第3話

日本に戻ってすぐに、契約書の案が送られてきた。

2日後、学校を終えた花は、達意と共に弁護士事務所へ向かった。

「こちら、三田弁護士です。芸能関係の契約を多く手掛けてこられた方です。今は、息子さんが引き継いでいますが、無理言って協力を頼みました」

「三田です」

「石井です。娘をよろしくお願いします」

「石井花です。よろしくお願いします」

「最初に、あなたの希望をお聞きしましょう」

花は、音が降ってくる話と、作曲をしたいこと、時間が欲しいことを話した。

「そのことは、先方と話をしましたか」

「お願いしました」

「昨日送ってもらった先方の契約書は、ごく一般的な基本契約であって、多分、多くの方が同じ内容の契約をしているものと思います。石井さんに特別の要求がないのであれば、問題はないと思いますが、どう思いましたか」

「とても、不安です。父と二人で遅くまで話し合いましたが、歌手をしないで済む内容ではないと思いました。私のやり方が良くなかったことは認めます。あくまでも、私は、臨時の歌手のつもりだったのですが、それは私の都合に過ぎなかったということのようです。私の曲を歌ってくれる歌手を探して欲しいとお願いしました。でも、音楽社の方もテレビ局の方も、私に歌えと言うのです。確かに、私が歌って、それを審査してもらったのですから、先方の要求は間違っていません。でも、この先は、私は曲の提供だけにしたいのです。歌手をやる時間はありません」

「だとすると、こちらの条件を含んだ契約書が必要になりますが、それは、相手の契約書を、ある意味、破棄することにもなります。先方が納得しなければ、多分、納得はしないと思いますが、こちらの契約内容を押し通せば、あなたの曲を採用するという取引は成立しないこともあります。それは、いいのですか」

「今回の曲については、歌うと約束してきましたので、その約束は守らなければならないと思います。ですから、歌うのは、今回が最後としてもらいたいのです」

「仮に、先方の基本契約を否定するのではなく、先方の契約書にその点を追加した文章を書き加えて場合でも、相手が受け入れなかった場合は、取引が不成立になることは承知していてください」

「はい」

「折角、採用されたのに、それでいいのですか」

「はい、別の方法を探します」

「そうですか。これは、余計な老婆心に過ぎませんが、私が音楽社の弁護士だったら、あなたのような相手と契約をしないよう進言したと思います。確かに、才能は惜しいのでしょうが、企業は才能を守ることが仕事ではなく、利益を出すことです。契約書は、自分の利益を守るために交わすのであって、相手の要求を呑むためのものではありません。もちろん、相手の要求を呑んでも、それでも、こちらに利がある場合であれば別です。先方に利はあると思いますか」

「わかりません」

「大変な努力をして採用してもらった曲だと思いますが、それでも、取引不成立になる危険を承知で、あなたの要求を書き加えたいですか」

「はい」

「お父さんは、どう思います」

「この子の思い通りにしたいと思っています」

「そうですか。仕事としてやるのであれば、あなたの希望通りの文章を書き加えた契約書を作ることは簡単ですし、そうしたと思います。でも、私は、今、友人のお客さんにアドバイスする役目を負っていると考えています。この打ち合わせを商売とは思っていません。あなたにとって最善な方法を提案することが私の役目です。この契約であれば、先方は、あなたにもっと歌えと要求できます。しかし、あなたが絶対に従わなければならないのかと言うと、そうではありません。話し合いと言うか、力関係で決まります。あなたが、承諾しなければ、歌う必要はありません。先方に出来ることは、契約破棄しかありません。もちろん、こちらにも契約破棄する権利はあります。確かに、その都度交渉するのは面倒かもしれませんが、個人的には、交渉することをお勧めします。最初から喧嘩するメリットはないと思いますが、いかがでしょう」

「そうですか。ありがとうございます。花、先生の意見、私は有難いと思う。どうだ」

「はい」

「役に立てなくて、済まないね」

「いいえ、ありがとうございます」

「花ちゃん。CDできたら、私にも1枚分けてもらえないか」

「もちろんです」

「成功を祈ってるよ」

「ありがとうございます」

数日後、郵送で契約書が3通送られてきた。花は未成年だから保護者のサインも必要だと聞いていた。

2週間後、伴奏の音源が送られてきた。

早速、歌ってみた。

別に歌い難いということはないが、途中の、多分、ホルンの音だと思う部分が気になる。なぜ、そこに、その音が必要なのかがわからない。歌の勢いを止めるだけにしか思えない。早苗先生に相談したら、その部分のホルンだけ外せるかどうかやってみようかと言われ、急いで走った。送られてきた音源を入れたUSBをパソコンに挿して、作業をしてくれた。

「多分、取れていると思う。歌ってみる」

「はい」

思っていたように、ホルンの音がないと歌いやすい。

「どうして、ここに、あの音が必要だったんでしょう」

「さあ、聞いてみたら。私のアレンジは自己流だけど、これはプロの人がやったんだろうから、なにか、意味があるのかもしれない」

翌日、キャサリンに電話で聞いてみた。

「わかった、調べてみる」

すぐに、返事が返ってきた。

「新しい音源、送るから」

「あの音が、どうして、あの場所にあったのか、理由は、わかりますか」

「謎ね」

「謎」

「そう言ってた。調べておくわ」

「お願いします」

「どう、他に問題はない」

「はい」

「レコーディング予約決めていいかな」

「はい」

「日が決まったら連絡する。学校の方、少し余裕を持って休みとってくれると助かる」

「そうします」

花は、テレビ主題歌に採用された「far」の練習に時間を割いたことで、曲作りの時間が減ったことを実感している。

レコーディングの日程が決まって、母が学校へ10日間の欠席を連絡してくれたが、2度目なので理由を聞かれたらしい。本人が「学校に行きたくない」と言ってるからと答えると、急に声が変わったと言っていた。

「花のクラスで、いじめはあるの」

「あるみたいよ」

「花は」

「私は、平気。一度、トイレで絡まれたけど、壁ドンしたら逃げ出した。それから、私のことは避けているみたい」

「無茶しないでよ」

「もちろん、私からはしない」

「ほんと、気が強い。誰に似たのかしら」

「そりゃ、お母さんに決まってるじゃない」

「馬鹿言わないで」

ロンドンへは、雪乃と二人で出かけた。

英語での会話であれば、少しわかるようになっていたけど、会話は全部雪乃を通してしていた。そのほうが、考える時間が取れるから。

レコーディングは、初めてのことで戸惑うことも多かったが、試行錯誤は覚悟の上だったので、時間はかかったが、何とか乗り切れた。

キャサリンは褒めてくれた。

「これで、ひと段落ね」

「ありがとうございます」

「これからのこと、話ししましょう」

「お願いします」

「まだ、歌手になる気は、ないみたいね」

「はい」

「私も、諦めていない。14歳のあなたに40歳の私が何を言っても説教にしか聞こえないかもしれないけど、どうしても、わかって欲しいの」

「はい」

弁護士が言っていた交渉が、早速、始まっているようだ。

「あなたは、まだ社会人じゃないから、社会のルールに縛られることはない。ただ、あなたの曲が採用されて、それがドラマで使われて、CDが発売される。そして、あなたは、その対価として著作権料を受け取る。それは、まだ14歳だけど、社会の一員になってしまったということなの。それは、わかってくれるわね」

「はい」

「社会の経済活動は、価値を提供する人と、その価値を買う人で成り立っている。だから、価値を提供する人は、それを買ってくれる人を無視できない。価値は、買ってくれる人が価値だと認めてくれなければ、価値ではなくなる。難しいかな」

「いえ、わかります」

「ドラマがヒットして、あなたの曲がヒットしたら、あなたには価値を維持する責任が生まれるの。あなたのCDを買った人は、あなたの曲を、歌を、もっと聴きたいと思う。あなたには、曲を、歌を、提供し続ける責任がある。法律で決まってるわけではないけど、これが、社会のルールだと思う。だから、あなたは歌わなければならない」

「わかります。14歳でも、わかります。でも、それでも、私は曲作りを優先したいのです。それも、私の責任なんだと思います」

「あなたには、作曲の才能がある。驚くほどの才能だと思う。でも、それに負けないくらいの声を、歌唱力を持っている。私も、正直、あなたの才能は1つでよかったのに、と思う。でも、何とか、この現実に対応しなければならない。だから、歌わないという結論は出さないで欲しいの」

「私が、歌わない、と言ったら、キャサリンさんは、どうするのです」

「そうね。あなたの担当を降りるしかない、と思う」

「別の方が担当してくれるのですか」

「それは、私にはわからない」

「曲を売るという仕事、曲を買うという仕事は、ないんですか」

「それは、あるけど、私の担当ではないから、詳しくはわからない」

「そうですか」

「あなたは、歌うことが嫌いなの」

「好きでも、嫌いでもありません。時間が欲しいだけです」

「あなたの気持ち、頭では理解できるのよね。でも、どうしても、納得いかない。私に才能がないからかもしれないけど、どうして、才能に封印するのか、そこが、わからない。作曲が一番だとすると、二番は何」

「うーん。困ります。私には、一番しか見えません」

「だったら、二番が、歌うことでも、いいんでしょう」

「そこは、よくわかりません」

「私ね、ずっと、眠れない毎日なの。何か方法はないか。そればかり考えてた。一つ提案してもいい」

「はい」

「3カ月だけ、歌手をやる。9カ月は作曲に専念する。どう」

「3カ月ですか」

「あなた、作曲だけが目的じゃないよね。最終目的は、世界中の人にあなたの曲を届けることだよね」

「はい」

「あなたが歌えば、あなたの曲は、確実に世界に届く。あなたは、その手段を持っている。世界中の人に届けたいという目的は、あなたが時間を生み出して歌うことは、作曲の最終目的を達成する役に立つ。そう思わない」

「はあ」

キャサリンに諦める気持ちはないことだけは、はっきりしている。それでも、3カ月も時間を取られたら、曲作りは今よりも遅れる。しかし、誰も聴いてくれない曲を作るのは、キャサリンか言うように無駄でしかない。

「雪乃さん」

「はい」

「私、この人に丸め込まれようとしてます」

「確かに、そう見えますね」

「ちょっと、待って、日本語での会話は無しにして。通訳さん、全部、英訳して」

「この会話も、通訳しろと言っています。どうします」

「断ってください」

「英訳はするなと言ってます」

「もう」

「花さん。正直に言いますね。私も、花さんの歌、もっと聴きたい。ごめんなさい。でも、自分を曲げるのも違うと思います。私にはわかりません」

「そうよね。これは、私の人生だから、私が決めるしかない。そう、父に言われました」

「私も、そうして欲しいです」

「キャサリンさん。3カ月の提案、有難く受けます。でも、最初の年は、最初の3カ月は、歌手になるための、勉強と訓練に使わせてください。私、ずっと迷っていたのですが、今日で踏ん切りがつきました。学校、辞めます。中学は卒業しますが、進学はしません。そうやって、曲作りの時間を作ります」

「それで、いいの」

「仕方ありません。私には、キャサリンさんの協力が必要です」

「雪乃さん。私、間違ってますか」

「いや、間違っていないと思います。ただ、正直、花さんは化け物だと思います」

「それ、誉め言葉ですよね」

「もちろんです。私の想像を超えているだけで、凄い奴だ、と思っています」

「その内緒話はやめて」

「ごめんなさい」

「私としては、苦渋の提案でしたが、少なくとも、まだ、二人で、いや、三人か、曲作りができることは、とても、嬉しいことです。この仕事の職業病なのかもしれませんが、才能に出会うと、挑戦したくなってしまって、止まりません。私があなたの母親なら、学校を辞めるなんて認めません。あなたのご両親は大丈夫なの」

「はい。褒めてくれると思います。結果はわかりませんが、少なくとも、自分で決めることができたことを褒めてくれると思います」

キャサリンも雪乃も、この瞬間も花が借金を増やし続けていることを知らない。何としても、世界に挑戦をしなければならないのは、キャサリンではなく、花なのだから、学校を切り捨てることなど、大したことではない。高校検定を受ければ済む。

「ちょっと、休憩しましょう。私、もう、限界」

「私もです」

「明日も、ロンドンよね」

「はい」

「じゃ、明日、この先のことを話しましょう」

「はい」

間宮の父さんは褒めてくれるだろうか、それとも、無茶するなと怒るのだろうか、何とかして、大好きだった父を取り戻したかった。石井の父には悪いが、今でも、花の中にいる父は間宮の父だった。

「最初の年の歌の期間だけど、ロンドンで勉強したいのなら、紹介するけど」

「いえ、まだ、3月までは学生ですから、日本で先生を探します」

「そう。紹介しようか」

「ご存知なんですか」

「いや、日本の音楽社に友人がいるので、彼女に頼みます」

「ぜひ、お願いします」

「わかった。次の年は、アルバムを出したいけど、どう」

「何曲くらい必要ですか」

「10曲以上であれば、何曲でも」

「でも、3カ月で練習できる曲だとすると、そんなに多くは無理ですね」

「じゃあ、10曲用意するということで、どう」

「10曲ですね」

「あなたは、作詞はできないと言ってたわね」

「はい。全く、言葉が出て来ません」

「科学者の友達に頼めるの」

「いえ、彼女には彼女の仕事がありますから、できれば、専門の作詞家の方を紹介してくれると嬉しいです」

「だったら、歌詞の公募をしてみたらどうかと思っているんだけど」

「公募ですか。よくあることなんですか」

「あんまり、ないわね。新しい作曲家の曲に新しい作詞家が協力するのは、選択肢としては有るのかな、と思う」

「やりたいです」

「やってみましょうか。来年の歌手期間の少なくとも半年前には曲が必要になるけど、曲は、もう、あるのよね」

「はい。10曲必要ですか」

「いや、1曲でいい。優勝者に残りの9曲を依頼してもいいし、別の人の詩を、もっと見てみたいと思ったら、分散してもいいと思う。もっとも、何人応募してくれるのか、その中に使える詩があるのかは未知数だけど、やってみる価値はあると思う」

「ぜひ、お願いします」

「じゃあ、3年目。コンサートを出来る限り多くやりたい。ファンは、あなたのコンサートを待ち焦がれることになると思う。あなたの生歌は、凄いと思う。あなたがあのオーディションで歌ったのを見て、私、ほんとに、度肝を抜かれたの。コンサートをやれば、あなたは世界の歌姫になると思う。あのオーディションでも、あの部屋にいた人全員の心を、あなたは鷲掴みにした。そうよね、通訳さん」

「はい」

「どうして、あんな魔法をかけられるのか知りたい。どうしてるの」

「何も、してません、ただ、私に見えている景色を皆さんにも見てもらいたいと願って歌いました」

「悲しくて、でも、その先に希望を探していて、必死に生きようとしている人の表情が私には見えた。それが、あなたが伝えたいことだったのかどうかはわからないけど、他の人の表情を見ていても、皆、同じ景色を見ているように思えた。あれは、魔法よ。コンサートでは、観客はあなたの魔法に翻弄されることになるでしょう。あなたの凄さは、コンサートでしか体験できないのかもしれない。私は、3年先が楽しみ」

「そうなれば、いいですね」

「きっと、歌手をやってよかったと思える日が来ると思う」

「なりますかね」

「なります。その時は、私に感謝してね」

「はい」

「4年目はアルバム、5年目はコンサート。その繰り返し。できれば、作曲に目途がついて、歌手の時間を増やしてくれる日が来ることを願ってる」

「はい。頑張ります」

「それと、この3カ月は、あなたと私の約束だから、あなたが別の仕事を受けた時は、あなたの持っている9カ月の中でやってもらいます」

「そんなことは起きないと思いますけど」

「例えば、サラから頼まれたらどうする」

「サラの仕事はキャサリンさん経由なんじゃないんですか」

「うちの会社が入らないこともある。例えば、ドラマ出演とか」

「それは、考えませんでした。でも、断りますよ。歌うことだって制限しているのに、ドラマなんてあり得ません」

「あなた、自分のこと、どう思ってる。特に、ビジュアルについて」

「普通の女の子だと思いますけど」

「通訳さん。あなたは、どう思う。日本では、花は普通なの」

「いえ、かなり、いや、高いレベルで、美しいと評価されると思います。特に、この先、数年後には、もっと綺麗になると思います。私の友人にも、中学時代と高校時代で別人のようにきれいになった娘がいました。女の私でも、息を呑みました」

「そう。イギリスでも、いや、他の国でも、そう評価されても不思議じゃないと思う。だから、あなたにとって、サラは、かなり危険な人物の一人だと思う。ドラマに出演しろと迫ってくるんじゃないかな」

「ああ」

「もちろん、私も、あなたの応援をするけど、あの人は、かなり手強い」



花は案内された小さな会議室で10分ほど待たされた。

部屋に入ってきたのは、小太りの中年女性と年配の男性だった。

花は、ゆっくりと立ち上がり、軽く頭を下げた。

「どうぞ、座って」

「はい」

「石井花さん」

「はい」

「こちらは、三松先生」

「よろしく、お願いします」

「うん、よろしく」

「私は、増田です」

「よろしく、お願いします」

「驚いたわ、こんな若い娘だとは思わなかった。いくつ」

「14です」

「そう、もっと若く見えたわ」

「はあ」

「よく、言われるの」

「はい、イギリスでは、小学生だと言われたこともあります」

「そう、あの石屋のお嬢さんなのね」

「お嬢さんではありませんが、石井達意の娘です」

「はっきりしてるようね」

「ごめんなさい」

「いや、話がしやすくて嬉しい」

「・・・・」

「キャサリンは、歌手としての訓練が受けたいと言ってたけど、そうなの」

「はい」

「あなた、歌手でしょう。あなたのCD聞いたけど、先生が、何を教えるんだ、と言っているの」

「いえ、私は、歌手ではありません。あのCDは間に合わせで歌ったのが、そのままCDになってしまったみたいなもので」

「歌手じゃない」

「はい。私の仕事は作曲です」

「そうなの」

「はい、曲を聞いてもらうために、自分で歌って。そしたら、そのままでいいから、と言われて。専門の歌手の方にお願いしたいと言ったのですが、そのままでいいと」

「それで、レコーディングした」

「はい」

「初めてでしょう」

「はい」

「怖くなかった」

「いえ、怖かったです。でも、キャサリンさんに乗せられてしまって」

「そうか、あの人、凄腕だから」

「そうなんですか」

「で、本格的に、歌手になれ、と言われた」

「そうです。強引に、です」

「人前で歌ったことは、ない」

「いえ、テレビ局のサラさんと、テレビ局の偉い人達と、キャサリンさんの前では歌いました」

「普通に、歌えた」

「普通に、歌うように言われましたので」

「そう。度胸はある」

「いえ」

「どうします。先生」

「一応、念のため、この後で歌ってもらうけど、教えることはないと思うよ。自己流でここまでやるのは驚きだけど、もう、歌手と言ってもいい。レッスンを受けなければならない歌手は山ほどいるけど、君は違うと思う。ただ、歌手を続けるためには喉の訓練は欠かせない。訓練はしているのかな」

「いいえ、何も」

「じゃあ、訓練法を教えるので、いいかな」

「でも、発声法とか、呼吸法とか、ありますよね」

「発声も、表現も、今のままでいいと思う。君なら、歌っていけば、勝手に上達する。いや、歌い続けることが一番だと思う」

「イギリスで、キャサリンが、この娘に歌わせたのは正しい、ということ」

「その人、凄腕なんだろう。その人が歌えと言うなら、もう、歌手なんだろう」

「そうか。そうよね」

「石井さんがしっかりした方のようだから、言っておくけど、この先生が引き受けるは珍しいの。私達の業界では変人と言われている人だから」

「おい、おい」

「キャサリンは、レッスン料は言い値でいいと言っている。そのことは知ってる」

「いいえ、知りません」

「D.ミュージックが出すみたいよ」

「そうなんですか。その話は聞いていません。もちろん、断りますけど」

「断る」

「はい。あの人は、無理を言うに決まっていますから。借りは作れません」

「でも、この先生、高いよ」

「大丈夫です。自分で何とかします」

「ま、お父さんに頼んでもいいんだし」

「いえ、自分で」

「そう。先生、いいですか」

「ああ」

「ところで、どうして、イギリスなの。あなたのルックスとあの声なら、日本でもやれると思うけど」

「私の曲は、日本では難しいと思います」

「そうか、あなたにとっての一番は曲なんだ」

「はい」

「歌手は、曲を出すための手段」

「はい」

「今は、キャサリンとあなたの戦いなのね。彼女が必死な訳がわかった。でも、あのキャサリンが必死になるのは、歌手としてのあなたに期待しているということになる。私としては、キャサリンの味方したい気分だわ。歌手に対する抵抗感が強いのは、なぜなのかしら」

「時間です。作曲に時間を使いたいと思っています」

「作詞は」

「全く、できません」

「だったら、あなたの曲に、日本語の詩をつけて、誰かに歌ってもらえば、問題はないということね」

「まあ、そうですけど。私の曲は日本では受け入れてもらえないと思います」

「どうして」

「私が、そう思うからです」

「そうね。若いあなたには、そう見えるかもしれないわね。10代の音楽ファンは、私達にとっても大事だし、大きな力になっている。けど、音楽を好きな人は10代だけではない。音楽は全世代に愛されている。このCDの曲を日本語の歌詞で、あなたの歌でレコーディングすれば、売れると思う。チャートで1位になることはないかもしれないけど、あなたの曲を好きになってくれるファンは、かなり多いと思う。あなたの曲は英語と相性がいいのかもしれないけど、そうだとしても、洋楽が好きなファンは大勢いる。私は、あなたの曲好きだし、そう思う人も少なくないと思う。ドラマに洋楽が使われることだってある。日本でも、充分、受け入れてもらえると思う。ただ、これは、あなたの仕事だし、あなたの人生だし、あなたが決めることであるのは間違いないと思う。それでも、若くはない私達の意見も聞いて欲しい。あなたは、CDを出したことで、社会人になってしまった。学生なら、私には関係ないと言えるかもしれないけど、社会人には、それなりの責任もあり、それに応える義務もあると思う。私達のような年配の音楽好きにも、配慮して欲しいと思っちゃいけないのか、なんて考えてしまう」

「社会人、ですか」

「そう」

「キャサリンさんにも、社会人としての責任を果たせ、と言われました。それでも、私は作曲を大事にしたいんです」

「そう。あなた、高校はどうするの」

「行きません」

「作曲の時間を作るため」

「そうです」

「随分、時間、増えると思うけど」

「その時間も当てにしています」

「そうなの。何曲くらいとか目標はあるの」

「作れるだけ作るのが目標です。いつか、作れなくなる日が来るまで」

「今まで、何曲、作ったの」

「30曲くらい」

「30曲。凄い数ね。いつから始めたの」

「中1です」

「2年、驚きね。卒業したら、もっと増えるのよね」

「はい、年に50曲は完成させたい、と思っています」

「完成」

「はい」

「ってことは、フレーズはあるってこと」

「はい」

「何曲」

「多分、100くらい」

「驚いた。きっと、その100も増えるのよね」

「今の所、増えています」

「と言うことは、作曲から解放される日は来ない、と言うこと」

「そうなるかもしれません」

「おい、おい、今日はレッスンの話だろう」

「あっ、ごめんなさい。つい」

「先生。時間ですけど。最大3カ月で大丈夫でしょうか。中学を卒業したら、習5日でもいいですが、それまでは、授業がありますので、週に1日で」

「大丈夫だろう。発声訓練だけだから。ただし、最初だけは、10日ほど、夜でもいいので、毎日、来てもらう。それと、練習は、365日やってもらう。歌手を辞めるまで毎日」

「はい」

「私のスケジュールに合わせてもらえるか」

「はい」

「じやあ、明日にでも、スケジュールを送る」

「はい」

「レッスン料は、3カ月で500万円、これも、いいかな」

「はい。大丈夫です」

「君、ほんとに、中学生なの」

「キャサリンさんと戦ってますから」

「そうかもしれないわね。でも、彼女は誠実な人だから、戦う相手としては間違っていないと思う」

「勝つ方法は、ありませんか」

「うーん、わからない」

「よく考えると、私、全敗みたいなんです」

「でも、彼女と出会ったことは、あなたに運があるということだと思う。あんな凄腕とは、なかなか、出会えるもんじゃない。彼女が推した歌手は成功しているし、実績は最大の武器だと思う。だから、あなたも成功すると思うわ」

「でも、強引です」

「そうね。それは言えてる。今回の件でも、一流の先生を紹介しろと言ってきかない。私、彼女にはそれほど義理はないのに、臆したところがない。そんなの当たり前でしょうって言い方、ちょっと、ムカついたけど、気持ちはわかる」

「すみません。ご迷惑かけて」

「いや、私に声をかけてくれて、私は嬉しいと思っている。確かに、強引だけど、迷惑だなんて思っていないわ」

「ありがとうございます」

三人は、音楽室へ移った。

「私、楽譜は持ってきませんでしたが」

「大丈夫。キャサリンから貰ってる。先生には、ピアノのアレンジもしてもらってる。あなたは、歌うだけでいいわよ」

「ありがとうございます」

先生がピアノの前に座り、楽譜を広げた。

「あの」

「ん」

「少し、練習してもいいですか。レコーディングの時に歌ったのが最後で、一度も歌っていませんでした」

「いいよ。伴奏は」

「自分でやってもいいですか」

「楽譜は」

「自己流のアレンジで」

「わかった」

ピアノを譲ってくれ、花は、久しぶりに「far」を弾いた。レコーディングの前に猛特訓をして弾いていたので、指が憶えてくれていた。切れ切れに歌詞を歌い、花は、歌の中へ入っていった。テレビドラマの情景も浮かんだ。

「お願いします」

「ん」

ピアノを譲り、横に立って、窓の方を向いた。

三松の演奏が始まった。最初の数音でアレンジの先が見え、曲に入る準備は出来た。

三松の方を見ていなかったが、すんなりと言葉が出て、次第に、乗って行けた。自分で作った曲だから、当たり前のように、ピアノを支配し、クライマックスへと向かう。

三松のアレンジは、楽しかった。

歌うことを楽しいと感じたのは初めてかもしれない。

三松は、次の曲へ移り、一体になり、あっという間に二曲を歌った。

最後は、三松の目を見ながら、心地良い演奏に身を預け、三松が花の声を受け入れてくれていることを実感した。

数秒後、増田の拍手が聞こえたが、三松も花も、余韻の中にいた。

「素晴らしい。別の曲みたいだ」

「ありがとうございます。先生のアレンジで、今日は、歌っていて、楽しいと感じました。初めてです」

「そうか、それはよかった」

「先生は、アレンジもやるんですか」

「いや、滅多にやらない」

「お願いしたら、やってくれますか」

「さあな、わからんよ」

「歌手をやるのなら、先生のアレンジで歌ってみたいです」

「それは、ありがとう」

増田が二人の間に入ってきた。

「ねえ、ねぇ、やっぱ、日本でも歌って欲しい」

「えっ、だから、それは無理です」

「増田さん。今日はレッスンの話で、花さんを日本で歌手にする話じゃないよ」

「それは、わかっていますが、この声を聞いて、黙っていろと言うほうが無理ですよ」

「それは、別の機会に」

「でも」

「ごめんなさい。何度言われても、譲れませんから」

「もう」

「では、先生。スケジュールの連絡を待っています。あと、契約書を作りますので、いや、キャサリンが契約書を用意すると言っていますので、それも、よろしくお願いします」

「わかった」

不満げな顔のままの増田と笑顔で送ってくれた三松に別れを告げて部屋を出た。

音楽会社の人と会ったのは2人だが、担当してくれた人は、どちらも、厄介な人だった。これが普通なのかもしれない。流されていたら、いや、流されているのかもしれないが、「自分を強く持て」と自分に言い聞かせる。


ドラマがヒットし、主題歌のCDもヒットした。キャサリンの預言が当たってしまったことになる。こうなると、サラから難題が出てくる可能性を示唆していたキャサリンの預言が当たらないことを願うしかない。

花の希望は、降ってきた音を出来るだけ多く世の中に出すこと。1曲でも2曲でもヒットすればいいと思っていたが、最初にヒットしたことは、喜んでいいのか、心配しなければならないのかわからない。少なくとも、自分の勝手な思惑がそのまま通らないことだけは確かなことらしい。そんな心配をしていたら、サラから電話があった。

「久しぶり、元気にしてるか、我が娘よ」

「はい。元気です」

「それはよかった。今度、特別番組で単発のドラマを撮ることになった。Farの続編みたいな番組で、花にも協力してもらいたいと思っている。スケジュールは空いているかと思って電話した。今、忙しいか」

「新曲ですか」

「いや、あのドラマのテーマ曲を歌う花を撮りたい」

「ドラマに出ろ、ということですか」

「いや、演技はいらない。歌うだけでいい」

「すぐに返事しなきゃいけませんか」

「いや、三日待つ。いい返事を待ってる」

サラは、要件だけ言うと電話を切った。

来た。困った。

断る理由を探さなければならない。

父に相談した。

「花、もう、諦めたらどうだ」

「諦める」

「抵抗する時間と悩みは、マイナスにならないか。さっさと済ませて、自分の仕事に戻る方が効率いいと思うよ」

「そんな。いくらでも難題を言ってきますよ」

「花のやっていることは商取引なんだ。取引には貸し借りが出るのは避けようがない。相手が10の要求をしてきたら、それを、5とか3に減らす努力をするしかない。商いとは、そういうもんだと割り切ったほうが楽だと思うよ」

「そういうもんですか」

「そういうもんだよ。花はよくやってる。歌う仕事を3カ月にしたのは、立派なもんだと思ってる。交渉の連続だと思うしかない。何だって、自分の思う通りにはならないことは、充分学んだんじゃないか」

「それは、そうですが」

「交渉術の勉強だと思え。もう、花は社会人になってしまった。早すぎたけど目標を達成するためには仕方なかったと思わないか」

「はあ」

大人の世界は、ほんと、面倒くさい。では、全く楽しくないのかというと、そうでもない。今の所、足を引っ張ろうとする人はいない。皆、いい人ばかりだ。あの神父以外は。

時差を計算して、ロンドンのサラに電話をした。

「サラさん。歌ってもいいですが、条件を出してもいいですか」

「おい、おい」

「駄目ですか」

「いや、言ってごらん。聞けるものは聞く」

「1つ目は」

「一寸待って、いくつも条件があるのか」

「はい」

「まあ、いい、続けて」

「私が引き受けるのは、サラさんに借りがあるからです。今回歌うことで貸し借りは無くなると思っていいですか」

「ちょっと違うけど、まあ、いい。貸し借りは無し」

「2つ目ですが、私、いつものスタイルで歌いたいと思います。駄目ですか」

「いつものって」

「化粧とか髪型とか衣装とか、普段のままで歌いたいです」

「うーん」

「駄目ですか」

「まあ、仕方ないか。女の子なら、変身してみたいとか思ないのか花は」

「思いません」

「ほんと、変わってるな。次は何だ」

「その2つです」

「わかった。条件、受け入れる。で、いつなら、時間取れる」

「学校は辞めましたから、サラさんの都合に合わせます」

「辞めたのか」

「はい」

「どうして」

「曲作りの時間が欲しくて、辞めました」

「そうか。リハーサルの時間、どのくらい欲しい」

「初めてなのでわかりませんが、多分、一日、いや、半日あればいいと思います」

「それでいいのか」

「歌うだけですよね」

「ああ。それにしても、会話に不自由なくなったな」

「ありがとうございます。勉強しましたから」

「もう、通訳はいらないな」

「ロンドンに行く時は、彼女は連れて行きます」

「どうして」

「大人の世界は、難しいことが多いですから」

「今日は、やれたじゃないか」

「随分、予習しましたから。予測範囲を越えたらお手上げです」

「そうか、頑張ったんだ」

「はい」

「スケジュールが決まったら連絡する。花、引き受けてくれてありがとう」

「いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」

以前は、日課は空手の型の練習だけだった。発声練習が追加になったけど、学校に行かなくなったことで負担ではなくなった。

最近、メアリーの友人の娘で、13歳のエマという女子が空手の練習に来ている。アメリカ人なので、英会話の練習にもなるので引き受けた。サラに、会話が上達したと褒められたが、エマのおかげかもしれない。エマを見ていると、13歳は幼いなと思う。自分の13歳がどんな子供だったのか、よくわからない。この3年は、余りにも変化が大きくて、随分遠い過去のようにも思える。

早く大人になることがいい事なのかどうかは、まだわからない。でも、他に選択肢が無いのだから仕方がない。


テレビの撮影は、何事も無く終わった。

頼んではいなかったが、キャサリンが立ち会ってくれたのは心強かった。

発声練習をするようになって、自分では、少し声に余裕が出たのではないかと思っていたので、サラに褒められたことは嬉しかった。

ドラマが放映された後、キャサリンから、CDの売り上げが驚異的に伸びたと報告を受けている。在庫切れは、嬉しいトラブルらしい。「far」がチャートに再登場して、1位になったという報告ももらった。「テレビの影響力は強いから、大事にしてね」と言われたが、もう、テレビの仕事はしないとは言えなかった。

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