも受け入れてくれるんですか」

「うーん、検討してみる」

「検討ですか。じゃあ、前回と同じ演出でやってみませんか。失敗すると決まってるわけじゃありませんよね。私、頑張って、歌いますから」

「わかった。条件、受け入れる」

「いいんですか」

「いい」

「わかりました。衣装に関してはスティーブさんの提案を受け入れます。その代わりに、アメリカ公演はやらないという条件を受け入れてください」

「そっち」

「はい」

「わかった。上と話してみる」

「キャサリンさん、私、納得してるわけじゃありません。でも、チケットは売ってしまったし、今更、コンサートを失敗させるわけにはいかない、ということは私にもわかっています。でも、納得はしていませんから」

「ありがとう」

「書面にしてくれますよね」

「うん」

キャサリンは、深刻な表情で帰って行った。

「花さん、強いですね」

「まさか。ただの世間知らずの小娘にすぎないだけだと思います。雪乃さんは、同じようなことはしないでくださいね」

「したくても、私にはできないと思います」

「私、ほんと、いい娘じゃありませんね。大人を振り回して、何が楽しいんだと言われるんでしょうね」

「そんな人がいてもいいと思います。自分ではできませんので、無責任ですけど、私は、花さんのこと応援したいです」

「私、きっと、報いを受けることになりますよ」

「さあ、どうでしょう」

翌日、キャサリンが誓約書を持って、花の部屋に来た。

「このことは、一部の人間しか知らない。花も、言わないで欲しい」

「わかりました」

「明日、あらためて、スティーブと打ち合わせして」

「はい」

翌日、スティーブとの打ち合わせに行った。

「受け入れてくれて、ありがとう」

「いえ」

「キャサリンは、どんな魔法を使ったんだ」

「それは、内緒です」

「ま、いい。成功させようじゃないか」

「はい」

花は、何種類かのロングドレスを選んだ。ドレスなんて着たことがないから、どんな姿になるか想像もつかない。そもそも、昔から、着る物に関心がなかった。小学校でも、中学校でも、女の子の話題についていけなかった。着るものにもアクセサリーにも興味は湧かなかったのは、女の娘としては変わり者だったのだろう。小学校では空手のことしか考えていなかったし、中学の時は音楽のことしか考えられなかった。

リハーサルを繰り返した。

採寸をし、仮縫いをし、衣装の試着もした。鏡に映った自分は自分ではないように感じ、落ち着かない。歩き方を指導してくれる人も来て、歌うこと以外でも多忙を極めた。それでも、できるだけ踵の低い靴を選んだ。

何度も練習しているうちに、慣れてきて、何とか合格点を貰えた。

スティーブの演出は厳しいが、日毎にレベルが上がっていく感触がある。きっと、スティーブは、演出家として才能があるのだろう。本人も自信を持っているようだ。

そして、ロンドンの大きな会場で、コンサート初日が始まった。

会場が暗転し、ステージの中央に立っている花にスポットライトが当たる。

会場は、どよめいた。

左右にある巨大なスクリーンには、花の姿が大写しになっている。

会場は、1曲目から、異様な空気になった。

スティーブの演出は、会場をハナ・ワールド一色に染め、観客の心を掴んだ。

アンコール曲が終わっても立ち去る観客がいない。

コンサートは大成功だった。

その成功には、花の歌だけではなく、花の美しさと衣装が影響しているのは誰の目にもわかった。それは、花の成功だけではなく、スティーブの成功であり、楽団を含むすべてのチームの成功でもあった。

コンサートのVTR発売も予定されていて、音楽社の上層部も喜んでいるらしい。

そんな中で、キャサリンの表情だけは暗かった。

アメリカ公演を生贄に差し出したキャサリンが喜べないのは理解できる。でも、花は、交渉は成功したと思っている。

その後の会場でも、コンサートは成功し、オランダ公演も高評価を得られた。

それだけではなく、雪乃が指導した女子がジュニア選手権で優勝したという嬉しいニュースもあった。

花の2回目のコンサートは成功裏に終わり、花は、日本に戻った。

アメリカ公演がなくなったことを受け、サブスクを解禁したので、日本でも、花の曲に対する評価が高まり、コンサートVTR発売後は、日本の音楽業界でも認知されるようになった。ただ、契約しているのはイギリスの音楽社だったので、オファーはイギリスに出すしかなく、花に直接接触してくる会社はなかった。日本で唯一接触のあった音楽社の増田も、電話はあったが、仕事として接触してくることはなかった。


コンサートから半年後、キャサリンから電話が来た。

「ついに、ヘレンが歌手デビューすることになった。花の曲を使いたいのだけど、どうする」

「ヘレンには、何曲も預けてありますので、どの曲を使ってくれてもいいです」

「わかった。そう言っとく。それとね、ITVがヘレンの特番を作ってくれるの。花に友情出演してもらえないかと言ってる」

「サラさんですか」

「サラは直接担当しないけど、頼んできたのはサラ。どうする」

「キャサリンさんは、どうなんです」

「私としても、出演してくれたら嬉しい」

「わかりました。ヘレンのためですから、時間の前借りをしましょう」

「助かる。スケジュールが決まったら、また、連絡する」

「はい」

ただ、自分の中で何かが変化していることを、薄っすらと感じていた。曲作り作業が進まない。これまでは、寸暇を惜しんで、ただひたすら、曲作りをしてきた。毎日が充実していると感じていた。しかし、ぼんやりした状態で一日が終わることもある。全速力で走り続けてきて、疲れたのだろうか。二足の草鞋が無茶だったのか。自分自身が薄い霧の中で途方に暮れているように感じることもある。

強気だけで突き進んできたが、そんな強気に限界がきているのかもしれない。音の神様は、全曲を世に出せと言っているのだろうか、と考えてしまうこともある。もう、使命は果たしたんじゃないだろうか。

こんなこと、誰にも相談できない。自分の問題なのだから、自分が解決するしか方法がないのだろうということも理解している。

これまで、一直線に走って来たので、気分転換する方法も知らない。

行き詰っている。

しかし、何に行き詰っているのかが理解できていない。

答のない毎日が過ぎていく。

次第に、そのことが膨らんできている。

ふと、雪乃の顔を思い出した。アメリカでの最初の音楽活動の時から、今まで、常に花と同じ現場にいたのは雪乃だった。年長者であり、数々の経験をし、それを乗り越えて、今の雪乃があるとすれば、助けを求める相手は雪乃ではないかと思った。たとえ、解決策はないとしても、雪乃に相談してみる価値はあるんじゃないだろうか。

雪乃にメールを送った。

すぐに返事があった。

相談したいことがあるので手隙の時間を教えて欲しいと頼んだ。

電話が来た。

「どうしたんです」

「少し、時間を貰えませんか」

「いいよ。今は、この二日間は仕事がない。それで出来る仕事なら言ってください。何でもやりますから」

「どこかで、会えませんか」

「いいですよ。行きたい場所ありますか」

「いえ、特には」

「込み入った話ですか」

「そうかもしれませんし、そうではないのかもしれません」

「それって込み入った話ですよね。だったら、私の部屋に来ますか」

「いいんですか」

「もちろんです。地図送ります。花さんが時間指定をしてください」

「ありがとうございます」

「ただ、おもてなしはできませんけど、いいですか」

「はい」

2時間後に訪問することを告げ、石屋で手土産を買って雪乃の部屋へ向かった。

雪乃の部屋は、普通の街の普通のマンションの普通の部屋だった。

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

「元気、ないようですね」

「ありません」

お茶を入れてもらい、二人で和菓子を食べた。

「どうしました」

「困ってます」

「そう見えます」

「今日は、仕事じゃありません。長い付き合いの友人という関係でいいでしょうか」

「問題ありません」

「仕事の時は、雪乃さんの丁寧語は有難いと思っていますが、今日は、仕事ではないのでタメ語でお願いできませんか。私より、ずっと年長なんですし、雪乃さんが丁寧語だと話しづらいです」

「ごめんなさい。それはできません」

「どうして」

「花さんは、私の最重要顧客なんです。仮に、今日がプライベートな相談だとしても、私にはできません」

「そうですか。じゃあ、いつも通りで」

「気を使ってもらってありがとうございます。花さんの気持ちはわかっているつもりです。こんな顧客は滅多にいないもんなんです」

「わかりました。かえって、気を使わせてしまいました」

「で、どうしました。元気がないことと関係してます」

「はい」

「聞きますよ」

「日本に戻って来てから、曲作りができなくなりました。全然できないわけではなく、これまでのような作業量がこなせないんです。ぼんやりすることが増えました。何となくですが、行き詰っているな、という感触があります。そのことが、最近、負担になり始めました。音楽の世界から離れたいという気持ちも、ほんの少しですが、あります。こんなこと、初めてです。雪乃さんに聞くのも変ですが、私、どうしてしまったのでしょう、と聞きたいのです。変な話で、ごめんなさい」

「そうですか」

「雪乃さん、笑ってる場合じゃありません」

「あっ、ごめんなさい。花さんも、私達と同じ人間なんだと思うと、正直、ちょっと、嬉しいと思いました」

「どういうことです」

「私達凡人は、いや、今では、花さんも凡人の仲間入りをしたわけですけど、凡人には、よくあることです。花さんには、その体験がなかったか、少なかったことで、驚いているのだと思います。花さんが感じている症状は、私達が日常的に感じているスランプだと思います」

「スランプ」

「スランプという言葉は知ってますよね」

「はい、何となくですが」

「何となく、ですか」

「はい」

「これまでのような仕事が出来ない。気が乗らない。うまく行かない。不安になる。もう、駄目なんじゃないか。どうなるんだろう。元の自分に戻れるのか。自分に対する疑心暗鬼が日毎に膨らんでいく病気で、誰でも、いつでも、かかる病気だと思います」

「それが、スランプですか」

「人によって感じ方は違うかもしれませんが、よくあることです。私は、頻繁にスランプだと感じています。いや、私の場合は、年齢による衰えも大きいと思いますが」

「どうすれば、いいんでしょう。病気だとすると、治療法はあるんですか」

「ありません。あるとすれば、時間だと思います」

「時間」

「はい。その時間を稼ぐ方法としては、自分の仕事ではないことに没頭する方法が最適かもしれません。例えば、花さんなら、空手でどこかの大会に出場する目標を持ち、練習することで、時間が稼げます。私の場合は、仕事以外のことをすると収入が途絶えますから出来ませんが、花さんは、収入の心配はありませんよね」

「空手ですか」

「近くに道場はないんですか」

「調べたことありません」

「空手は、例えばです。何でもいいです。何か、音楽以外にやってみたいことはありませんか」

「音楽以外ですか」

「ええ」

「思い浮かびません」

「そうですか。この病気にも、重症もあれば軽症もあります。花さんの症状がどうなのかは、素人の私にはわかりませんが、いや、多分、専門家にも分らないと思いますが、確かなことは、自分で何とかするしか方法はないのだと思います。何かを決め、それに挑戦してみる。逃げるのが最も悪い方法だと思います。私は、そう思っています。今、思いついたんですが、大学に行ってみるという方法はどうでしょう。何か、やりたい学問が見つかるかもしれません」

「私、高校に行っていませんので大学は無理です」

「高検を受ければ済むことです。私が花さんの立場にいれば、私は大学へ行くことを選択したかもしれません。私の仕事は、経験と知識がものを言いますが、そのベースになっているのが体力です。残念ですが、体力は必ず衰えます。体力を維持するためのトレーニングで凌いでいますが、限界はあります。今更、専門分野を変えることはできませんが、指導者になることはできます。その時、必要になるのが学問なんだと思います。それが、どんな学問なのかはわかっていませんが、いい教師になるためには理論武装は不可欠だと思っていますので、私は、大学へ行きたいと思います」

「でも、音楽の仕事は」

「休めばいいと思います」

「休む」

「よくあるじゃないですか。充電期間という言い訳が。ま、ほとんどの方が、引退になるのでしょうが、本物の充電期間があっても不思議じゃないと思います」

「んんんん」

「今、キャサリンさんの顔がチラつきませんでした」

「出ました」

「花さんなら戦えます。これまでも、いい戦いをしてきたじゃないですか。あの方は、とても優秀な方だと思います。年齢もかなり離れています。彼女は百戦錬磨の強者です。もしかすると、彼女はあの会社の役員になる人なのかもしれません。そんなキャサリンさんと、互角に戦ってきたのです。16歳の少女に出来ることではなかったと思いますよ」

「今は、キャサリンさんと戦う気力ないかもしれません」

「私に相談を持ち掛けたことを後悔することになりますが、もう一つ無茶を言ってもいいですか」

「はい。喜んで」

「衣装の件、そして、アメリカ公演の件、花さんの中で整理ついてます」

「まだ、かもしれません」

「それって、花さんが歌手をやっているからですよね」

「はい」

「歌手を辞めてしまうという方法もあります。歌手をやっているから、曲を出せると思っていますよね」

「はい」

「曲を世に出す方法は、それ以外にないんでしょうか」

「わかりません」

「それを探すことも、解決方法になるかもしれません。自分で曲を作り、詩を書き、歌う方も大勢いると思いますが、歌手の方が全員、自分で作曲できる訳じゃありませんよね。いい曲があれば歌いたいと思うのが歌手なんじゃないでしょうか。であれば、何か方法はあると思うんです。私の専門外ですから、具体的な方法はわかりませんが。この前、オランダに行った時、向こうの音楽社の人が、曲の提供はしないのか、と聞いていました。キャサリンさんは無視していましたが、可能性があるということなのかもしれません。そのためには、キャサリンさんの会社との契約を破棄する必要があるのかもしれません。花さんの本業は作曲なんですよね。その原点から考えることが必要なのかもしれません。ごめんなさい。あやふやな意見ですが、私は、以前からそう思っていました。そのこととは裏腹ですが、私は、花さんの歌をもっと聴きたいとも思っています。矛盾していますが、どうすればいいのかはわかりませんが、別の方法を探してみる方法もあると思います」

「そうですね。私も、そこは逃げていると思います」

「一度、当たって砕けてみたらどうでしょう」

「どうやって」

「例えば、花さんが、この人に歌ってもらいたいと思っている歌手がいたとして、面談の約束を取って、曲を聴いてもらって、歌ってみませんかと誘ってみる。花さんは、今では、ヨーロッパで知名度もあります。花さんが会いたいと言っていると聞けば、会ってくれる歌手もいるかもしれません。どんな曲を作っているのかは、花さんの曲を聴けばわかります。私も、最近はサブスクで花さんの曲を聴いているんです。花さんの曲を聴いている歌手がいても不思議じゃないと思います」

「できるでしょうか」

「わかりません。キャサリンさんの会社との契約に違反するなら問題ですけど、個人的に、花さんが誰かに曲を提供することは可能なんじゃないですか」

「でも、そんな時間、取れそうにありません。言葉の問題もありますし」

「だったら、音楽業界のことを知っていて、多言語が話せて、交渉能力もあり、誠実な人を見つければ、そんな人にマネージャーになって貰えれば、例えばですけど、キャサリンさんをリクルート出来れば、可能だと思いますけど」

「確かに、キャサリンさんは無理でしょうが、探してみる価値はあるかもしれません」

「どうです。今、少し、もやもや、は消えてません」

「消えてます」

「花さんのスランプ解消法は、これかもしれません。いや、そもそも、スランプじゃないのかもしれません。悩みごとが原因だとすれば、それが解消すれば、また、作曲の仕事に集中できるかもしれません。最大の原因はアメリカ公演の話だと思います」

「今度、ヘレンさんが歌手デビューすることになって、車椅子歌手というところに目を付けたテレビ局が特番を作るという話があって、友情出演してもらえないかというオファーがあったの。ヘレンさんの曲の作曲者という立場でもあり、友人でもあるので、テレビは好きじゃないけど出演することを受けました。ヘレンさんのお父さんは有力者だそうだから、誰か、紹介してくれるかもしれない」

「ヘレンさんのお父さんは、雲の上の人だから、心配です。私なら、キャサリンさんに頼んでみます」

「キャサリンさんに」

「断られるかもしれませんが、歌手を辞めると言えば、何とかすると思います。ま、その時は、歌手を続けなければなりませんけど」

「雪乃さんって、大胆なこと考えますね」

「私のクライアントに歌手の方がいましてね、その方が、いつも、大胆なことをするんです。きっと、その影響だと思います」

「それって、私のことですか」

「そうです」

「あらら」

「どうです。少しは元気出ました」

「はい。でも、キャサリンさんには頼みづらいです」

「では、ローレンさんは。あの方は、優秀な方なんじゃないかと思っています。ご主人には恵まれなかったようですが、仕事を持てば、変われるかもしれません。彼女も変わりたいと思っているようですし」

「そんな話をしてたんですか」

「私もローレンさんも立場は同じですから。ただ、フルタイムで働いてもらう必要はありますし、それなりの報酬は支払わなければなりません。今の花さんなら簡単なことだと思います」

「まだ、スケジュールは貰っていませんけど、近々、ロンドンに行くことになります。その時、ローレンさんに打診してくれませんか。もちろん、雪乃さんにもその交渉料を支払います」

「ありがとうございます」

「こんなこと言えば、怒られるかもしれませんが、雪乃さんは今の会社を辞めるつもりはないんでしょうか。もしも、その可能性があるのであれば、私のスタッフになってくれると嬉しいです。イギリス駐在の花事務所を作り、ローレンさんを雇い、楽曲の販路を開拓する仕事と、私の通訳と護衛を丸ごと引き受けるなんてことは可能なんでしょうか」

「それは、正式のオファーですか。今まではお父様がやっておられましたが」

「もちろん、父とも相談しますが、反対はしないと思います」

「わかりました。喜んで引き受けますが、念のため、お父様の承諾を貰ってくれるとありがたいです。これまでも、お父様からのご依頼でしたから」

「はい」

父は、即答で了解してくれた。念のため、父からも雪乃に電話してもらった。

ヘレンの特番の撮影でイギリスに行き、ローレンの快諾ももらった。

コンサートVTRが発売されたことと、コンサートの回数が少ない歌手というラベルが貼られていることで、テレビ出演したくらいではSNSは騒がないようになった。

今までは、花にとって、収入はさほど問題ではなかったが、二人の社員を抱える事業主になったことで、確実に稼ぐ必要が出た。それは、軽々しく歌手を辞めるなんてことは言えなくなったということであり、そんな自分の決断の結果に驚いている。

できるだけ多くの歌手の歌を聴き、リストアップをした。ビジネススーツを着たローレンは、どこから見ても営業ウーマンに見える。おまけに、語学力もある。まだ、今は家事担当だが、別の家事担当を探すことになっている。ローレンの夫は主夫をすることを喜んでいるようで、家庭も安定し、子供も喜んでいる。

同じアパートの一室を事務所として借りた。雪乃も同じアパートに引っ越しをしてきた。

二人のスタッフを採用したことを契機にして、花のイギリス滞在は、歌手期間を含め半年にした。キャサリンにも、イギリス事務所開設と雪乃とローレンをスタッフとし、曲の売り込みをすることを知らせたが、問題なく了承してくれた。

スタジオを借り、曲作りの作業も従来のスピードで進んでいる。

ローレンは、着実に成果を出し始めた。ヘレンが歌手業を兼務することになったので、新しい作詞家を探していたが、それもローレンが探してきた。家事担当もローレンの近所の主婦が来てくれるようになり、パートタイマーとして働いてもらっている。

歌手の数では、アメリカが多いが、アメリカの歌手には営業しない。ヨーロッパ全域を対象にしているので、当然、言葉が関係してくる。曲だけの提供は、そんな地域に適合しているようで、詩がないことは喜ばれている。

花は、日本に戻ることなく、3枚目のアルバム作りの期間に入った。

花の曲に詩を書いてくれる作詞家は5人になり、それぞれの作詞家がいい詩を書いてくれるので助かっている。花の曲は、どれも、それなりの売り上げが見込めることで自然に力を入れるのだろうとキャサリンは言っていた。

CDは発売されたが、サブスクを解禁したことで、CD売り上げは参考にならなくなった。ただ、再生数は、着実に増えている。世界のTOP100に名を出すことはないが、新人歌手としては健闘しているそうだ。


自分の事務所を持ってから5年が過ぎた。

アメリカ公演のプレッシャーは強くなる一方だったが、花は首を縦に振らなかった。キャサリンは、花と上司との間で苦慮している。

ついに、キャサリンの上司である役員が交渉に出てきた。

花は、その交渉を好機と捉えた。

年配の男性はキレやすい。交渉を破談にすれば、キャサリンは責任を問われない。

売り言葉と買い言葉の応酬があり、花は、契約の廃棄を宣言した。唖然としている役員の前で最後通牒を出し、花は、歌手を辞めた。歌手に未練はない。10年も続けてきたのに、全く、未練がないのを少しだけ不思議に思った。

もちろん、会社は、対外的には「充電期間」という言い方をしたが、花の歌手人生は終わった。本人に続ける気持ちはないのだから、復帰することはない。

キャサリンは、本気で落胆していた。

「あなた、最初から、そのつもりだったんじゃないの」

「もう、限界だと思います。そう思いません」

「私は、あなたがアメリカ公演を拒否している原因を知り、それに道を開きたかった。花とは、もっと、我慢強く交渉しなきゃ駄目だと言ったのに、あの人達は数字しか見ていない。長い目で見たらマイナスになることくらいわかりそうなものなのに、ほんと、頭硬くて困る」

「ごめんなさい」

「私、まだ、諦めないわよ」

「でも、今回は、もう、駄目だと思います」

「いや、諦めたくない」

花は、最後までアメリカでの事件の話をキャサリンにしなかった。

日本国内で事故に遭った時は諦めるしかないと思っていたが、国外へ出る時は、必ず、雪乃と行動を共にした。世界的な組織を持つ教会の力は無視できない。話はついたと言われていたが、禍根は断つほうが安心だろう。口には出さないが、雪乃の態度を見ていれば、危険は無くなった訳ではないと思っている。キャサリンが事件を知れば、キャサリンが標的になる可能性だってないとは言えない。そんなことは出来なかった。

降ってくる音も、今では、年に1回程度になった。フレーズは400を越え、曲になったのは350を越えた。自分で歌った曲が約80曲、自分以外の歌手に提供した曲は150曲を越えた。

花が歌手を引退することに決めたのは、アメリカ公演のことだけではなく、石井の父との契約期間が終わったことが1つの区切りになったと思っている。

作曲者としての活動は、フレーズを曲にする作業が終わるまで続ける。全曲を世に出すまでは花事務所は継続することになるのだろうが、終了の判断は雪乃とローレンに任せた。きっと、音の神様は許してくれるだろう。功労金の名目で、二人にはそれなりの金額を支払い、後を託した。フレーズを曲にする作業が終われば、高校検定を受けて、大学へ行ってみようと思っている。まだ、何を学びたいのかは見えていないが、また、夢中になれるものを探したいと思っている。

兄は、以前、間宮食堂があった近くに食堂を開き、評判を集めている。母は目標達成は出来なかったが、間宮食堂の開業資金を作れたことで、許してもらえた。何よりも喜ばしいことは、石井の父と母が本物の夫婦になったことだった。

花は、父に出してもらった資金を全額返した。母も兄も返済すると言っている。母も兄もそれが出来る力を父に貰ったと思っている。間宮母子にとって、石井達意は夫であり父でもあるが、恩人でもある。あの時、声をかけてもらえなければ、どうなっていたのか、を考えると恐ろしい気持ちになる。


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音の神様 @you-ishi

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