第2話

1カ月ほどが過ぎた。

音楽教室へは週に1回のペースで通っている。

先生から、メアリーの詩が出来たらしいという連絡が入り、花は約束の1時間前から音楽教室で待っていた。

やっと、メアリーが来た。

「花、元気」

「はい」

今度は、自然な形でハグをした。

「ごめんね、仕事忙しくて、進まなくって」

「いえ、とんでもないです」

「それ、中学生らしくないよ」

「ごめんなさい」

「でも、それが花なんだから、それでいい」

「はい」

鞄から詩を書き入れた楽譜と詩が書かれている紙を取り出し、先生と花に渡した。

花は、楽譜に書かれている詩を先に読み、詩だけが書かれている紙を読んだ。

「まだ、習っていない単語があったら言って」

「いえ、大体、読めます」

「そう」

「CCMの詩って、似たものになるから、聞いたような言葉もあるでしょう」

「はい」

「一度、歌ってみようか」

「はい」

「私、アレンジをしてみたの。本職じゃないから上手くいくかどうかわからないけど、伴奏は私がやってもいい」

「お願いします」

先生が別の楽譜を出して、歌詞の最初の言葉を書き入れ、花に見せた。

「ここから」

「はい」

1回目は、歌も伴奏もぎこちなかった。発音も注意された。

「もう一度、初めから」

「お願いします」

2回目は、少しスムーズになり、3回目は、違和感が薄れ、5回目には、歌に感情が乗るようになった。

「いいんじゃない。私の詩も、それなりに出来ているかも」

「とても、素晴らしい詩です」

「私も、そう思う。何か、格式を感じる詩で、メアリーらしいわ」

「ありがとう」

「よし、じゃあ、録音してみましょうか」

「ここで」

「スマホじゃ無理かな」

「うちに録音器具ありますけど」

「そうだったわね」

「昔、遊びで、録音したことあった」

「音楽室に行きましょう」

「そうね」

3人は、花の音楽室で録音し、その場で、アメリカの専門家へ送った。

「さあ、後は、どんな反応があるのか、それが楽しみ」

そして、1週間後にメアリーから連絡があり、何曲か聞いてみたいので送ってくれという連絡があったと伝えられた。

どの曲も歌詞がない。

「どうする」

花は、「何とかする」と言うメアリーに3曲送ると約束した。

「ピアノの音と楽譜を送って」

「はい」

「ただ、仕事もあるので、少し、時間はかかると思う」

「よろしく、お願いします」

1か月後に連絡があり、録音装置のある花の音楽室に3人が集合することになった。

「2曲しかできなかったけど」

「ありがとうございます」

前回やっているので、少し、慣れてきた。そして、2曲の録音をアメリカに送ることが出来た。

「私、なんか、学生時代に戻ったような気分」

「私も」

「ありがとうございます」

「いや、私達だって、充分、楽しい」

今度は、2日後に連絡があった。

「是非、生の声が聞きたいと言ってる」

「いえ、私の歌は臨時の歌ですから、誰か、プロの方に歌ってもらえないでしょうか。私の曲と、メアリーさんの詩を使ってもらうということはできないのでしょうか」

「私も、そう言ったんだけど、どうしても、花の声で聴きたいと言われた」

「はぁ」

「あなた一人で行かせるわけにはいかないけど、私にも早苗にも仕事がある。でも、来てくれ、と譲らない。どうする、花を連れて行ってくれる別の人を探す」

「メアリーには、別の人の当てがあるんですか」

「いや、花に探してもらわなければならないと思う。石井さんに何か方法はないのかしら」

「聞いてみますが、多分、ないと思います」

「悩ましいわね。花が決めて。あなたの曲だから」

「はぁ」

「ただね、花の最初の目的は、花の曲がオリジナルかどうかを知りたかったんだから、その目的はクリアしてるんじゃない。ジョージは、パクリの曲なんて使えない、とは言わなかった。あの曲は、どの曲もオリジナルだと認めているってことでしょ」

「そうですね。そうです」

「じゃあ、スケジュールが合わないと言おうか」

「はい」

「早苗にも、話してみよう」

「はい」

しばらく、メアリーからも先生からも電話がなかった。話はまとまらなかったのかもしれない。

暫くして、先生から電話が来た。

「花、今から、ここに来れる」

「はい」

「あの曲のことで、話しましょう」

「わかりました」

花は、家を飛び出した。

「メアリーは、ジョージという人は、CCM専門の楽団のリーダーをしている人だと言っていた。彼が花の曲に興味を持っているということは、コンサートで歌う機会があるということだと思うの。コンサートで多くのファンに聴いてもらって、ファンがオリジナルだと認めてくれたら、太鼓判なんじゃない。ファンは、それも、CCMのファンなら、多くの曲を聴いていると思う。行ってみる価値はあると思う」

「はぁ」

「花だって、安心して作曲できるようになると思うけど」

「でも、先生やメアリーに迷惑をかけたくない」

「一人で行けばいい。もしも、あなた自身が心配しているように、あなたの曲が、既に発表されている曲を変えたものでしかなかったら、あなたの人生は変わってしまう。もう、作曲なんてできないでしょう。確かに、少し早すぎる正念場だとは思うけど、私は、立ち向かうべきだと思う」

「はい。父と相談してみます」

「そうね」

「メアリーに言わなくちゃ」

「私から電話しとく、結論が出たら教えて」

「はい」

父の帰りを待って、相談した。

「そうか。行ってくればいい。ただし、英語力は、まだないだろう。何よりも、お前は中学生だ。つまり、保護者が必要な歳でしかない。だったら、保護者を探せばいい。通訳が出来て、旅慣れてて、信頼できる人を、私が探してみる。そんなに難しいことではない」

「はい」

どうやら、アメリカに行くしかないようだ。決まったことをメアリーと先生に連絡する。次の3連休の真ん中の日に面談してくれるかどうかを確認してもらうことになった。

慌ただしくパスポートを取り、慌ただしい日を過ごした。

3連休の最初の日、早朝から父が成田へ送ってくれた。通訳の人とは、空港で落ち合うことになっている。

「石井さんですか」

「そうです」

「道中雪乃と言います。お嬢さんのお供をします」

「よろしく」

「石井花です。よろしくお願いします」

「中学生」

「はい。1年生です」

「作曲家だと聞きましたが、それでいいですね」

「はい」

「事情は機内で伺います。石井さんは飛行機を見送りますか」

「いえ、帰ります」

「では、ここで、お嬢さんを預かります。ご心配なく」

「よろしく」

道中雪乃は、20代後半のスポーツ選手のような体型だった。

「飛行機は、初めて」

「はい」

「緊張してる」

「はい」

「大丈夫だから、私に任せて。リラックス」

「よろしく、お願いします」

「自己紹介しておくわね。年齢は28。学生時代は空手をやっていて、卒業してから、いろいろな格闘技を学び、今まで引き受けた警護案件で失敗したことはありません。何度か、男を取り押さえたことはあります。アメリカで3年研修を受けたので、英語は話せます」

「よろしくお願いします」

「あなたの話を聞かせて。中学生の作曲家で、アメリカで曲のテストを受けると聞いていますが、それでいいですか」

花は、曲が、フレーズが、降ってくることから話した。

「そうですか。一世一代の大舞台ですね」

「大袈裟かもしれませんが、そんな気分です」

「でも、根性座っていると思いますよ。何かスポーツやってます」

「少6まで、空手をやっていました」

「あら、同じね」

「今は、型の練習しかしていませんが、小6の時、都大会で優勝したことがあります」

「凄い。私、小6の時は、準決勝で負けました」

「そうなんですか」

「あの時の悔しさが、空手を続ける力になったので、よかったと思っています。あなたは、どうして競技から手を引いたの」

「作曲のほうが大事になったので」

「そうか。いろいろ言われたでしょう」

「はい」

「それでも、やめたんだ」

「はい」

「あんまり、話していると迷惑だから、私、眠るね。何かあったら起こして」

「はい」

花は眠くはなかったが、目を閉じている間に寝入ってしまったようだ。

空港で借りた車でホテルに行き、面談の日も雪乃の運転でジョージの待つビルへ行った。

面談は、あっけなく終わり、10人ほどの楽団員の中で歌った。

「緊張してる」

「はい」

「もう一度、歌ってみようか。今度は、自由に。演奏に合わせる必要はないから」

「はい」

花は、歩き回り、気を静め、先生の言った正念場という言葉を繰り返した。

「お願いします」

今度は、最初から、曲を支配できた。演奏も、コーラスも気にならない。自分の歌いたいように、いや、曲のイメージをなぞり、曲と一体になって歌った。

「是非、コンサートで歌ってもらいたい。もちろん、君のスケジュールに合わせる。君の歌を聴いていると、リハは必要ないだろう。移動日とコンサートで3日開けてくれたら大丈夫だから」

「曲は、どうでしたか」

「曲も素晴らしいけど、それ以上に、声が素晴らしい」

「そうですか」

「皆、解散していいぞ。ご苦労さん」

楽団員が引き上げていく。

「今日は、皆に、無理言って集まってもらったんだ。私も、すぐに移動しなければならない。君の曲が聴けてよかった。メアリーに、よろしく伝えて」

「はい」

あっけなく面談と演奏は終わった。

「花さん。私達も戻りましょう」

「はい」

「どこか、観光しますか」

「いえ、ホテルに戻りたいです」

「わかりました。あの曲、花さんが作ったんですよね」

「はい」

「私、あの歌、好きです」

「ありがとうございます」

スケジュールが合わず、年を越し、花がコンサートに出演するのは3月の春休みになった。メアリーも先生も、コンサートで歌って、オリジナル曲であることを確定したほうがいいと言っていたが、花の曲を聞いた時のジョージの様子から、ほぼオリジナル曲であるという感触は持っていた。

また、通訳を道中雪乃に依頼し、花はアメリカに向かった。

翌日、指定されたコンサート会場に昼過ぎに着いた。開演は5時からで、リハーサルが行われていた。3時過ぎ、花のリハーサルは1回で終わった。楽団のメインボーカルが最後の3曲を歌う前のゲスト出演らしい。

「衣装は」

「このままでは、駄目ですか」

「いや、問題ない」

ジーンズと白のTシャツ、靴は白のスニーカー、どこにでもいそうな中学生の服装だが、問題ないらしい。楽団の人達も、リハーサルの時の服装のままらしい。

「今日のスペシャルゲストは日本から来てくれた、クララ・ストーン。13歳の少女です。私は、天から派遣された天使だと思っている。曲は、彼女のオリジナルで、マイ・プレイヤーという曲です」

リーダーのジョージの紹介の後、ギターのイントロをドラムが追い、花の歌が乗っていく。まるで、何度も歌われている曲のように、客に浸透していく。少し掠れた花の声は心地よく会場と1つになる。全く緊張していない自分が不思議だった。エンディングに向かっていき、ステージと客が1つの空間を作り、全員で上り詰めていく。ステージの上から、観客の心を掴んていることを感じた。

歌い終わった花は、その場で動かない。客も動かない。そんな無音の時間があって、突然、叫び声と拍手が巻き起こった。

拍手をしている人、手を振っている人、叫んでいる人、1人1人と目を合わせるように、花は小さな会釈を返して、バックヤードに向かった。

しかし、拍手と叫び声は、終わらない。

声は、アンコールの連呼になっていた。

ジョージが呼んでいる。

雪乃に肩を押されて、花はステージに戻った。

ジョージも困っていた。アンコールと言われても、用意した曲は1曲しかない。コンサートは終わってもいない。

「何か、歌える曲、ないか。讃美歌でもいい」

「オー・ホーリー・ナイトなら、歌えると思いますが、伴奏は」

「歌い始めてくれ、楽器は後を追い、合わせていく」

マイクを渡され、花は目を閉じて歌詞を思い出す。マイクを口に持って行くと、会場は静寂に包まれた。その静寂の中を花の声が広げていく。楽器が付いて来て、曲が盛り上がっていく。少し、緊張した。最後のフレーズが空間へと消えて行き、花がマイクを降ろすと、会場は収拾のつかない騒ぎになった。泣いている人もいる。

楽器は、曲を繰り返し、ステージにいるボーカルとコーラスが花と手をつないで、挨拶する。コンサートは、まだ、終わっていないのに、まるで、フィナーレのような状態になった。

「もう、アンコールはなしでお願いします」

ジョージが繰り返す。

花が姿を消し、会場は少し静かになった。最後の人の曲が始まった。

ジョージがバックヤードに走ってきた。

「帰っちゃ駄目だぞ、待っててくれ」

「はい」

コンサートが終わり、団員の皆が、花を抱きしめに来て、褒めてくれた。

「明日、日本へ戻るのか」

「はい」

「一日、延ばせないか」

「それは」

「この人は、花のマネージャー」

「いいえ。通訳をお願いしています」

「マネージャーは」

「いません」

「何とか、明日も、歌ってくれないか」

「うーん」

「誰にお願いすればいい」

「父に相談してみます」

「頼むよ。他の曲の楽譜、持ってきてる」

「いいえ、持ってきていません」

「だったら、明日も、同じ曲でいい。ぜひ、歌って欲しい」

「時差があるから、すぐには返事できないかもしれません」

「それでいい。ぜひ、承知してくれるように頼んで。私が電話してもいいのなら、私からお願いする」

「いえ、私が」

「わかった。何時でもいいから、連絡して欲しい」

「はい。私、歌うの初めてなんですが、誰に似ていると思いますか」

「うーん、思いつかないな。君の声は特別だと思う」

「では、曲は、どうです。誰かの曲に似てますか」

「いや、それもないと思う」

「そうですか」

「何か気になるのか」

「いいえ、全くの素人ですから、どうなのかな、と思って」

「うん。曲も歌も君だけの世界だと思う。メアリーの詩もよかった」

「ありがとうございます」

ジョージの携帯が鳴った。

「あっ、ちょっと、ごめん」

「どうぞ」

挨拶は終わっているが、黙って別れるのは抵抗があり、花はその場にいた。誰かの曲とは似ていないという返事が聞けて少し安心した。

電話が終わったジョージが戻ってきた。

「頼みがあるんだが、聞いてもらえないか」

「何でしょう」

「この地区の司教が、是非、花と話がしたいと言ってる。今日のコンサートにも来てくれたし、大変お世話になっている方なんだ」

「初めてのコンサートで疲れていますので、次の機会ではいけませんか」

「そこを、曲げてお願いしたい」

雪乃に助けを求めようとしたが、答えようがないだろうと思って、考えた。大人の世界のことはわからない。不安ではあったが、承知した。

「それほど、時間はかからないと思う」

この会場に来る途中に大きな教会があった。司教はそこにいるらしい。

「では、また、連絡します」

「明日のこと、頼むよ」

花と雪乃は指定された教会の駐車場に車を止めて、受付と書いてある方向に進んだ。

受付にいた年配の女性に用件を伝えた。

「こちらは」

「通訳をしている道中と言います」

「そうですか。司教は日本語を話しますので、道中さんは控室でお待ちください」

雪乃が、言葉を呑んだ。

「司教室の隣ですから、呼べばすぐに行けます」

「わかりました」

最初に控室に案内され、そこに雪乃を残して、花は司教室に向かった。

案内された司教の部屋は重厚な内装であったが、どこか威圧的で、重く感じ、落ち着かなかった。

花は、ドアの近くで立ったまま司教の入室を待った。

それほど待たされることなく、体格の立派な老人が来た。

ドアを閉めた老人は、無遠慮に花を値踏みするように見て、「sit down please」と英語で言った。

老人の目が怖かった。直感的に雪乃が必要だと思った。

「日本語を話すと聞きましたが」

老人は、怪訝な顔をした。

日本語が理解できていないのは明らかだった。

「通訳を呼んできます」

しかし、ドアは開かない。閉じ込められたのかもしれない。まさか、神父の部屋で得体の分からない恐怖に出会うとは思わなかった。

「open」

日本語で言えば「とっとと、ドアを開けろ」という意味だ。

老人は、ポケットから鍵を取り出し、振ってみせた。

花は、ドアを叩き、蹴り、大声を出した。

老人が言った英語は理解できなかったが「soundproof」という単語は知っていた。

ドアは見ただけでも頑丈で、花が体当たりした程度では壊れないだろう。防音室になっているということは、声は雪乃には届かない。花が戻ってこないことに異変を感じた雪乃が助けに来てくれるまで待つしかない。花は、家族で一番、いや、クラスで一番強気だと言われてきた。老人が何を求めているのかは、朧気にではあったがわかっていた。

「上等じゃねぇか、じじい」と声に出してみた。

少し、落ち着いた。

「鍵を」

「come here」

老人が近づいてくる。

花は、部屋を見渡した。広い部屋だから逃げ場には困らないだろう。追いかけっこなら老人には負けない。どこまでも、逃げまくってやる。

しかし、逃げてみると、老人は敏捷だった。ソファーを飛び越えるくらいの体力はあるようだ。何度も、掴まりそうになる。追いかけながら、老人は喜んでいる。

次第に追い詰められていることに気付いた。

相手を倒すしか逃れる方法はないのだと思った。

花は、大きな机の上に乗った。体格差を消すためには高さが必要だ。

老人は、追い詰めたと思っているだろう。

花は、机の上で、準備運動として何度も飛び上がった。

老人は立ち止まり、勝ち誇ったように笑ってみせた。

花は、老人の一歩目を待って、飛んだ。

前に出る老人に避けることは難しい。

渾身の蹴りを繰り出した。

老人の体が一瞬宙に浮き、老人の後頭部が勢いよく床を叩く。花は、体を丸めて床を転がった。

老人の体は、ピクリとも動かない。

「えっ、死んじゃった」

いや、気を失っているだけのようだ。老人のポケットから鍵を取り出し、ドアに駆け寄る。「開いた」

雪乃がいる部屋のドアを開けた。

「終わりましたか」

「すぐに、ここを出ます」

「どうしたんです」

「襲われました」

「まさか」

「その、まさか、です」

「で、司教は」

「気を失っています」

「どうして」

「蹴りを入れました」

「無茶な」

「あの男が、目を醒ませば、雪乃さんも犠牲者ですよ」

「わかった、出よう」

幸いなことに誰にも出会うことなく車に戻った。

しばらく走った雪乃が車を止めた。

「ホテルには帰れません。荷物、何か大事なものありますか」

「いいえ、着替えくらいです」

花たちが泊まっていたホテルではないホテルの駐車場に車を止め、雪乃は何度も電話をした。

「ホテルとレンタカー会社とは話が付きました」

「どういうことです」

「司教は絶大な力を持っています。ホテルやレンタカー会社を動かすくらい簡単なことです。いや、政府だって動かすかもしれません。ともかく、今は、アメリカを出ることです」

二度タクシーを乗り換え、見知らぬショッピングセンターの喫茶室に花を残して、雪乃はどこかへ行った。

「友人の実家に泊めてもらうことになりました」

翌朝、見知らぬ年配の女性が、車で、二人を空港に送ってくれ、二人は無事にアメリカを出た。

成田空港には父が迎えに来ていた。

「お帰り、花」

「ありがとう」

「道中さんも一緒に来てもらいますよ」

「もちろんです」

家に着くまでは誰も口をきかなかった。

母に抱きしめられ、「お帰り」という言葉を聞いて、一気に疲れが出た。

「私、横になってもいいですか」

「もちろん」

ベッドに倒れ込むと、一気に眠気がやってきた。

それでも、緊張が消えたわけではなく、2時間ほどで目が覚めた。

少し冷静になって考えてみると、奇跡が起きたとしか思えない。いくら空手の経験があると言っても、中学生の女の子に男を気絶させるようなことは簡単にはできない。自分が絶体絶命の場所にいたことがわかると、初めて恐怖心が湧いてきた。

食堂に行くと、父と母が向き合って話をしていた。

「雪乃さんは」

「帰った」

「お礼が言いたかった」

「また、近々、来てくれる」

「そうですか」

「お前は、心配するな」

「はい。でも、急に、怖くなりました」

「忘れろ」

「無理です」

「それでも、忘れろ」

「逃げている途中で、雪乃さんは銀行で大金をおろしていました。随分、無茶をしたんじゃないかと思ってます」

「そうか。今回の費用はいらないと言っていた」

「そんな」

「道中さんに依頼したのは通訳だけじゃない。ボディガードも頼んでいた。任務が果たせなかったから費用は要らないと言っていた」

「じゃあ、私に、お金を貸してくれませんか」

「お前が払うのか」

「はい」

「いや、そこは心配するな。私が何とかする。まだ、道中さんには動いてもらわなければならない。その費用もいる」

「どういうことです。もう、終わったんじゃないんですか」

「いや、乱暴な手段もあり得る、と言っていた」

「どうしてです」

「相手は司教だ。向こうは、訴えられたら、スキャンダルになる。前に事件になって教会は大きな傷を負ったことがある。何としても、禍根は断っておきたいと思うだろう、と言っていた。私も、そう思う。だから、交渉をお願いした。お前が訴えないという条件を呑めばだが」

「私は、訴えたりしません。何もされていませんから。いや、逆に、暴力を振るったのは私です」

「そんなもん。世間では通らない。誰でもそう思う。司教もそう思う」

「そんな」

「それが、大人の世界だ。厄介なことに」

「話がつかなかったら」

「最悪、命の危険だってあるそうだ」

「日本にいても、ですか」

「そうだ」

「そんな」

一カ月後に雪乃から連絡があり、「話はついた」と言われた。雪乃には、費用も受け取って貰えたらしい。一気に、花の借金が増えた。約束が果たせなかった時、返せるのだろうか。心配になる。

降ってくるフレーズを楽譜に落とす作業はしたが、流石に、曲作りはできなかった。自分でも、腑抜けになったように感じていた。

大畑先生の教室へも行かなくなった。メアリーは何も悪くないが、会う気にはなれない。家でも会話が減ったと思う。父も母も気を使って何も言わないが、心配されているのはわかっていた。でも、元には戻れない。CDを出すことなど目標にしたのが間違いの始まりなのかもしれない。ただ、多くの人に迷惑をかけただけでしかない。

鬱々とした日が日常になり、その日常にも慣れてきた。

明るく、生き生きと音楽の話をしていた花はいなくなった。

クラスでも、一番暗い生徒になった。相手になってくれる者はいない。確かに、楽だったが、悲しいことであることは、花にも分っていた。


三年生になった。クラス替えがあったが、根暗の石井で通した。いじめの対象にならなかったのが不思議だった。今の花ならいじめの対象になっても力で対抗することはなかっただろう。泣き寝入りでいいと思っていた。

そんなある日、亜矢が音楽室にいる花に来客だと伝えに来てくれた。

「畑中先生です」

「先生が」

「どうします。断りますか」

「いえ、ここに」

「わかりました」

先生が、ここに来るのは、余程のことなのだろう。全部は話していないが、それらしきことは伝えたと父が言っていた。

「少し、痩せた」

「いえ、大丈夫です」

「話は、石井さんから、それと、メアリーからも聞いてる」

「メアリーが」

「メアリーも来てるけど、どうする」

「怒ってるでしょうね」

「どうして」

「私、折角、詩を書いてくれたのに、台無しにしてしまった」

「そう。メアリーはメアリーで、禄でもない奴を紹介してしまったと後悔してる。だから、私に花の気持ちを聞いてくれと言って、門の外で待ってる」

「メアリーは、悪くないです」

「だったら、あなたも、悪くない。ここに来てもらってもいい」

「もちろんです。謝ります」

「あなたが謝ることじゃない」

「でも」

「話したいこともあるそうだから、話、聞いてみたら」

「はい」

メアリーが来た。

花は無言のメアリーに強く抱きしめられた。

「ごめんね、花」

花は、何も言えず、涙だけがこぼれる。背中を摩られ、花は、メアリーにしがみ付いて、声をあげて泣いた。

「メアリー、話があるんでしょう」

先生が差し出すティシュを何枚も取り、涙を拭き、鼻をかんだ。どこか、心が軽くなっているように感じた。

「花にとっては、嫌な思い出だけど、聞いてね」

「はい」

「あの司教は、死んだわ」

「死んだ」

「交通事故でね。先月」

「そうなんですか」

「もう、花は安全だとジョージが言っていた。それと、ジョージが謝っておいてくれ、と言ってた。私、寝言は寝て言え、と言っておいたけど」

「ありがとう、メアリー」

「それと、花が歌ったあの曲、CDにしてもいいか、と言ったので、断った。作詞家としてだけど」

「はい。私も、あの曲は聞きたくありません。折角、詩を書いてくれたのに無駄にしてしまって、ごめんなさい」

「今でも、あの曲は、いつ発売するのかという問い合わせがあるそうなの」

「私、忘れたいです」

「そうよね」

「ごめんなさい」

「あなたは、謝ることないわ。私も、忘れたい」

「私、小さい頃から、神を信じてた。父さんが、石井の父さんではなく、間宮の父さんが信仰していたから。父さんのこと好きだったから、神も好きだった。でも、私は、父さんも、信仰心も、失ってしまったの。そのことが、悲しい」

「そう」

「頭ではわかってるんです。前を向いて生きろって自分にも言うんですが、以前なら、簡単だったのに、それができないんです。そんな自分を好きになれない。あの時、あの神父を殺しておけば良かった、と思うこともあるんです。人は悪魔にでもなれると言った人がいたそうですが、私もそう思ってしまう。そんな自分が、ほんと、苦しい」

メアリーが花の肩を抱き寄せてくれた。

「どうしたら、いいんでしょう。先生やメアリーにも、母にも、石井の父にも、多分、お兄ちゃんにも、亜矢さんにも、心配かけているんだと思います。でも、ほんと、元気が出ません。わかっているけど、駄目なんです」

部屋が静寂に包まれる。

「曲作りはしていないの」

「はい」

「楽譜も」

「いえ、楽譜だけは書いています。もう癖になってるだけかもしれません」

「今日、私が花に会いたいと思ったのは、花が音楽を諦めてしまうんじゃないかと早苗が心配してたから。私も、諦めて欲しくないと思ったから、早苗は、まだ無理なんじゃないかと言ったけど、今、前を向かないと、ほんとに、音楽を諦めてしまうんじゃないかと心配になって、無理に、押しかけて来たの」

「ごめんなさい」

「あなたのお父さん、今の花を見て、喜んでくれるかしら。信仰はどうでもいいけど、お父さんのことは嫌いにならないで欲しい。お父さんは、きっと、悲しむ。そう思わない」

「ですよね」

「きっと、花、負けるな、と言うんじゃない」

「そうだと思います」

「今日は、そのことで話をしたかったの。音楽で、宗教にリベンジしてみない」

「リベンジ」

「あなたと私で、CCM以外の音楽で、勝負してみてはどうかと思うの」

「・・・・」

「私の友人の友人が、イギリスのテレビ局でドラマのプロデューサーをしていて、これまでの曲とは少し違う曲を探しているらしいの。花の曲が、その要求に合うかどうかは分からないけど、挑戦してみる価値はあるんじゃないかと思ったの。もちろん、私、頑張って、詩を書く。いや、シナリオを送ってもらって、もう、書いた。楽曲がない詩だから、そのままでは使えないと思うけど、私にとってもリベンジだから」

メアリーの言うリベンジの意味がわかったような気がした。

「私の詩、読んでみてくれる」

「はい」

何度も読んだ。そして、イメージを膨らませると、ある曲が浮かんできた。作曲を始めた頃に作った曲で、「空」の区分にある曲だった。花は、作った曲を自己流で分類している。それを、空、雲、山、光、森、風、海という自然界の言葉に分けていた。

楽譜を探した。

「聴いてもらえますか。この詩に合うのは、こんな曲なんじゃないかと思います」

楽譜を睨んでいると、不思議に、作った時の印象が蘇ってくる。「結構、憶えているもんなんだな」と自分で感心してしまった。

「驚いたわ。一寸直したら、この曲の歌詞になるんじゃない」

「そうですね」

「楽譜、コピーしようか」

「はい」

メアリーが、コピーした楽譜に詩を書きこんでいく。

「さらの楽譜ある」

「はい」

「私、アレンジしてみる」

昼食をはさんで、夕方に早苗の即席のアレンジが出来て、何度か、メアリーも詩を書き替えて、新しい曲が完成した。

「花、歌ってみて」

「はい」

早苗の伴奏で、何度も歌ってみた。

メアリーが何度か言葉を替え、早苗も楽譜を書き替え、花も、一か所手を入れた。

「できたみたいね」

「はい」

「こんなに楽しいの、何年ぶり、いや、何十年ぶりかもしれない。学生の頃を思い出したわ」

「どう、花、やってみない。リベンジ」

「はい」

花は、久しぶりに笑えたようだ。でも、笑いながら、涙が、勝手に溢れる。仲間になってくれた早苗もメアリーも母親と同年代の二人だったが、同じクラスの三人が、文化祭に向けた曲を作り上げたような気持ちだった。

「録音しよう」

「はい」

自分の気持ちを言葉にして、父の事を思い出して、失ったのは信仰だけで、父は花の中にいることがわかり、大勢の人が花を励ましてくれて、「なんて、恵まれているんだろう」と思った。心の中で、泣き言を言っていた自分が情けないと思った。私は、何も変わっていない。「あんな下司野郎に壊されてたまるか」という強気の花を取り戻せた。父も兄も、根っから優しい人だが、母も自分も、気の強さでは、負けていない。母は「もっと、優しい女の子になりなさい」と言うが、「もっと、優しい母親になりなさいよ」と思っていた。

珍しく帰宅が遅かった達意を待っていた花は、今日の出来事を話した。

「そうか。リベンジか」

「はい、世界を相手に戦いますから」

「よかった。大畑さんとメアリーさんには感謝しかないな」

「はい。戦友になりました」

「よかった」

一週間後にメアリーから電話があった。

「採用よ」

「ありがとう、メアリー」

「ただね、もう一曲必要なんだって。エンディングテーマとは別に、ドラマの主人公のテーマ曲が必要だと言われた」

「えっ、また、メアリーの時間がなくなってしまう」

「そうなの。でも、花とリベンジの約束をしたのは私だから、何とかする」

「いいんですか」

「いいに決まってるじゃない。ま、ちょっと、時間はかかるかもしれないけど、向こうは待つと言ってくれている」

「そうですか」

「また、連絡するわ」

「はい」

三週間後に三人の戦友が、花の音楽室に集まり、曲を仕上げ、二曲とも採用されることになった。

「メアリーは、どうして、ここまでしてくれるの」

「そうよね。私なんか部外者よね」

「そうじゃないですけど」

「多分、律のためだと思う。それと、花が、どこか、律に似ているからかな。内緒の話だけど、秘密守れる」

「はい」

「私、自分でも気付いていなかったんだけど、多分、私は律に恋をしていたんだと思うの。そのことに気付いたのは、律が石井さんと結婚した時。遅いよね。ところが、律が亡くなってしまって、気持ちの整理が出来ないまま、花に会ってしまった。もちろん、あなたに恋をしているという意味じゃないわよ。花は律の子供じゃないけど、私には、律の子供という位置づけなのね、きっと。前にも言ったけど、律とあなた、どこか似ているの。驚かせてごめんね。これ石井さんには絶対に内緒だからね」

「はい。そうだったんですね」

「私は、気付いてたわよ」

「早苗」

「わかるわよ」

「絶対に、内緒だからね、二人共」

「はい」

ところが、翌日、メアリーから電話があり、まだ、問題があると言う。

「一筋縄ではいかないわね」

「どうしたんです」

「直接、聴きたいそうよ」

「イギリスに来いと」

「そう」

「いつですか」

「すぐに」

「すぐ、ですか」

「学校あるから無理だと言ったんだけと、学校なら休めばいいでしょう、だって」

「わかりました。学校、休みます」

「大丈夫なの」

「父が何とか誤魔化してくれます」

「そう、日が決まったら教えて」

「はい」

達意に相談した。

「学校へは、私が連絡しておく、道中さんが空いていればいいのだが」

道中にすぐに連絡してくれたが、今週は予定が詰まっているそうで、翌週の出発になった。


成田空港で、久しぶりに雪乃と会った。「ああ、ここにも、戦友がいる」と思った。達意は出発を待たずに引き上げていった。

「リベンジだって」

「父が言ってましたか」

「よく、乗り越えたね。花さんなら、きっと、成功する。私も仲間に入れてくれるかな」

「もう、雪乃さんは戦友ですよ、とっくに」

「ありがとう」

早苗とメアリーのこと、その結びつきを作ってくれた律のことを話した。

「花さんは、何年生」

「三年生です」

「中三の女の子に、どうして、こんなにも味方がいるのだろうと思ったことない」

「何となく感じています」

「花さんは、きっと音楽の世界で成功する人になると思う。それは、あなたには、多くの戦友がいるからだと思う。あなたが頼まなくても、自然と皆が力を合わせてくれる。こんな中三は珍しいと思うわよ」

「ありがとうございます」

「あなた、私のこと、石井さん話してくれた」

「はい、世話になったと話しました。今でも、どうして、あそこまでしてくれたのか理解していませんが、雪乃さんがいなければ、どうなっていたか。寒気がします」

「私、あなたのボディガードだったの。表向きは通訳だったけど、ほんとの仕事はボディガード。私、お客様を守れなかった。あなたが自力で抜け出せなかったら、とんでもないことになっていた。だから、私は、料金は要らないと言ったの。銀行で現金をおろしたのを、あなた、見ていたのね。私は任務に失敗したのに、法外な報酬を受け取った。私は、あなたにも、石井さんにも大きな借りが出来たと思ってる。この先、私は失敗しない。あなたを全力で守るから」

「ありがとうございます。よろしく、お願いします」

ヒースロー空港には出迎えの人が待っていた。

「花さんね。私、D・ミュージックのキャサリン・マーズと言います。ITVのサラ・ドーサの依頼で迎えに来ました」

「石井花です。それと、通訳をしてくれる道中雪乃さんです」

「遠いところ、ありがとうございます。ホテルは」

「マイルストーンです」

「先ず、ホテルに行きましょう。テレビ局へは明日行きます。その前に、仕組みを説明させてください。イギリスでは、私がご案内します」

「よろしくお願いします」

キャサリンは、母と同年代のチャーミングな女性だった。

ホテルは、位負けしそうなホテルだったが、雪乃が先導してくれるので心配はない。

チェックインと同時に部屋に来てもらい、打ち合わせをした。

「あなたは、D・ミュージックと契約し、テレビ局へは、我が社が提供する形になります。それで、よろしいですか」

「はい」

「あなたの曲が採用されることは決まっていますが、オーディションという形を取ります。上層部の人も参加しますので、そうなりました。多くの方が、なるほど、と思ってくれるような歌にしてくれると助かります」

「わかりました」

「年齢は14歳だと聞いていますが、それでいいですか」

「はい、もうすぐ、15歳になります」

「日本の方は若く見えると聞いていましたが、実感しています。私、日本の方と仕事するの初めてなので、とても、楽しみにしています」

「よろしく、お願いします」

翌日、キャサリンが迎えに来てくれた。

オーディション会場ではなく、小さな会議室で待機するように言われた。

「緊張してます」

「いえ、大丈夫です。度胸だけはアメリカ仕込みですから」

「安心しました。確かに、花さん、少し変わりましたね」

「そう見えます」

「はい。安心します」

キャサリンの案内で、オーディションの部屋に入る。会社の上層部の人が、音楽の良し悪しがわかるとは思えないが、年配の男性が5人、ずらりと並んでいた。

「サラ・ドーサです。今日は、遠くからイギリスへありがとう。石井花さんですね」

「はい。歌うチャンスを頂けて、感謝しています。ありがとうございます」

「この曲は、あなたが作ったのですか」

「はい」

「この曲以外に、何曲くらい作りましたか」

「まだ、30曲ほどです」

「まだ、ということは、まだ、増えるということですか」

「多分、そうなると思います」

「何曲くらい」

「まだ、わかりません。曲になる前のフレーズは、今のところ、100曲くらいですが、この先、どのくらい降ってくるのかは、わかりません」

「降ってくる、と言うのは」

「文字通り、音が降ってきます。予告なしに」

「困りませんか」

「困ります。突然ですから」

「いつからですか」

「4年か5年、最初は楽譜に落とせませんでしたので、失った曲もあります」

「昔、聴いた曲が残っていたとかではないのですか」

「調べてみましたが、私には、わかりませんでした。できれば、専門家の方に判定してもらいたいと思っています」

「詩を書いたのは誰ですか」

「私のピアノの先生の友人で、ある研究所にいるアメリカ人の女性です」

「作詞家なんですか」

「いえ、科学者です。日本の製薬会社の研究所に勤務しています」

「14歳が作曲して、科学者が詩を書いて、14歳の少女が歌う。私が古いのか、頭が付いていかないの。だから、どうしても、目の前で歌ってもらいたかった。ここにおいでの皆さんは、正直、本物かどうか、疑っています。私も、その一人です。ごめんなさいね。でも、今日、あなたがここにいることで、私は信用しました。他の皆さんにも、理解してもらいましょう。いいですか」

「はい。ありがとうございます」

「準備は」

「大丈夫です」

早苗がアレンジしてくれた楽譜は、既に送付しておいたので、ピアノの前に座っている女性は落ち着いて見えた。練習できているのだろう。花も、自分でも驚くほど落ち着いていた。あの修羅場を乗り越えたことで、何かが変わったのかもしれない。雪乃もそれを感じていたのかもしれない。

目を閉じて、歌詞とテーマである空を思い浮かべ演奏者に目で合図を送った。

最初、冷たい空気に支配されていた部屋が、次第に変わっていく。曲のクライマックスでは、花が見ている「空」を届けられている感触があった。

曲が終わり、その静寂を破ったのは、キャサリンの拍手だった。

全員が拍手してくれた。

サラ・ドーサが駆け寄って来て、花の体を思い切り抱きしめた。

「あなたの曲に負けないくらいのドラマにするから。ありがとう、花」

「ありがとうございます」

審査員席に座っていた老人たちが花に笑顔を見せ握手して、部屋を出ていく。最後にピアノ演奏をしてくれた年配の女性が、「いい歌の伴奏ができて、嬉しかった」と言ってくれた。

「ありがとうございました。伴奏に助けられました」

キャサリンが、花の手を握り締める。ちょっと、痛い。

「社に戻って、この先の打ち合わせをしましょう」

「はい」

「花さん。私も握手してもらっていいですか」

「雪乃さん」

「こんな歌、聴いたの、初めてです。歌に力があるってこと、初めて知りました。最初のあの白けた空気は何だったのでしょう」

「ありがとうございます」

車に戻ったキャサリンが「お腹空いてませんか」と聞いてきた。

余り空腹感はなかったが、同意した。

「サラは、ほんとに困っていた。どの社でも、偉いさんの扱いには苦労します。部屋に入った時のあの人達の顔と部屋を出ていく時の顔、まるで、別人だった」

「よかった、です」

「あなたが送ってくれた録音は聞いていたけど、生歌の力は凄い。魔法、かけた」

「いえ、でも、ちょっと、いや、かなり、力、入れました」

「そうなんだ」

「キャサリンさんに、ぜひ、お願いしたいことがあります」

「なに、なんでも聞くわよ」

「歌手の方を、プロの歌手の方を探してくれませんか」

「は」

「私、歌は素人です。勉強も訓練もしていません。曲ならいくらでも作りますが、私に、歌は無理です」

「冗談でしょ。あの歌を聴いた私に、それを言う。私がと言うより、サラが承知しない」

「そこを、お願いします」

「ごめんなさい。そのお願いは聞けません」

「困りました」

「まさか、曲を引っ込めるなんて言わないでよ」

「雪乃さん、餅は餅屋という格言、英訳できます」

「できますよ」

「伝えてください」

「わかった。この話は宿題にしない。ただ、この曲だけは、あなたが歌って。今更、歌手を変えますなんて、言えない」

「この曲だけでいいんですね」

「いや、そこは、話し合って決めましょう。どうして、歌いたくないの」

「お話ししたように、音が降ってくるんです。これって、別に、私ではなくてもよかったと思うんです。だったら、それが私の役割ならば、その音を曲にすることが私の使命だと思っています。あれもこれもは無理です。今でも、曲作りの時間が足りないんです。ともかく、時間が欲しいんです」

「そう。考えてみる」

「約束ですよ」

「わかった。私も、必死で、考えてみるから」

「ありがとうございます」

「あなた、レコーディングは初めてよね」

「はい」

「この曲の演奏は弦楽器がいいと思ってる。サラも賛成してる。小規模のオーケストラにお願いしようと思っていて、編曲も、そういう編曲になる。初めてのことばかりで大変だけど、頑張れるかな」

「わかりませんが、この曲を完成させることが条件ですから、やります」

「うっ」

「私のことを選んで降ってきてくれた音ですから、多くの方に届けたいんです。確かに、子供の覚悟ですが、私、強い覚悟で向き合っています。どうか、協力してください」

「ん、あなたの覚悟は理解する。こんな強い言葉が来るとは思っていなかった。才能のある14歳の若い女の子を、どうやって育てようか、と考えていたみたいね私。これまでも、いろいろな女の子と仕事をしてきたけど、レコーディングの話をすると、みんな、目を輝かせるの。ほんと、例外なく、みんな、そんな目をする。でも、あなたは違うみたい。あなたの目は冷めていて、いや、苦しんでいるようなしか見えない。だから、あなたが自分の使命と向き合っているという言葉は信じる。私にも、覚悟が必要みたい」

「お願いします」

「オーケストラの伴奏とレコーディングの練習環境を提供することは可能だけど、どうする」

「ありがとうございます。でも、何とか対応します。学校もありますし」

「そう、わかった。それと、契約しなければならないけど、それは、あなたと話をすればいいの」

「いえ、それは、父の弁護士の方にお願いします。契約書を私のメールに送ってくれるとありがたいです」

「お父さん、お仕事、何を」

「お菓子を作っています。日本のお菓子です」

「道中さん。そうなの」

「はい。花さんのお父様は、昔から続いている、日本では有名なお菓子屋さんの社長をしている、立派な方です」

「そう」

「不思議でしょう。深窓の令嬢には見えませんよね。私も、最初は戸惑いました。小学校の時、空手のチャンピオンになったこともある、不思議な女の子です」

「すぐに、日本へ」

「はい。学校休んで来ましたので」

「わかったわ。編曲が出来て、演奏ができたら、音源を送るわね。ドラマのオンエアも近いし、時間は少ないと思うけど、私も全力で頑張ります」

「よろしく、お願いします」

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