第4話

キャサリンから、「アルバムの曲の選定は終わったか」という電話があった。

「はい」

「前に話してたけど、公募の曲を決めて、その曲だけでも先に送ってもらえると助かる」

「わかりました」

「そうだ、出てこない」

「ロンドンにですか」

「もう、随分会っていないし、公募のことや、アルバムのことも話しておきたいし、何よりも、私は、花に会いたい」

「はあ」

「もう、学生さんじゃないよね」

「ええ」

「歌手期間3カ月の内の数日ということで、どう」

「わかりました」

「じゃあ、予定が決まったら連絡頂戴」

「はい」

3カ月を出されると断れない。

雪乃に連絡して、2週間後の予約を取り、キャサリンに予定を連絡した。

「打ち合わせは、1日でいいですか」

「問題ない。ありがとう。待ち遠しいわ。作曲は進んでる」

「頑張ってます」

「そう、あっ、それと、ロンドンに来る時は、帽子をかぶって、マスクをして来て」

「どうしてですか」

「あなたは、もう、有名人だから」

「はあ」

「テレビで顔を出したのだから、仕方のないことよ」

「・・・・」

「やめようか、なんて言わないでよ」

「はあ」

これは、絶対に、陰謀だと思った。キャサリンとサラは裏で繋がっている。歌手になりたいとか役者になりたいと思っている者にとっては、強力な味方なのだろうが、花には敵にしか見えない。大人社会では、作曲は歓迎されていないのだろうか。

「エマ、今度の日曜日、予定ある」

「特に、ありません」

「買い物、付き合ってくれるかな」

「いいですよ、何、買うんですか」

「帽子」

「は」

「だよね」

「どんな帽子が欲しいんですか」

キャサリンから言われたことを話した。

「えぇぇ、先生、有名人なんだ」

「その先生はやめて」

「だって、先生でしょ」

「たまたま、一緒に練習してる仲間」

「それでも、私、教わってますよね」

「それは、私が先輩だから」

「うん。でも、私は、先生がいい」

「じゃあ、ここでは先生でいい。でも、外では花と呼んで欲しい」

「わかりました、先生。先生がイギリスでCDを出しているという話は聞きましたけど、有名人だという話は聞いていませんよ」

「私も、初めて聞いた」

「そうなんですか。先生、空手の話しかしないから。私も先生のCD聴いてみたい」

「ありがとう。後でCDあげる」

「わぁー、嬉しい」

エマに選んでもらった帽子をかぶって、マスクをして、ロンドンのホテルに入った。

キャサリンが部屋に来た。

「ありがとう、花」

「お久しぶりです」

「バレなかった」

「帽子とマスクはしてましたけど、ほんとに必要だったんですか」

キャサリンは部屋に置かれているパソコンの電源を入れた。

検索画面を出し、「HANAと入れてみて」と言われ、入力すると、あのテレビ特番の動画が一番上に表示された。ドラマ名を入れても、曲名を入れても、同じ動画が出てくる。

「これ、何人が見てると思う」

「さあ」

「あのドラマを見た人だけじゃなく、ネットで見た人は、何百万人なんじゃないかと思う。あなたの顔写真は、指名手配のビラよりも多くの人に憶えられていると思う。今から、素顔で街に出てみる」

「いえ、結構です」

「諦めなさい」

「雪乃さん」

「私も、諦めるしかないと思います」

「ううううう」

「このことだけ伝えておきたくて。仕事の話は明日しましょう。ゆっくり休んで」

これは、絶対に陰謀だ。世間知らずの中学生を騙すなんて許せない。でも、誰もが、こうやって大人社会に取り込まれていくのが現実なのだろう。きっと、大人は、騙してやろうなんて思っていない。手を差し伸べているつもりなのだろう。

「花さん、怒ってます」

「怒ってます」

「ですよね。騙し討ちに会ったみたいに見えます」

「ひどいと思いませんか」

「私は、そうは思いません。大人が誰かの才能に喰いつくのは、いつものことですし、誰でもやります。それが自分の利益になることを知っているからです。もちろん、それが才能を活かすことになるのですから、問題ないと思っています。それが、社会を動かします。ですから、花さんがやらねばならないのは、彼等の上を行き、自分の目的を達成する道を見つけることだと思います」

「そんなこと、小娘にできることなの。相手は、あのサラさんだし、キャサリンさんなのよ。あの二人は百戦錬磨の強者よ。私に勝ち目はないわ」

「そうでしょうか。あなたなら、できると思います」

「どうして」

「花さんは、気の強さでは誰にも負けていません。必ず、道は開けます」

「それ、誉め言葉になってませんよ」

「褒めてません。私は、客観的事実を言っているだけです」

「もっと、ひどい」

「ごめんなさい」

「でも、きっと、雪乃さんの言う通りなんだと思います。私の願いのほうが間違いなのでしょうか。私って、風車に戦いを挑むドン・キホーテなんですか」

「かもしれませんね。でも、ドン・キホーテも出来ない私から見れば、羨ましいです。花さんは自分の才能を駆使すればいいと思います」

「最近、特に、今、自信を無くしています」

「大丈夫ですよ。作曲家としても、歌手としても、今や、アイドルとしても、才能があることを証明してみせたのです。その上、あなたには誰にも負けない根性があるじゃないですか。何の心配があるんです」

「訳もなく、怖くなるんです」

「大丈夫、あなたなら、乗り越えられます。最後には飛び蹴りがあるじゃないですか」

「やっぱり、あれがトラウマになっているんでしょうか。忘れたつもりなんですが」

「花さんは信者だったんですよね。信仰心をズタズタにされたんです。私なら、立ち直れなかったかもしれない。でも、あなたは、ここまで来ました。私、ほんとに、驚いていますし、尊敬してるんですよ」

「ありがとうございます」

「何でも言ってください。私に出来ることは、あんまりないのかもしれませんが、全力でやりますから」

「悪いことばかりじゃないことは知っています。父と出会えたこと、早苗先生と出会えたこと、メアリーと出会えたこと、そして、雪乃さんと出会えたことも、天の配剤としか思えない。音の神様って、いるのかな」

「私、信仰心は欠片もありませんが、いたら、いいですね」

翌朝、キャサリンの音楽社に向かった。帽子もマスクもバッグに仕舞っておいた。

「挑戦ですね」

「ええ」

ホテルのフロントでも、ロビーでも、タクシー乗り場でも、視線が集まっていることは知っていた。音楽社に入っても、それは、同じだった。

「マスク無しで、大丈夫だった」

「ボディガードが付いてますから」

「そうだったわね」

午前中でアルバムの打ち合わせは終わった。

「外に食べに行く。うちの食堂でもいいけど。もっとも、味は保証しないけどね」

「もう、帰っていいですか」

「いや、昼から、ある人を呼んでいるので会ってもらいたい」

「誰ですか」

「デザイナー」

「・・・」

「あなた、サインしてくれと言われて出来る」

「いえ、できません」

「デザイナーに助言してもらって、午後は、サインの練習をしてもらう」

「そんなこともするんですか」

「いや、普通はしない。誰もが有名なりたいと思っているから、サインのことも自分で真剣に考えるのよ。でも、あなたに、その気はないでしょう。だから」

「逃げちゃだめですか」

「逃げきれません」

「わかりました。キャサリンさんの好意に甘えます」

「あなた、また、大人になったわね」

「なりたくありませんけど」

「ふ、ふ、ふ」

「私、売店のサンドイッチでもいいですけど」

「そう。じゃあ、そうしようか」

三人で売店に向かった。

売店にいた若い女子が近づいてきた。

「あなた、farのHANAよね」

「はぁ」

「サインして」

「ごめんなさい。この子、まだ、サインの許可が出てないの」

「えっ、許可がいるんですか」

「うちでは、そうなんです」

「なんだ。折角、会えたのに」

「ごめんなさい」

三人は、昼食を買って部屋に戻った。

「あの人達は、ここの社員じゃないんですか」

「ええ、ここは、いろんな人が来るから」

やって来たデザイナーは、アンナと呼んでくださいと自己紹介した。キャサリンと同年代の細身の地味な女性だった。

「よろしくお願いします」

「はい、こちらこそ。あなた、突然、サインしなくてはならなくなった時、どんな字を書きますか」

少し考えて、目の前にある紙に「花」と書いた。

「日本語ですよね。どういう意味の言葉ですか」

「フラワーです」

「なるほど。とてもいい名前だし、文字としても綺麗です。じゃあ、いろんな形の花を書いてみましょうか」

花は、いろいろな「花」を書いた。

「サインは、特に、あなたのような方のサインは、限られた時間内に多くの方にサインを渡す必要があります。一番、早く書けるのは、どの字ですか」

「これですかね」

「書いてみてください」

意識して速く書いたが、「遅いです」と言われた。

「では、これでも、花と読めますか」

アンナは一筆書きで花の文字を書いたが、確かに花になっていた。

「すごい」

「真似してもらえますか」

アンナのようには書けなかったが、次第に近づいたように思う。

「大丈夫です。少し練習すれば書けます。そして、工夫してください。サインは、名前が読めるだけではなく、全体として美しいほうがいいです。花という字は美しい文字ですから、その美しさを消さないように」

「はい」

「楽しくなってきましたか」

「はい。楽しいです。私の母もデザイナーの卵ですが、母のデザインも美しいと思います」

「あなたにも出来ますよ」

「ありがとうございます」

花は、ひたすら、書いた。夢中になると、時間を忘れる。

「花」

「は」

「休憩しよう」

「あ、はい。皆さんに付き合ってもらって、いいんでしょうか」

「もちろん。見てるだけで楽しい」

「よかった」

「道中さん、お茶入れるの手伝って」

「はい」

キャサリンと雪乃が部屋を出ていった。

「花さんのお母さんは、どんなデザインをするの」

「詳しいことはわかりませんが、今は何でもやるようです」

「娘のあなたが見て、どう。いいな、と思う」

「はい」

「一度、見てみたいな」

「デザイナーという仕事も、いろいろと専門があるでしょう。アンナさんの専門は何ですか」

「これです」

「サイン」

「そうね、サインと言うより、文字と言ったほうがいいかもしれない」

「文字が好きなんですか」

「私、日本の文字、好きです。仕事としてはやったことありませんが。うまく言えませんが、ひらがな、カタカナ、漢字ですよね。中でも漢字が好きです。それも難しい漢字ではなく、すっきりした漢字、ですから、漢字の一が好きです」

「一ですか」

「花という文字もすっきりしていて、好きです。仕事としてやったことはありません。キャサリンが報酬をくれたら、この仕事が日本語の初めての仕事になります」

「キャサリンさんとは」

「個人的な友達です」

「じゃあ、今日は、友情出演ですね」

「そうなりますね」

「私が報酬を出しては駄目ですか。私のサインのデザインを手伝ってくれているのですから、私が出すべきですよね」

「それは、キャサリンに聞かないと」

「聞いてみましょう」

キャサリンと雪乃がトレーを押して戻ってきた。

「お茶にしましょう」

「ありがとうございます」

「何、話してたの」

「デザイン料の話です」

「デザイン料」

「はい。アンナさんのデザイン監修料は、私が支払うべきだという話です」

「あらら」

「何か」

「いや、アンナは、なんて」

「キャサリンさんに聞かないと、と言ってました」

「もう、花には収入があるのだから、それが筋かもしれないわね」

「では、それでいいですか」

「私は、問題ない」

キャサリンの声に元気がなかった。多分、思惑が外れたのだろう。好意だけでアンナを呼んだわけではないと思う。

「ビジネスの話をしてもいいですか」

「怖いこと言わないで」

「アルバム出す時、ジャケットが必要ですよね。そのジャケットにもデザインが必要ですよね。そのデザイン、私の母にやらせてもらえませんか」

「なるほど、ビジネスね。いいわよ。ただし、納得できるようなデザインでなければ断るけど、それでいい」

「もちろんです」

「ほんと、あなたには驚かされる。私も気を引き締めなきゃ」

「いえ、キャサリンさんは、今でも、充分、怖いですよ」

「もう、化け物みたいに言わないで」

「違うんですか」

「アンナ、この娘、見た目は子供だけど、中々、侮れないわよ。デザイン料負けちゃ駄目よ」

「私には、二人、とても仲がいいように見えるけど」

「私も、そう思います」

「雪乃さんまで」

「随分会話が出来るようになったよね。もう、通訳さんはいらないんじゃない」

「あっ、この人は、前にも言いましたが、父が私につけたボディガードです。道中さんは空手の達人ですから」

「そうなの」

「はい」

「ま、そうよね。15の娘を海外へ出すのだから、当然なのかも」

「父は、過保護ですから。それと、私、もう、16ですから」

「それは、ごめん」

「もう少し、練習してもいいですか」

「わかった。私は、少し席を外して、自分の仕事してくるけど。用事があったら携帯鳴らして」

「わかりました」

「じゃあ、アンナ、お願いね」

「わかった」

それから2時間ほど、懸命に練習した。

「先生。これで、どうでしょう」

「いいと思う。綺麗だわ」

「ありがとうございます。請求書、私の携帯に送ってください」

「ほんとに、いいの」

「はい」

「ありがとうございます」

キャサリンの指示でサインの練習はしたが、サインをしなければならない状況は作りたくないので、帽子とマスクで顔を隠してホテルに戻った。ホテルのフロントの対応を見ると、花が宿泊していることは、バレているようだった。厄介なのは、誰もが携帯電話を持っていて、誰もがそのカメラを向けることだった。先程の売店でも、カメラを向けている人はいた。「ああ、面倒くさい」が花の実感だった。

「雪乃さんは、イギリスで運転できるんですか」

「できますよ」

「次は、車を借りてもらえます」

「そうします。法規とか地理を勉強しておきます」

「お願いします」

ロンドンから逃げ出すようにして日本に戻った。

父にロンドンでの出来事を話した。

「変装とか、できないのかな」

「そのほうが面倒だろう。慣れるしかない」

「そうよね」

「花は、もう、CDを出したことで、私との約束は達成してる。音楽やめたければ、やめてもいいんだぞ」

「はい。でも、やれるとこまで、やってみたいです」

「そうか。無理するなよ」

「はい」

母には、CDジャケットの話をした。

「ありがとう。勉強しとく」

必要な経費は、父が無条件で出してくれる。但し、花の口座に振り込みがある度に、花は借用書を書いていた。それは、母も兄も同じで、最短で収入を得るようになった花とは違って、二人にはプレッシャーがあるのだろうと想像していた。

曲作りのほうは順調に進んでいる。以前より格段に慣れて、自分でも上達していると思っている。ただ、時間は、矢のように過ぎていく。ただ、学校を辞めたことで、重圧は随分減った。気のせいか、降ってくる音の頻度が短くなっているように感じている。フレーズを書いた楽譜は、厚みを増すばかりだ。花は、作業に没頭した。

キャサリンから電話があった。

「歌詞の公募の締め切りが近くなってきたので、選定作業に来てもらいたい」

「応募はあったんですか」

「最初は心配したけど、予想より多いと思う」

「どのくらい」

「今のところ、20くらい。締め切り間際になると増えると思うから、30は越えると思う」

「そうですか。嬉しいです」

「イギリスで、今一番注目されている歌手は花だよ。花の曲に詩が書けるというモチベーションはあると思う」

公募締め切りの4日後、花は、イギリスの音楽社でキャサリンと向き合っていた。

応募された歌詞は、同じ形式に統一され、1から32の番号かふられて、目の前にある。

わくわくしていた。

ヘッドホンで、課題に出された曲を、ピアノの旋律だけの曲を聴きながら1枚ずつ読んでいく。知らない単語は、雪乃が解説してくれる。雪乃が知らない言葉はキャサリンが説明してくれる。1枚ずつ、丁寧に、最初の印象を大切にしながら、2度読みする。いや、判定できるまで、何回も読み直した歌詞もあった。

右と左に振り分けていった。

そして、再度、左側の紙をメロディーに合わせるようにして読む。

最後に残ったのは、4作品だった。

「どれが、一番」

「一番は、これです。残りの3作品は、私の中では同列です」

「そう」

「キャサリンさんの評価は」

「私は、5作品残った。4作品は花と同じで、ちょっと、安心した」

「一番は」

「それも、同じ」

「5番目は、どれです」

「8番」

花は、右に振り分けた場所から8番を手に取り読み直してみたが、やはり、右に振り分けた。

「プロの作詞家の方もいるんですよね」

「あなたが選んだ2番から4番の歌詞は、プロです」

「1番の方は」

「少なくとも、私の知っている作詞家ではない」

「そうですか。会ってみたいですね」

「そうね。行ってみる」

「はい、是非」

すぐに、資料から電話番号を調べて、電話した。

花は、キャサリンのこういう躊躇の無さが好きだった。

「明日の10時に訪問することでいい」

「はい」

道順や交通事情などの話をして、キャサリンが電話を終えた。

「遠いところですか」

「そうね、ホテルからだと1時間かな」

「そんなに遠くないですね」

「うろ覚えだけど、相手は有名な人かもしれない。音楽関係じゃないけど、誰もが知ってる大物という意味の有名人の関係者かもしれない。調べておく」

翌日、ホテルに迎えに来たキャサリンが、浮かない顔をしていた。

「何か問題でも」

「どうやら、財閥のお嬢様らしい」

「あらら」

「ほんと、あらら、でしょう」

「でも、あの詩には、お嬢様は感じませんでしたけど。もちろん、お嬢様がどんな詩を書くのかなんて知らない訳ですから、意味ないのでしょうけど、確かに、お嬢様は、ちょっと問題ですね」

「お嬢様の花に失礼に当たるかもしれないけど、慎重に対応する必要があると思う。もしかすると、私としては、あの曲1曲だけにして欲しいと言うかもしれない。もちろん、決めるのは花だから、花が決めたら従うけど」

「キャサリンさん。私、お嬢様なんかじゃありません。話していませんでしたが、たまたま、母が再婚した相手が、少しだけお金持ちだったというだけで、それまでの私は食費の苦労をするほどの家で育ちました」

「なるほど、そうだったんだ。あなたの芯の強さはどこから来ているのか不思議だった。とても納得。でもこの詩を書いた女性は、正真正銘のお嬢様だと思う」

「困りましたね」

「困った。取り敢えず、会ってみよう」

「はい」

敷地の一部と思われる林の中の道を進むと、大きな鉄の門扉があった。キャサリンが電話をすると、門が自動で開いた。大きな屋敷が現れ、その玄関の前に若い女性が立っているが、服装から見て使用人だと思われた。その女性の誘導で車を止め、3人は車を降りた。

「いらっしゃいませ。お嬢様がお待ちです。こちらへどうぞ」

案内された部屋は広々とした部屋で、グランドピアノが置かれているのに、狭さを感じない。中央の机の前にいた車椅子の若い女性が、スティックで車椅子を動かしながら近づいて来て、手を差し出した。

「ヘレン・ウォルターです。わざわざ来ていただいて恐縮です。テレビで何度もあなたのお顔は拝見していますので、知人に会っているようです。よろしくお願いします」

「花です。こちらこそ、よろしくお願いします。こちらは、音楽社のキャサリン・マーズさん。そして、この方は私の通訳してくれている道中さんです」

それぞれが握手をして、3人は椅子に座った。案内してくれた女性が、お茶を運んでくる。

「最初に、私から、詩を応募した件について話をしてもいいですか」

「どうぞ」

「花さんは日本の方ですけど、キャサリンさんは、私が誰かをご存知だと思います。きっと、厄介な奴が出てきたと思っていらっしゃるでしょう。でも、私にとって、作詞はとても大切なもので、どうしても、採用していただきたいと心から願っていました。私、この通り、車椅子がないと生きていけない体になりました。交通事故で、こうなってから、もう、10年になります。最初の5年くらいは、死ぬことばかり考えていました。しかし、今は、自立したいと強く願っています。その一番の理由は、家族と一体になれないことです。皆、優しく、大切にしてくれますが、私は、可哀そうな障害者でしかありません。自分の手で生活費を得て、自分の力で、自分の人生を生きたいと願っています。そんな私に出来ることは限られていて、文字を書くことくらいしか出来ることがないことを知りました。ですから、今回の公募は、私に初めて巡ってきたチャンスだったのです。昨日、電話を頂いた時は、この車椅子を捨てて、飛び回りたいほど嬉しかった。そんなこと出来ませんけど、気持ちは空を飛んでいました。どうか、ウォルター家のヘレンではなく、一人のヘレンとして考えていただけると嬉しいです」

この人は、きっと頭のいい人なんだろうと思った。花とキャサリンが危惧していることをわかっている。多分、これまで、いろいろな場面で、お嬢様のヘレンと一人のヘレンのギャップで痛い目に遭ってきたのだろう。自立したいという気持ちになるまで、苦労したのだろうと想像した。

「私も、少し、自分の話をさせてもらいます」

花は、音が降ってくること、自分が曲作りをしたいことを話した。成り行きで歌手をすることになったことも話した。

「私、言葉が出てこないんです。日本語でも、歌詞を作ろうとすると、頭がフリーズしてしまうんです。どんなに頑張っても、言葉が出て来ません。ほんとに、1つも言葉にならないんです。つたない詩でもいいから書けよ、と思うんですが、全く、駄目です。Farの歌詞を書いてくれたのは、製薬会社の研究所にいる科学者の友人です。友人と言っても、母と同年代の女性です。今度、アルバムを作ることになったんですが、本来の仕事が忙しい彼女に頼むことはできません。困っていたんです。そこで、キャサリンさんが公募の案を出してくれて、今日、こうやって、あなたと出会うことができました。ただ。子供の私が言っても説得力はないのでしょうが、仕事、厳しいです。特に、キャサリンさんは厳しいです。仕事をするということは、そういうことなんだと、今、猛勉強の途中です。10年耐えてきたヘレンさんなら、厳しさに耐えられると思いますが、自信はありますか」

「はい。私には、もう、後ろがありませんから」

「ヘレンさんの詩には、風が出て来ます。いや、風が吹いています。どうして、ですか」

「この曲を聴いた時、私が感じたのは、風なんです。それも、とても優しい風です。それを伝えたくて」

「そうですか。嬉しいです。実は、この曲のテーマは風なんです。私は、出来た曲を、自分流ですが、分類しています。風とか森とか海という自然界の言葉で分類しています。ヘレンさんは、そのテーマを言葉にしてくれた。とても、嬉しかったんです。風をテーマにしてくれた詩は、あなたの詩だけでした」

「よかった」

「キャサリンさん、どうでしょう。私は、ヘレンさんに作詞をお願いしたいと思いますが」

「わかりました」

仕事の話になり、キャサリンが話を続けた。

「これまで、採用された歌詞はないんですか」

「ありません」

「これが、初めて作った詩ということですか」

「いえ、詩は捨てるほど書きましたが、チャンスはありませんでした」

「お父様に頼べば、出来たと思いますが」

「それは、したくありませんでした。私は、ここを離れたいのです」

「では、その詩を見せていただけますか」

「もちろん」

ヘレンが書棚からファイルを持ってきた。

楽譜に文字が書き入れてある。有名な曲もあれば、そうではない曲もある。

「花、この曲、歌える」

「ここで」

「無理かな」

「少し、時間をくれれば」

「あの、私、歌っていいですか」

「歌ってくれます」

「はい。花さんのようには歌えませんが、歌詞は分かっていただけると思います」

「じゃあ、お願いします」

ヘレンは、自分でピアノを弾きながら歌い始めた。いい声をしている。詩もいい。

「私も、一緒に歌ってもいいですか」

花は、とても、浮き浮きした気持ちになっていた。

最初は、お互いに遠慮しながら歌っていたが、次第に二人の声が心地よく混ざり、二人とも周囲のことは忘れていた。

キャサリンと雪乃とヘレンの手伝いをしている女性の3人が拍手を送った。キャサリンは、明らかに興奮している。

「ヘレンさん、あなた、歌の勉強はしたことあるの」

「いえ、自己流です」

「花、一緒に歌って、どうだった」

「とても、心地良かったです」

「ヘレンさん、あなた、歌手になる気はないの」

「車椅子で、ですか」

「変かな。歌は、足で歌うわけじゃないし、もし、あなたが歌手で成功すれば、同じ境遇にいる人達を励ますことができる。花が曲を書き、ヘレンが詩を書き、それぞれが歌う。時には二人で歌ってもいい。花は詩の心配をしなくても済むし、ヘレンは自立できる」

「私、歌は無理だと思います。この姿で人前に出たくないという理由もありますけど」

「何言ってるの、あなたの望みは自立することでしょう。多少の犠牲は仕方ないんじゃない」

「キャサリンさん、無理強いはよくないです。悪い癖ですよ」

「何言ってるの、才能を埋もれたままにするほうが、よほど、罪だと思うけど」

「あらら」

「何が、あららよ」

「今日は、歌詞の話で来たんですよ」

「わかってるわよ」

「ヘレンさんが、多くの詩を書いていて、その詩には、独特の世界観があって、私の曲にも、とても合う。作詞の話をしましょうよ」

「わかった」

「ヘレンさん、これから2カ月で、何曲くらい書けますか」

「2カ月ですか。5曲くらいなら」

「じゃあ、5曲、お願いします。途中で変更はできませんよ」

「はい」

「キャサリンさん。いいですか」

「了解」

「作詞が終わるまで、歌手の話、しちゃ駄目ですよ」

「わかったわよ」

「お二人、歳は離れているのに、ほんとに仲がいいんですね」

「いやいや」

「まさか」

二人が同時に否定したので、笑いが起きた。

「私、こんな日が来るなんて思ってもみませんでした。ごめんなさい」

ヘレンが泣いている。お手伝いの女の子が慌ててタオルを持って走った。

「キャサリンさん。か弱い女性を泣かせちゃ駄目ですよ」

「私が」

「私も、何度も泣きました」

「ちょっと待って、それじゃ、私、鬼みたいじゃない」

「少なくとも、天使じゃありません」

「当たり前よ、天使じゃこの仕事はできない」

「確かに、そうですね。私は、キャサリンさんのこと、好きですし、信頼してます。でも、もう少し手加減してくれてもいいのになとも思います」

「何言ってるの。それ、私の台詞」

「ヘレンさん、なにとぞ、よろしくお願いします。今日は、持ってきていませんので、戻り次第、すぐに楽譜を送ります。それでいいですか、キャサリンさん」

「わかった。すぐに送る」

「昼食を一緒にいかがですか」

「ありがとうございます。でも、この後、まだ予定がありますので、次の機会に、また誘ってくれると嬉しいです」

「そうですか。残念です。もっと、お話がしたかった」

「私もです」

作詞家には一度会っておきたいという花の希望で、花とキャサリンと雪乃の三人は、残りの三人の作詞家を訪ね、作詞の依頼をした。三人共、喜んで引き受けてくれた。

「どんな詩ができるのか、楽しみです」

「そうね、ただ、花が納得できないものが送られてくるかもしれない。そのことも、忘れないでね」

「はい」

花と雪乃は、仕事を終え、帰途に就いた。

「花さんは、会うたびに強くなっていて、驚きます」

「純真な乙女が、世間の荒波に揉まれて汚れていく様を見ている雪乃さんは、自分のことを思い出しているんじゃありませんか」

「たしかに。私も、昔は純真な乙女だったんでしょうね。もう、忘れてしまいましたが」

「多分、数カ月後、今度は長期滞在になると思います。雪乃さんには、無理ばかり言いますが、また、一緒に行ってくれると嬉しいです」

「次は、レコーディングですね」

「はい」

「万難を排して、行きたいと思います」

「ありがとうございます」


日常に戻っても、時間は矢のように過ぎていく。新曲の歌詞は、出来次第送って欲しいと頼んでおいたので、キャサリンから詩が送られてくるようになった。何ヶ所か修正をお願いした。それでも、ヘレンの歌詞が、一番しっくりする。ヘレンが5曲を書き終えたら、10曲くらい作詞をしてもらおうと思った。ただ、レコーディングが2年後になることを承知してくれればだが。

3カ月の歌手期間にカウントされるのかどうかは分からないが、少しずつだが、自己流で編曲をし、歌ってみた。アルバムの10曲分の練習時間として2カ月は確保されているが、2カ月で、10曲を自分のものにするのは難しいかもしれない。初めてのことなので、時間の持ち出しになるけど、不様な歌にすれば曲そのものが死んでしまう。それは、避けたかった。削れるのは睡眠時間しかないので、少し、寝不足だ。

「来週から、歌手期間、始めるよ」

「はい。既に、以前に数日使ってますので、再来週ですね」

「あら、憶えていたの」

「はい」

「わかった。再来週ね。監督は出来ないけど、時間を練習に使ってね」

「はい。そのつもりです」

「よろしく」

「はい。いいアルバムにします」

今回も、伴奏は弦楽器の多いオーケストラが担当してくれる。その編曲の音源も受け取っていた。曲作りの作業は止めて、ひたすら、歌の練習をした。楽譜や歌詞を忘れ、曲の中を自由に飛び回れるようになっていく。それは、それで心地がいい。

最後の1カ月は、ロンドンで借りたスタジオで、最後の調整をし、レコーディングに臨むことになる。

雪乃と日程調整をしている時にキャサリンから「待った」がかかった。

「どうしたんですか」

「リズに依頼していた曲が、アメリカで発売されたの」

「どういうことです」

「リズが、曲を売ったとしか思えない」

「本人は」

「捕まらない」

「どうします」

「まだ、わからない。こんなこと前代未聞よ」

「でしょうね。時間がかかるのなら、別の曲を使いましょうか」

「だって、歌詞はないでしょう」

「ヘレンさんには、あの後、10曲お願いしてます。もう、何曲かできていると思います」

「そうなの」

「はい。黙っていてごめんなさい」

「いや、それはいい。聞いてみる。あなたには、最短時間で練習してもらわなきゃならないけど、大丈夫」

「頑張ってみます」

「また、連絡する」

翌日、キャサリンから歌詞が送られてきた。

「予定通りの日程で、ロンドンに行きます。スタジオは借りてもらってますよね」

「もちろん」

「そこで、練習します」

「そう、助かる」

ロンドンで猛練習をし、何とか目途がついた。レコーディングは予定通りできそうだ。

しかし、キャサリンが目の色を変えてスタジオにやって来た。

「サラが、ドラマ主題歌が欲しいと言ってきた」

「それは、無理でしょう」

「だよね。でも、断れない」

「どうするんです」

「ヘレンの詩がある」

「でも、ドラマ主題曲でしょ。シナリオと関係ない詩ではサラは承知しませんよ」

「そうね。どうしょう」

「断るしかありませんね」

「今から、シナリオを持ってヘレンに頼んでくる。花、歌ってくれる」

「もう、時間切れですよ」

「来年の時間の先払いじゃ駄目」

「だったら、来年の1か月分で手を打ちますけど」

「1カ月」

「来年は、コンサートなんでしょう。何ヶ所か減らせば済むことです」

「んんんんん」

「サラに諦めてもらいましょう」

「あなた、断ってくれる」

「嫌ですよ。そんなことしたら、私、また、借りを作って、テレビ出演しろと脅されます」

「わかった。1か月分で前借りする」

「わかりました。じゃあ、すぐにシナリオをヘレンに届けてください」

「わかった」

「キャサリンさん。前借りは、これで最後ですよ」

「えっ」

「前借りが出来るのなら、3カ月なんて意味ありませんよ。3年分前借りすれば、私は1年中、歌手をしなきゃなりません」

「うっ」

「もしかして」

「違う、違う、そんなつもりはない」

「私、何も言ってませんよ」

「えっ」

「ともかく、今は、シナリオを届けることです」

「だね」

花は、集中力を切らすことなく、11曲のレコーディングをやり終えた。サラから頼まれた曲もアルバムに収録されることになった。

花と雪乃は、予定より2週間遅れで帰国した。

1カ月後、リズが逮捕されたという知らせが届いた。リズから曲を買った歌手は罪に問われなかったが、作曲も作詞も、その歌手の名前になっていたので、表沙汰になれば評判を落とすことになる。曲の著作権を売って欲しいと言っているらしい。

「どうする」

「わかりません」

「著作権で争うことはできる。でも、彼女の歌手生命は難しくなる。でも、花が、どうしても許せないのであれば、やむを得ないかもしれない。私も、好きな歌手だったから、とても、残念」

「これって、貸しに出来ますか」

「そりゃあ、できるわよ」

「いや、キャサリンさんに対する貸しにできるか、ということです」

「私に」

「はい。それが可能であれば、全権を委任します」

「考えてみる。あなたは、それでいいの」

「正直、どうすればいいのか、わかりません」

「そうか。また、連絡する」

三日後に電話が来た。

「花は、曲を世に出したいのよね」

「はい」

「あなたとヘレンの曲で、向こうにアルバムを作ってもらうのはどう」

「それは、有難いけど、相手は誰でもいいと言うわけじゃありません。向こうの歌を聴いてからの判断でいいですか」

「もちろん」

三日後に、キャサリンに電話をした。

「キャサリンさんに任せます」

「そう、話してみる。花のことは知っていると思う。裁判になったりしたら大変だし、花の曲が手に入るのだから、向こうに拒否する理由は無いと思う。あの曲の売値も決めていい」

「はい。よろしくお願いします」

この先、10カ月は曲作りに専念できる。父は、目標を達成したと認めてくれているが、花は、密かに、100曲CDにすることを目標にしている。今回の事件は、経緯に少し問題はあるが、曲がCDになるのであれば、許せる。


花のアルバムが発売されて、売り上げは好調らしい。母のデザインも高い評価をもらえた。花のアルバムから半年後に発売された、著作権で問題のあった歌手ローレン・アリシアのアルバムも好調だと聞いている。キャサリンが何度も説得したが、ヘレンは歌手にはならないと言っているらしい。

そろそろ、歌手期間が始まる。今年は、コンサートの年だ。

アメリカでステージに立ったことは内緒にしているので、キャサリンはいろいろと気を使ってくれる。キャサリンは、強引なところはあるが、人柄は信頼できると確信しているので、キャサリンと出会えたことは感謝している。今でも、口論にはなるが、その分、お互いの信頼関係は深まったと思う。歳の差はあるが、今では同志だと思っていた。つくづく、恵まれていると思う。

5ヶ所で公演される。

コンサートでは、専門のプロデューサーが担当する。スティーブ・カーンというベテランの男性プロデューサーが担当してくれた。

事前の打ち合わせも念入りにやり、10日間、ハードなリハーサルをやって、楽団との距離を縮める。立ち位置の調整、ライトの調整、初めてのコンサートということで、進行を担当する司会者との調整も必要だ。毎日、密度の濃いリハーサルで、花にも疲れが見えている。

最後に、通しのリハーサルが無事に終わって、3日間の休みがとれた。

花は、ホテルで、ひたすら寝た。休みの最終日にキャサリンが来た。

「どう」

「キツイです」

「初めてだもんね」

「レコーディングのほうがいいです」

「慣れるから」

「最後の日、見てましたよね。どんな印象でした」

「歌は、抑えてたわね」

「わかりました」

「わかるわよ。あのfarのオーディション見てたから」

「スティーブさん、何か言ってました」

「呑み込みが早くて助かる、と言ってた」

「そうですか」

他の歌手がどうだったのかは知らないが、プロデューサーの怒鳴り声は聞かなかった。余り怒鳴らない人なのかもしれないが、楽団や照明さんには声を荒げていたので、歌手は甘やかされているのかもしれない。

「リハーサルだけで痩せました。公演を5回もやったら、激痩せするんでしょうね」

「そうね、誰でも痩せるみたいよ」

「2年に1回、これをやるのかと思うと恐怖です」

「慣れるし、きっと楽しくなると思う」

「そうでしょうか」

「頑張って。あなたなら、必ず、成功する」

公演初日が始まった。

緊張はあるが、息苦しくなるような緊張はない。化粧や衣装が日常と同じことも影響しているのかもしれない。

それでも、1曲目は、まだ雑念があった。自分でも、その意識があったので、2曲目からは、自分を変えた。観客のことを意識せずに、歌だけに集中した。

次第に、客席からの空気が代わって来て、4曲目からは、広い会場の多くの観客の心をつかんだ。10曲目を歌い終わった時には、会場の空気は一変していた。総立ちの観客が拍手をし、アンコールを叫んでいた。

アンコールで用意されていたのは、イギリス民謡の「ダニーボーイ」だった。

最初は、花の独唱だったが、1番の歌詞で観客にも参加してもらい、更に、もう一度会場全体で「ダニーボーイ」を歌った。

コンサートは終わった。

大勢の人に肩を叩かれ、抱きしめられ、声をかけられた。

花は、疲労困憊で、口もきけなかった。

床に座り込んで、立てない。

雪乃が傍にいる。

「雪乃さん。疲れたよう」

「ごくろうさん。とても素晴らしいコンサートでしたよ。私、泣いちゃいました」

「ありがとう、でも、疲れた」

「おんぶ、しましょうか」

「お願い」

雪乃の背中に乗ったことは憶えていたが、それからの記憶はない。目が醒めた時は、ホテルのベッドで寝ていた。「お腹減った」が花の最初の言葉だった。

休息日はあったが、反省会と移動と公演前日のリハーサルで、それなりに忙しかった。

キャサリンが来ないな、と思っていたが、キャサリンも忙しかったらしい。

チケットの問い合わせ電話が鳴りやまなくて、会場側と交渉していたそうだ。

最終日の会場で、立見席を100席用意できただけだったらしい。

SNSでは、チケットがプレミア価格で転売されているという書き込みもあった。

最終公演のリハーサルにヘレンが姿を見せた。

激励に来てくれたのかと思っていたが、出演するらしい。

ヘレンの人生なのだから、ヘレンが決めればいいとは言え、心配はある。体にハンデがあることが、どこまで深刻な影響があるのか、花にはわからない。ただ、作曲と歌手という二つの仕事をやっている花には、作詞と歌手をやることは簡単なことではないと思っている。それでも、ヘレンが決めた事であれば、応援するしかないと思った。

「ごめんなさい」

「ヘレンが謝ることじゃない。私に出来ることは何でもする。遠慮しないでね」

「ありがとう、花」

花は、スティーブに提案した。

ヘレンは作詞家としてのペンネームに「KAZE」を選んだ。日本語の「風」をローマ字にしたものだ。花という漢字と風という漢字を説明するために、大きなパネルを作ってみてはどうかという提案である。

「いいね。やってみよう」

歌手にとっても、音楽ファンにとっても、作曲者と作詞家は裏方みたいな存在であり、その存在すら気にしていない人もいる。「KAZE」を「風」と発音する人も多くはないと思う。それを「風」と発音できれば親近感も湧くかもしれない。歌手になろうとしているのであれば、名前を知ってもらうことはメリットがあるはずだと思った。

当日、車椅子のヘレンがステージに並んだ時の客席は、驚きの反応だったが、名前の説明と、二人のハーモニーは、観客を魅了し、大きな拍手が鳴りやまなかった。

コンサートが終わり、荷物の整理をしている時に、キャサリンが来た。

「随分、ヘレンのこと、助けてくれたそうね」

「別に」

「ありがとう」

「でも、大丈夫なんですか。体だけではなく、家庭にも問題あるんじゃないですか。彼女を追い詰めることにならないか、心配です」

「でも、彼女は自立したいと願ってる。誰かが何とかしてくれるなんてことは起きない。彼女自身が立ち向かうしかないと思う。そんな彼女を、少しでも、支えてあげたい」

「私も、キャサリンさんも、体に障害はない。名家の令嬢でもない。そんな私達にできること、あるんでしょうか。私には、多分ですが、何も出来ないと思います」

「ま、それは、そうだけど」

「キャサリンさん、私のこと、子供のくせに生意気で、扱いにくいと思ってますよね。それでも、私は、タフですから、何とか前に進みますが、彼女は、どうなんでしょう」

「充分、注意する」

「お願いします」

「あなた、自分が生意気でタフな子供だと知ってるんだ」

「私は、こうするしかありませんので。私だって、可愛らしい子供のほうが楽だったと思います。でも、音が降ってくるんです。何も、私でなくてもよかったのに、音を受け取ったのは私なんです。仕方ないんですよ」

「花は花ね」

「生意気ついでに言っておきますけど、私、キャサリンに出会えたことが最大の幸運だと思っています。私が前に進めているのは、あなたのお陰ですから。それでも、私は、キャサリンさんと戦います」

「望むところよ」

チケット不足というトラブルはあったが、コンサートは終わった。早く、日本に帰りたい。それが、コンサートを終えた花の感想だった。


夜遅く帰ってきた父が、珍しく、音楽室に来た。

「お帰りなさい」

「今、一寸、時間いいか」

「はい。食堂に行きましょうか」

「いや、ここでいい」

「はい」

「今日、キャサリンさんが来た」

「えっ、日本に」

「かなり、困っているらしい」

「何かあったんですか」

「歌手時間を増やしてくれるように説得してもらえないか、と言う話だ」

「はあ」

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、という諺知ってるか」

「知りません」

「でも、意味はわかるだろう」

「何となく」

「将が花で、馬が私だ。お前を説得するために、先ず、親を説得しようという作戦だと思う。私達親子の関係を知らない人なら、そう思うのだろう。彼女は私達が契約で成り立っている親子であることを知らないのだから、仕方ない」

「で、お父さんは、何て返事したんです」

「花に聞いてくれ、と言っておいた」

「ふぅ」

「随分、追い詰められているようだ。話だけでも、聞いてみたら」

「確かに、日本まで来るということは、そうなんでしょうね」

「どうする」

「どうするって」

「花が話を聞くように説得すると答えた」

「私が嫌だと言ったら」

「その時は、そう伝える」

「何があったんでしょう」

「直接、聞いてくれ」

「彼女、かなり、困っているようですね」

「みたいだな」

「わかりました。時間とか約束したんですか」

「いや、まだだ」

「どうすれば、いいでしょう」

「私が彼女の立場なら、お前の住んでいる所、仕事場を見てみたいと思うだろうな」

「では、明日、ここに来てもらいましょう。時間は何時でもいいです」

「わかった。話してみよう」

「お父さんもいたほうがいいんでしょうか」

「私がいても、何の役にも立たない」

「では、私が会います」

「連絡しとく」

「はい」

翌朝、キャサリンが10時に来ることになったと聞いた。

「迎えに行ったほうがいいんでしょうか」

「道順は教えておいた。日本の友人がいたようだから、問題ないだろう」

「はい」

キャサリンは、10時に来た。

「すぐにわかりましたか」

「親切な運転手さんで、問題なく」

「よかったです」

「ごめんね。突然で」

「驚きました。あっ、日本茶でよかったんですか」

「私が、そうお願いしました」

「そうですか、そのお菓子は、父の会社のお菓子です。私は大好きです。よかったら、食べてみてください」

「いただくわ」

少し、恐る恐る口に入れたが、美味しいと思ったのか、一気に食べた。

「どうです」

「美味しいです。日本のお菓子初めてですが、おいしい」

「よかった」

「昨日、お父さんとお話しさせてもらいました」

「はい」

「これまでも、あなたが決めて、これからも、あなたが決める。お父様には何も出来ないと言われた」

「変でしょう」

「いや、凄いなと思った。あなたのこと、信頼していることがよくわかった」

「あの人、普通は、大人の判断とか持ち出すと思うんですけど、そうしないんです」

「きっと、それは、あなたが大人だから」

「まさか、私は気の強いだけの子供ですよ」

「そうかな」

「歌手時間の話だと父から聞きました。どうしたんです。あっ、その前に、仕事場見てみますか」

「見てみたい」

「じゃあ、仕事場で、話聞きます」

花は、仕事場である音楽室にキャサリンを案内した。

「いい部屋ね。ここで、あなたの音楽が生まれているのね」

「私も、この部屋、大好きです」

「お父さんが作ってくれたの」

「いえ、前にも話しましたが、私の母は、再婚なんです。父の奥さんは事故で亡くなりましたが、その方は音楽大学でピアノの勉強をしていた人で、その方が作った部屋だと聞いています」

「そう。花のお父さんは」

「火事で亡くなりました。父は、食堂をやってました」

「ごめんね、いろいろ聞いて」

「で、どうして、歌手時間が問題になったんです」

「ええ。コンサートが終わってから、一気にファンが増えて、CDも売れて。次のコンサートはいつだという問い合わせが増えて、2年後だと言うと、それが問題になって。SNSで、生意気だ、とか、ファンを何だと思っているのか、という投稿が増えて、今は、花の話題は悪い話しか出てこなくなった。ほんと、ビックリ。コンサートをやれ、という投稿ばかり。可愛さ余って憎さ百倍ってとこね」

「で、キャサリンさんは、どうしたいのですか」

「年に一回、1カ月でもいいので、コンサートをやるしかないのかな、と思ってやってきたの。でも、花とは約束あるし、お父様に説得してもらおうかと思って」

「年に1回が、年に2回になる、とは思わなかったんですか」

「そうなるよね」

「限界なのかもしれませんね」

「限界」

「歌手を片手間でやるというやり方の限界です」

「ん」

「方法は二つだと思います。全面的に歌手をやるか、歌手を辞めるかの選択だと思います」

「でも」

「中途半端は認めない、ということですよね」

「だとすると、あなたが選ぶのは後者よね」

「そうなりますね」

「でも、作曲はやめないんでしょう」

「はい。別の方法を探します」

「そうなるよね」

「なりますよね」

キャサリンは途方に暮れた顔で黙り込んだが、目を上げた。

「もう一つ、方法はある」

「どんな方法ですか」

「ほとぼりが褪めるのを待つ」

「キャサリンさんの会社は認めてくれますか」

「説得してみる」

「もう、いいかげん、私に、うんざりしないんですか」

「無理ね。私、これまでいろいろな才能に巡り合った。才能を見つけると、じっとしていられなくなるみたい。もう、職業病ね」

「それが、キャサリンさんの使命なんじゃないですか」

「そうかもしれない。最近の曲を聴かせてくれない」

「じゃあ、1週間前にできた曲、聴いてみます」

「お願い」

キャサリンが何も言わないので、花は3曲弾いた。

「ありがとう。少し、落ち着いた。やれるとこまで、やってみる」

「我儘な歌手でごめんなさい」

「ほんと、これだけ問題を起こす歌手は初めてよ」

そう言いながら、キャサリンは笑っていた。

その後、キャサリンからの連絡はなく、時間が過ぎていった。多分、板挟みになって苦労しているのだろう。花が心配しても状況は変わらないだろうから、花は自分の作業に集中した。そして、歌手期間が始まる2カ月前に電話が来た。

「歌詞は、どうする」

「ヘレンの所に10曲はあると思います」

「全曲、ヘレンでいいの」

「そうですね、じゃあ、何曲か送りますので、キャサリンさんのほうで振り分けてもらえます」

「わかった」

「ところで、ヘレンは、どうなんです」

「それがね、ウォルター家の許可が出ないみたい」

「それは、厄介ですね」

「ウォルター家の人間を晒しものにするわけにはいかない、ということらしい」

「晒しものですか」

「歌手になることが、晒しものになるという発想は驚きだけど、あの人達にとっては、そういうことなのかもしれない」

「ヘレンは、どうです。落ち込んでませんか」

「何とか、耐えているみたい」

花が日本ではなくイギリスに長期滞在することが譲歩案になるのかどうかは確かではないが、キャサリンに頼んで部屋を借りてもらった。3カ月間専属で使えるスタジオも借りてもらった。借りた部屋には、型の稽古ができるだけのスペースを作る改造もしてもらった。歌手期間を増やすという選択肢はないが、3カ月間は、誠心誠意歌手をやることを知って欲しかった。それが、孤軍奮闘するキャサリンに対する花なりの礼儀だと思った。家事をする時間はないので、家事をやってくれる人も雇った。出費は大きいが、花に支払い能力ができていたことも大きい要因だった。

2枚目のアルバムを作るために、花は雪乃と二人でイギリスに入った。雪乃は3カ月間花専属のボディーガードになる。迎えに来てくれたキャサリンに案内されて、アパートの部屋に入った花は、その部屋が一目で気に入った。3階の部屋は眺望もいいし、何よりも静かだった。エレベーターはないが、そんなことは気にならない。

「どう」

「いい部屋だと思います」

トレーニングルームも気に入った。雪乃もそうだったようだ。

「この部屋、私も使っていいですか」

「もちろんです」

台所と食堂、2つの寝室、そしてトレーニングルーム、探すのが大変だっただろうと思う。

「キャサリンさん、ありがとうございます」

「気に入ってもらえたようで、よかった。スタジオは歩いて10分。案内するわ」

「お願いします」

一日の大半を過ごす場所だから、スタジオが心配だったが、古いスタジオではあるが、問題はなさそうだ。

「少し遠回りになるけど、帰りはマーケットの方から帰りましょう」

賑やかなマーケットを抜けると、静かになる。

「ここは」

「ああ、空手道場だと聞いた。聞いただけだから、どうなのかはわからない」

「外国人でも、入会できるのかな」

「聞いておこうか」

「はい。たまには、広い場所で思い切り練習してみたいとずっと思っていました」

雪乃も、頷いている。

「キャサリンさん。よく、こんな場所見つけたもんだと驚いています。まるで、私のためにあるような場所じゃないですか」

「だったら、よかった」

部屋に戻ると、ドアの前に一人の中年女性が立っていた。

「あっ、ごめんなさい。待たせました」

「いえ、今、来たとこです」

「とりあえず、中に入りましょう」

女性は、ローレン・コファーという家事を担当してくれる人のようだ。

「石井花です。よろしくお願いします。Hanaと呼んでください」

花は、日本流の挨拶をした。

「知ってます。私の娘も、私もですが、あなたのファンです」

「ありがとうございます」

「道中雪乃と言います。花のボディガードをしています。よろしくお願いします。私のことはyukiと呼んでください」

「yuki」

「ローレンは近くに住んでいる方で、私の友人の紹介なんですが、この手の仕事は初めてだそうです。ただ、信頼できる方だと聞いています。お互いに話し合いは必要でしょうが、いいパートナーになってくれると思います」

こうして、花のイギリス生活が始まった。

翌日から、花は新しいアルバム曲の練習を始めた。この3カ月の花の仕事は歌うことだ。環境の変化は負担ではない。

あっという間に1カ月が過ぎ、空手道場にも入会した。ローレンともうまく行っている。エレベーターがないので部屋にヘレンを招待することはできないが、スタジオには来てもらい、旧交を温めた。歌詞の細かな修正もしてもらった。

日曜日には道場に行く。道場は年中無休で、休日だけ来る会員もそれなりにいる。いや、練習よりも、花を見ようとする会員もいて、普段の練習と変わらないくらいの人数だと言っていた。衆人環視の中での練習には困ったが、思い切り体を動かせることは気持ちいい。雪乃の型からも学ぶことが多い。

ある日、練習を終えた二人の所へ、道場主でもある師範がやってきた。

「子供達が、指導して欲しいと言っているんだが、どうだろう」

「ごめんなさい。私も、修行中です。指導できる立場ではありませんので」

「道中さんは、どうです」

「そうですね。お世話になっていますので、短時間なら協力してもいいです」

「ありがたい。では、1時間だけ、ということでお願いできませんか」

「わかりました」

「こりゃあ、くじ引きが大変だ」

師範は、駆け足で戻って行った。

「雪乃さん、いいんですか」

「何とかなるでしょう」

「助かります」

「花さんの型を手本にして教えれば、皆、喜んでくれるでしょう。私が地元の人に出来ることがあるなら、よそ者としては有難いことです」

「私からもお願いします」

「ここに来ている人も、花さんへの批判は知っているでしょう。少しでも味方を増やしたいです。ローレンさんも娘さんも、花バッシングを怒るようになりましたし。そもそも、私の仕事は花さんを守ることですから、気を使う必要はありません」

「雪乃さん」

翌週から、一日1時間、一人30分で、二人の会員の指導が始まった。女性の指導者は初めてで、指導を受ける子供も女の子に限定されているようだった。

花は、帽子とマスクで顔を隠していると、逃げ回っているようで嫌だった。イギリスで生活をすると決めた時から、帽子とマスクはやめた。そのために、SNSでは花の映像や画像が出回ることになり、道場で型の練習をしている時の映像まで出てきた。雪乃が抗議をし、道場へのスマホ持ち込みは禁止になった。

月曜から土曜日まで、日曜日の午前中の空手の練習が終わった後と、連日、遅い時間まで曲の練習は続いた。集中してやっているので、疲れは出る。それでも、このアルバムは成功させなければならない。最初は臨時のピアニストに伴奏をやってもらっていたが、実際の伴奏の音源が来てからは、一人でやった。納得できるまで、続けた。声をかける者はいない。雪乃も見守るだけだった。キャサリンが様子を見に来ることがあったが、言葉を交わすこともなく帰っていくこともあった。

キャサリンを送って部屋を出た雪乃に、心配そうな声でキャサリンが話しかけた。

「大丈夫かな。体、壊したりしないかな」

「わかりません」

「少し、注意したほうがいいのかな」

「多分、聞く耳はないでしょう」

「そうよね」

「彼女は、プロです。彼女にとって年齢は関係ないのだと思います。私は、そんな彼女から多くを学んでいます。プロの仕事を見せつけられているように感じてます」

「そうね。何かあったら、頼むわね」

「はい」

花は、何キロか体重は落ちたが、体調を崩すことなく、レコーディングを終えた。

成田空港には、いつものように父が迎えに来てくれていた。

「お疲れ。痩せたか」

「そうでもないです」

「道中さんも、ありがとう」

「ほんと、雪乃さんがいてくれて、ほんとに助かった。ありがとうございます」

「いえ。私は仕事ですから。もっとも、仕事らしい仕事はしていませんが、私の仕事がないことが花さんの無事の証明ですから、満足です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る