音の神様
@you-ishi
第1話
ここ数日、季節は秋から冬へと移る不安定な空になっていた。
相川邸の食堂のテーブルに、石井達意と間宮親子三人が相対して座っていた。達意はこの三人には一度しか会っていない。三人は、相川とは赤の他人だが、相川は自分の身内だと思い込んでいて、三人の今後を心配していた。そんな相川の頼みを無視できないほどの恩義がある達意には、相川の頼みを断れなかった。
「今日は、皆さんに話があって集まってもらいました。相川さんの病気については、皆さん、知っていますよね」
石井は、三人が頷くのを待って話を進めた。
「病状は、よくありません。今は、薬で眠っています。数日前に、呼び出されて相談されたことがあって、皆さんに来てもらいました。相川さんは、皆さんを家族だと思っています。しかし、何もしてやれないことが、とても気にかかっています」
相川家は、東京でそこそこの不動産業の家であったが、相川雄一がその財産を食い潰し、今は借金しか残っていない。
「この屋敷も、もう、相川さんの持ち家ではなく、資産もありません。借金はあるそうですが、死亡保険金で支払うことになっているそうです。つまり、皆さんに残せるものが何もないのです」
その辺のことは、相川家の家政婦の斎藤千秋さんから聞いているようだから、驚きはないようだ。相川が間宮食堂の常連になったのは昔の話だが、5年前に火事で食堂がなくなるまで、自分の食堂のように通っていた。その火事で店主の間宮次郎が亡くなり、次郎を勝手に自分の息子だと思っていた相川は、残された家族を支えてきた。
「真琴さん」
「はい」
「今の勤め先は、相川さんの紹介ですよね」
「はい」
「引き続き、今の職場にいられますか」
「難しいと思います」
「相川さんが亡くなり、この屋敷が他人の手に渡れば、生け花の仕事は無くなります」
「はい」
「あなたの収入は、一気に、減ります」
「はい」
「新しい職場を見つけたとしても、これまでのような収入は期待できないと思います」
「はい」
「あなたには、借金があるんですよね」
「はい」
「借金を返済しながら、三人の生活を支えるのは、無理だと思いますが、どうされるつもりなのでしょう」
「それは」
「それは」
「わかりません」
「いや、わかってますよね。方法は2つです。破産宣告をして借金の返済をやめるか、風俗を仕事にするかの2つです。違いますか」
「いえ」
「多分、近日中に、決めなくてはならなくなると思います。最悪、明日、ということもあります。どうしますか」
「はあ」
男の子が顔を上げて達意を見た。
「あの」
「ん」
「僕、働きます」
「私も、働きます」
「今の生活を支えるだけでも10万は必要です。仁君は中学生で、花さんは小学生。二人で、10万、どうやって稼ぐのです」
「来年は、高校生ですから、働けると思います」
「君は、料理人になるんだよね。調理見習いで10万も出してくれる職場があるだろうか」
「わかりません」
「花さんは、新聞配達でもするのですか。中学生の女の子を雇ってくれる職場はないと思う」
「何か、探します」
「真琴さん。あなたは、二人に稼がせてでも、借金を返済するのですか」
「それは」
「じゃあ、二人は、お母さんがソープで働くことに賛成するんですか」
仁と花は首を横に振った。
「どうして、借金の返済に拘るんです」
「信金の中本さんが、無理に、貸してくれたんです。あのお金が無ければ、間宮食堂は続けられませんでした。ですから、中本さんを裏切るようなことはできません。それと、間宮食堂は再建します。信金さんに迷惑はかけられません。信金は、中本さんでも、一度破産した相手にお金は貸さないと思います」
難しいとは思うが、この家族は食堂を再建できると思っているようだ。明日の生活ですら、見えていないのに、世間を嘗めているとしか思えない。
「そうですか。では、選択肢は、あなたがソープに行く方法しかなく、あなたは、それを受け入れるつもりがあるということになりますが、それで、いいのですか」
「それは」
「あなた、風俗を嘗めてません。どんな職業にも適性はありますよ。私には、あなたが風俗嬢になれるとは思えないけど、あなたには、その覚悟があるのでしょうか」
「いえ」
「相川さんは、そのことがわかっているから、死ぬに死ねないと言っているのです。自分が死に直面していることは、わかっているのに、死ねない。いい加減な生き方をしてきた報いだとはわかっていても、苦しいそうです。あなた達三人が地獄に堕ちようとしているのに、何も出来ない自分が情けないと泣いていました」
「破産します」
「そうですか。私も、そうすべきだと思います」
真琴が肩を落として、堰を切ったように流れる涙を、二人の子供が見つめている。
「さて、ここからが、相談です。先程、私は、選択肢は2つしかない、と言いました。でも、今日来てもらったのは、別の選択肢を、提案したくて、来てもらいました。たとえ、真琴さんが破産したとしても、三人の生活が楽になるわけではなく、二人の孫の、仁君と花さんのことですが、未来は前途洋々にはならない。そこで、相川さんは、私に、二人の未来を背負ってくれと言うのです。金ですかと聞いたら、金じゃない、未来だ、と言われました」
「あの」
「わかっています。あなたは、御主人以外の誰かと結婚することはない、と言っていました。何度も、勧めたが、頑として首を縦に振らない。借金のことと言い、結婚のことと言い、あなたほどの頑固者に会ったことがないと呆れていました。私も、そう思いました。真琴さん、あなたは、ほんとに、厄介な人だと思います。でも、ちょっと、笑ってしまいます。私も、周囲の人には、厄介者だと思われているからです」
真琴の涙は止まっていた。
「実は、私は、相川さんに命を助けてもらったことがあります。詳しいことはお話しできませんが、1億出せ、と言われれば、1億出すつもりでした。でも、金じゃない、三人の、特に二人の孫の未来を背負ってくれと言うのです。相川さんも、ほんとに、厄介な人です。でも、断れませんでした。私は、何とかする、と答えました。少し考えて、三人と養子縁組をすると言いました。あなた達を、私の長女と長男と次女にするのです」
突然の話で、すぐには理解できないようだった。
「ただし、簡単なことではありません。3人の人生を引き受けるには、私にも、それなりの覚悟が必要です。もちろん、皆さんにも、覚悟を持ってもらわなければなりません。口先の覚悟ではなく、本物の覚悟です。私の提案を聞いてみる気はありますか」
突然の話に、3人は戸惑っているようだ。
「私は、相川さんの容態を見てきます。10分、席を外します。話し合ってください」
どんな提案なのかを聞かずに覚悟を決めろと言われれば、提案の内容が法外なものであっても受け入れなければならない。その覚悟が無ければ、相川に不首尾だったと告げても、諦めてくれる約束になっている。どうするかは、彼等次第だ。
病室の相川は薬で眠っているので目を醒ますことはない。達意は、ベッドの横の椅子に座って、10分待った。
「さて、どうしますか」
食堂に戻った達意は3人に問うた。
「お願いします。聞かせてください」
真琴の答に、2人の子供達も頷いた。
「わかりました。皆さん一人一人に、10年後の目標を決めてもらいます。ただし、簡単には達成できないような難しい目標でなければなりません。例えば、仁君の目標は間宮食堂の再建だと聞いていますが、三ツ星の食堂を目標にしてもらいます。つまり、目標は日本一の食堂を作ることです」
「三ツ星、なんて」
「無理、かな」
「10年後、は無理だと思います」
「じゃあ、15年後」
「三ツ星が取れなければ、どうなるんですか」
「いい質問だ。10年間にかかった費用、仁君の場合は15年間にかかった費用を、全額、返済してもらいます。多分、一生かけて返すことになります。破産宣告は認めません。多分、数千万円になると思いますが、目標を達成すれば、返済は要りません。仮に、かかった費用が1億円でも、返済は無しです」
「・・・・」
「花さんは、何を目標にしますか」
「CDの発売」
「歌手になる、ということですか」
「いいえ、作曲です」
「何年」
「20年」
「10年やって実現しないことが、20年なら出来ると、どうして思ったんですか」
「では、10年で」
「作曲、したことはあるんですか」
「ありません。私に、作曲が、ほんとにできるのか、自分でもわかりません。でも、目標が必要なんですよね。他に、思いつきませんから」
「お父さんは男前だったんでしょう。あなたは、5年後には、誰もが振り向くような女性になると思います。女優になるとかの選択肢は、ないのですか」
「私、人前に出るのは、好きではありません」
「好き嫌いの問題じゃないと思うけど」
「そうですが、作曲なら人前に出なくても済みますし、夢を実現しようとしたら、好きなことでなくては続かないと思うんです」
「なるほど。で、真琴さんは」
「私は」
「はい」
「わかりません」
「わからないでは、仁君と花さんが困ります。私の提案を断われば、二人の未来はとても暗いものになります。それで、いいのですか。もっとも、借金を背負っていても暗い未来しかありませんが」
「でも、ごめんなさい。頭、真っ白です」
「じゃあ、私が提案してもいいですか」
「はぁ」
「仁君が、10年後に間宮食堂を再建して、その5年後に三ツ星を取るとしたら、それなりの食堂を開店する必要があります。真琴さんは、その資金を作ってください。1億円では難しいと思いますので、5億円で、どうでしょう」
「そんな、無理です」
「諦めるのですか」
「・・・」
「10年後に借金を背負えば済むことです」
「はぁ」
「ついでに、どうやって5億を作るのかも提案していいですか」
「はぁ」
「仁君。子供の頃、お母さんに絵をかいてもらったことはありますか」
「はい」
「絵は上手でしたか」
「はい」
「それは、よかった。真琴さんには、デザイナーになってもらいます。それも、日本のトップ10に入るようなデザイナーになれば、5億くらいは稼げます」
「そんな」
「真琴さん。あなたは、二人の子供の未来のために全力を尽くす立場にあります。違いますか。ご主人の遺志を継ぐためにも食堂は再建しなければならないのじゃないですか」
「はぁ」
「だったら、あなたは、自分の全人生を賭けて、やるしかないと思いますが」
「でも、私に、デザインなんて」
「デザイナーって、ファションデザイナーを想像していませんか」
「はい」
「違います。商業デザインです」
「商業デザイン」
「どんな商品にも、どんな仕事にも、デザインは欠かせません。例えば、この包装紙だって、この紙袋だって、化粧品の容器だって、車だって、デザインが必要なんです。数え上げれば、いくらでもあります。オリンピックのロゴだってデザイナーが作っているのです」
「でも」
「もう、でも・・・、は止めてください。あなたには、でも・・・はありません。やるしかないのです。あなたに出来ることは、私の提案を断ることだけです」
「でも、あっ、ごめんなさい。私にデザインができるとは思えません」
「そうでしょうか。デザインはセンスだと思うのです。私も専門家ではありませんので、確かなことではないのかもしれませんが、私は、そう思っています。うちの会社でも、包装紙や箱のデザイン、店を出す時の店舗デザイン、を依頼していますが、その時、デザイン料が発生します。そのデザイン料はピンからキリで値段が違います。それは、依頼するデザイナーが違うからです。確かに、料金の高いデザインのほうがいいです。それは、デザイナーのセンスの差だと思っています。あなたには、造形のセンスがあると、私は、思っています。以前、あなたが花を活けている時にここへ来たことがあります。いつも、いい花を活けているとは思っていましたが、活けている時に出会ったのはあの時だけです。しばらく、見ていました。最初はただの生け花に見えていましたが、どんどん良くなり、最後の花を挿した時には、いつもの生け花になっていました。驚きました。あれが、造形のセンスなんだと思います。あなたは、無意識にやっていたのだと思いますが、私には、あんなことはできません。ただ、センスだけではデザイナーにはなれません。しかも、トップクラスのデザイナーにならなければ、5億は稼げません。普通の努力では難しいと思います。先ず、2年間、デザインを学んでください。普通の人が10年で得られる知識を、その2年で手に入れてください。3年目からは、実際のデザインで報酬を取れるデザイナーになる。そして、7年で5億の仕事をしてください。生活費は、親の私が出しますので、デザインで得た収入は必要経費を除き、全額貯金してください。それが、間宮食堂の開店資金になります」
「私に、そんなことができるのでしょうか」
「できるのではなく、やるのです。腹を据えるしかないと思いませんか。それとも、新しい仕事を見つけ、信金に迷惑をかけ、今よりも貧しい生活をし、子供達の未来を奪ってしまう道を選びたいですか」
「いいえ」
「あなたが間宮食堂の再建のために借金を返済しているのは、御主人から、よくやった、と言ってもらいたいと思っているんではありませんか。それが、あなたが生きる理由になっていると思っていますが、違いますか」
「・・・」
「だったら、あなたが生きるために、あなたが稼いで返済するしかないと思います。そのために利用できるものは何でも利用する。相川さんの好意を受けていたのは、そのためでしょう。相川さんだって生け花なんてどうでもよかったと思います。それでも、あなたを支援した。それは、勝手に孫だと思っている二人の子供を助けたかったんだと思います。私が相川さんに頼まれたのも二人の孫の将来を頼まれたのであって、あなたの将来は頼まれていません。でも、あなたは、この二人の母親です。その立場を最大限に利用して構わないのです。この子達の母親はあなたしかいない。私を利用すればいいんです。ご主人は、怒りません。きっと褒めてくれます。私も相川さんに、いや、多くの方に助けられてきました。助けてもらえばいいんです。助けてくれた人に借りを返せなくても、構いません。あなたが、誰かを助けることが出来る人間になり、誰かを助ける。順送りでいいんです」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、ほんとに有難いです」
「借金を返済してください。あなたが稼いだ金で」
「はい」
「ただ、簡単なことではありません。今までも、そうだったと思いますが、そのことは、これからも、同じです。私は、2年間勉強しろと言いました。たとえ、仕事を始めたとしても、最初は、たいした稼ぎにはなりません。少なくとも、3年間は返済するための収入がありません。では、どうすればいいのか。信金に、返済内容を変更してもらえばいいのです。あなたが最初にすることは、信金と交渉することです」
「はぁ」
「私も同行します」
「はぁ」
「ほんとは、じっくり考える時間が必要なんでしょうが、相川さんの病状は、かなり危険です。私も皆さんも、相川さんには世話になりました。できれば、安心して旅立って欲しいと思っています。君達も、そう思いますよね。明日のこの時間に返事を下さい。返事がなければ、私の提案は受け入れられなかったと解釈します。それでいいですね」
「はい」
「最後に、このプランには欠陥があります。もしかすると、致命傷になるかもしれません。それも、考えてください。それについては、明日、話し合いましょう」
翌日、再び、相川邸に4人が集まった。
眠れなかったのであろう。疲労が出ていた。
特に、真琴は、一睡もしていないのかもしれない。
「今日来てくれたということは、このプランに協力するということで、いいですか」
「はい。お願いします」
「よかった。相川さんに報告しましょう。この時間、起きていてくださいとお願いしてあります。ただ、この1カ月で、随分、変わりました。多分、驚くと思いますが、今まで通りの皆さんでいてください」
「はい」
4人は相川の寝室へ向かった。
痩せて、生命力の衰えた相川は、間宮家の3人が初めて見る相川だったと思う。ベッドの背は起きていたが、相川は眠っているようにしかみえない。
「相川さん」
達意は、ベッドの横にある椅子に座り、目線が合うような所から声をかけた。ピクリと動いたように見えたが、目を閉じたままだった。
「真琴さん、仁君、花さん。3人は、私の提案を受け入れてくれました。ですから、3人のことは、私に任せてください」
少し瞼は動いたが、目は閉じられたままだった。声にはならなかったが、口が動いたように見えた。達意には、「よかった」と言っているように見えた。
達意は立ち上がって、相川の手を握った後、その手を真琴に渡した。
相川の手を受け取った真琴は、両手で相川の手を握り「ありがとうございます」と言って、涙を流し、仁も「ありがとうございます」と相川の手を握り、花も「おじいちゃん、ありがとう」と言って涙を溢れさせた。
「ゆっくり休んでください。また、来ます」
4人は食堂に戻った。
「さて、昨日、このプランには欠陥があると言いましたが、そのことは考えてくれましたか」
「はい。でも、何も思いつきませんでした」
「ま、プランがプランですから、仕方ないかもしれません。私達は、山奥で暮らしているのではなく、大きな社会の中で暮らしています。私達は、それを、世間、と呼んでいます。では、私が3人を養子にすることを世間は受け入れてくれるのでしょうか。真琴さんは、私より1つ年上ですよね。しかも、女性です。それを、世間の目は、どう見るでしょう。多分、変だと思います。それが世間です。別に、世間がどう思っても、そんなことは、どうでもいいようなものですが、先々、そのことが皆さんの障害になるのは目に見えています。ですから、これは、提案ですが、断ってくれても問題はありませんが、私と真琴さんが結婚し、2人の子供を引き取ったという形を取ることにしたいのですが、どうでしょう。もちろん、真琴さんは私を夫だと思う必要はありませんし、私も真琴さんを妻だとは思いません。世間を欺くことになりますが、それが利益になるのなら、そのほうがいいのではないかと思うのです。どうでしょう」
真琴は、一難去って、また一難、という表情だった。
「婚姻届けを出す、ということですか」
「そうです。3人は、私の子供ですが、長女と長男と次女ですが、それは、裏の顔になります。外では、真琴さんのことを、妻です、と私は言います。表の顔と裏の顔を持つということですが、どうされますか」
花が手を挙げた。
「私、口には出しませんでしたが、そのことが心配でした」
「驚きました。花さんは、気付いていましたか」
真琴も驚いた顔で花を見た。
「私は、気付きませんでした」
「仁君は、どう思いますか」
「僕は、よくわかりません」
「これを決めるのは、真琴さんです。どうしますか」
「少し、時間を頂けませんか」
「わかりました。そうしましょう。公的な手続きは、少し、先になりますので時間はあります。さて、私達は、契約を結ぶことになりますが、それは、いいですか」
「はい」
「ただ、このプランは、口約束ではありません。仁君と花さんには難しいことかもしれませんが、契約書を作り、一人一人、一人の人間として、責任を持ってサインしてもらいます。この契約は、責任を持って私が3人を養育する義務を負うことであり、皆さんにとっては、目標を達成する義務を負い、達成できなかった時は、借金を背負うことを認めるという契約です。契約書は私が作ります。いいですか」
「はい」
「そして、これは、千秋さんの助言ですが、今日以降、ここ、相川邸には近づかないほうがいいと言われました。皆さんも、薄々とは知っていると思いますが、相川さんは裏社会との結びつきが強い人です。最近、そういう人達の出入りが多くなっているそうです。葬儀にも出ないほうがいいと千秋さんは言っていました。私は、千秋さんの助言を聞きたいと思います」
「はい」
「日曜日、真琴さんは休みを取れますか」
「はい」
「では、それまでに契約書を作ります。そして、この先のスケジュールを決めたいと思います。信金だけではなく、2人の学校のこともあります。10時頃に迎えに行きます。私の家で、一緒に昼食をとりましょう」
「はい。私達には、何か用意するものはありますか」
「いいえ。疲れを取り、未来のことを考えてください」
「はい」
地図で、間宮一家が住むアパートを探し、近くのコンビニに車を止めた。
「ファミマの駐車場にいます。近くですよね」
「はい。すぐに出ます」
すぐに、足早に近づいてくる3人の姿があった。外出着がないのかもしれないが、いつもの服装は好感を持てる。
「早かったですね」
「ほんとに近くですから」
「乗ってください」
「ありがとうございます」
「私、助手席に乗ってもいいですか」
「もちろん。じゃあ、真琴さんと仁君は後ろに。シートベルトは忘れずに」
日曜日で道路が空いていて、30分で家に着いた。
花は小学生らしく、楽しんでいた。真琴も仁も、少し落ち着いたように見える。
相川邸ほどではないが、達意の家もかなり大きい。明治時代に建てられた洋館を、達意の父の代に建て替えたが、以前の建物に似た建物にしたので、明治の洋館と言っても疑う人はいない。
澤田亜矢夫妻が玄関で待っていた。
「いらっしゃいませ」
「紹介しておきます。この家を差配している澤田亜矢さんと、御主人の達夫さん。こちらが、話をしていた間宮真琴さんと仁君と花さんです」
「2人とも澤田なので、私のことは亜矢と呼んでください。主人は澤田と呼ばれるほうが喜びます」
3人は、それぞれ名乗って挨拶をした。
「お上がりください」
食堂の南側はガラス戸になっていて、庭の芝生が一面に広がっている。
「わあー、きれい」
「どうぞお座りください。今、お茶をお持ちします」
達意を前にして、三人は座った。
「お茶を入れたら、亜矢さんも澤田さんも座ってください。お二人にも話があります」
「はい」
お茶と茶うけの和菓子が出された。
「この二人には、嘘はつけませんので、私達4人の関係を話しました。私と真琴さんが親子関係であることを知っているのは、ここにいる6人だけです。亜矢さんも澤田さんも口外することはありません。お二人とも信頼できる方です。それで、いいですか」
「はい」
「ありがとう。それでは、4人の今後のことについて相談しましょう」
「では、私達は、これで」
澤田夫妻が台所へ行った。
「先ず、私の話を、少し、させてください」
「はい」
「私は、和菓子の石屋の四代目で、妻を5年前に事故で亡くしました。結婚して2年でした。子供は授かりませんでした。元々、子宝に恵まれない家系のようで、親類縁者もなく、身内と呼べる人はいません。ですから、一度に子供が3人も出来たのは、石井の家では珍しいことなのです。でも、石屋の5代目になってくれと言っているのではありません。石屋は、信頼できる社員の誰かに引き継ぐつもりです。皆さんは、石屋のことは心配せずに、自分の目標を実現してください」
「交通事故ですか」
「いいえ、銀座の喫茶店で暴力団の発砲事件があって、たまたま、そこに居合わせた妻が流れ弾に当たって死んだのです」
「ごめんなさい」
「真琴さんが謝ることではありません。ただ、私は妻を愛していましたので、立ち直るには時間がかかりました。今は、大分、楽になりました。時間って凄いと思います。それでも、私は、真琴さんを妻にはできません。私にとっても、真琴さんと親子関係でいられるのは、有難いことだと思っています」
「その事件と相川さんは関係していたのですか」
「いいえ、関係ありません。詳しい事情は話しませんが、たまたま、相川さんに助けられました」
「そうですか」
「真琴さん、仕事の方は」
「私から、退職を申し出ました。とても、喜ばれました」
「そうですか。では、来週にでも、信金へ行きましょう」
「はい。お願いします」
「学校は、どうします。3学期まで、今の学校へ通うか、転校するのかを決めなくてはなりません」
「私は、転校したいです」
「僕は、どちらでも、いいです」
「そうですか。では、真琴さん、二人の転校の手続きをお願いしてもいいですか」
「はい」
「まだ、婚姻届けは出していませんが、今日から、親子関係を始めるということでいいですか」
「はい」
「それでは、真琴さん、仁君、花さんという呼び方はやめます。名前を呼び捨てにしますけどいいですか」
「はい」
「私のことは、お父さん、と呼んでください。まだ、実感はありませんが、呼ばれていれば、きっと、父親になれます」
「はい」
「間宮食堂は、洋食屋さんでしたか」
「はい」
「仁は、洋食の修行をすることになるけれど、洋食だとすると何料理が目標になるのだろう」
「フランス料理だと思います」
「そうか。高校は卒業するのだろう」
「父が、亡くなった父が、高校は卒業させろと言っていたそうです」
「では、3年間は、高校生で、7年間、修行して、10年後に開店だな」
「そうなります」
「だったら、フランスに留学してみないか」
「留学ですか」
「料理の修行に、言葉や土地柄や気候なんて関係ないのだろうか」
「関係あると思います」
「だったら、フランスの高校を卒業して、言葉と土地柄と気候を3年間で知ることは料理の役に立つと思うけど、どうだろう。フランスには、私の友人がいて、君の世話はみてくれると思う」
「いいんですか」
「三ツ星を取るのだから、並の修行では難しいと思う。学生時代に、フランス中のレストランを食べ歩き、自分が修行したい店を選ぶこともできる」
「はい。夢みたいな話です」
「フランスの学校は、友人に調べてもらおう」
「ありがとうございます」
「先ず、君がやらねばならないことは、フランス語の会話を身につけることだと思う」
「はい」
「多分、始業式は9月だと思うので、今からだと9カ月はある。いや、9カ月しかないのかもしれない。本気出さないと、現地で苦労することになる」
「はい」
「短期間で、会話を身につけるための方法は、仁が調べて、出来るだけ早く実行へ移す。まさに、時は金なりになると思う」
「はい」
「今更だとは思うが、3人の目標は、はっきり言って無理で無茶な目標だ。それなりの努力では、100%無理だと思う。死に物狂いの努力でも、難しいと思う。必要なのは、何だと思う」
「わかりません」と仁が答えた。
「運と金だ」
「・・・」
「運は、どうすることもできない。でも、金は使え。君達の金じゃない。遠慮していたら、目標なんて達成できないと思え。例えば、9カ月でフランス語を話せるための最短の道は何か。マンツーマンの個人レッスンだと思う。もちろん、金はかかる。でも、金はあるんだ。利用できるものは何でも利用する。それも、覚悟の1つだと思ってくれ。最悪、仁が一生かけて返せばいい。でも、もしも、運が助けてくれて、目標が達成出来たら、それは、生きた金になる」
「はい。ありがとうございます」
「花は、どうして、作曲を選んだ」
「何年前からなのかはわかりませんが、音が降ってくるのです」
「降ってくる」
「そうです。突然、降ってくるんです。最初は、昔聞いた音楽を思い出しているのかと思っていたのですが、いろいろと調べてみたんですが、そんな曲はないんです」
「新曲ってこと」
「そうじゃないかと思うんですが、まだ、わかりません。降ってきた音を楽譜に残せればはっきりすると思うんですが、楽譜が書けません。そして、そのメロディーは、忘れてしまいます。ですから、音をピアノで弾けて、楽譜にすることができれば、作曲ができるのではないかと思いました。新しいメロディーなのか、それがいい曲なのか、自分でもわからないので、ピアノの勉強をして、音を楽譜にしたいのです。やってみた結果、意味のない音だったということなのかもしれないけど、一度、やってみたいのです。ただの音の羅列だったら、私の目標は、変更してもいいですか。以前の夢は、空手で世界一だったんです。でも、空手より作曲のほうがいいです」
「わかった。花は、まだ小学生だから、目標の変更は認めよう。空手をやっていたのか」
「はい。東京のジュニアの大会で、今年、優勝しましたが、関東大会で負けて、全国大会へは出れませんでした」
「この子の父親は、学生チャンピオンになったことがあって、花も小さい頃から道場に通っていました。私は、花の目標は空手の世界一かと思っていました」
「そうか。今、必要なのはピアノとレッスンだな」
「はい」
「私の妻は音大出で、ピアノは、この家にあるし、妻の友人がこの近くでピアノ教師をしていて、かなり優秀な先生らしい」
「うわぁー」
「防音の音楽室もある。ただ、5年間、調律をしていないから、正しい音が出るかどうかはわからない。後で先生に電話して、調律の手配をしてもらおう。ピアノ、見てみるか」
「はい。見たいです」
「よし。この打ち合わせが終わったら案内する」
「嬉しい」
「3人の中で、一番難しいのは、真琴だと思う。それは、年齢だ。子供の頃は、無限に吸収できるけど、大人になるとそうはいかない。だから、真琴は、仁や花の10倍の努力が必要になる。デザイン学校に入学する程度では目標はクリアできない。母親の役目をこなした上で、24時間、デザイン漬けになるくらいの努力が必要になると思う。少なくとも、その覚悟は持ってもらいたい。君が目標をクリアすれば、亡くなったご主人は、きっと、喜んでくれると思う」
真琴の目標が厳しいことは3人も理解している。達意は席を外し、契約書を持ってきて3人の前に出した。
「先ず、一言一句、よく、読んでくれ。サインをしたら、後戻りはできない」
契約解消を申し出る条件として、5000万円支払うという内容も入っている。民事で争えば、役に立たない契約書でしかないが、3人の一生懸命を引き出す材料にはなるだろう。
最初に顔を上げたのは花だった。
「問題は」
「ありません」
「そうか、皆が読み終わるまで待ってくれ。あっ、そうだ、音楽室に案内するよ」
「はい」
建物の北側に付け足したように増築したのが音楽室だった。
「入ってくれ」
「わぁー」
20畳ほどの部屋の真ん中に、グランドピアノが置かれている。花は、吸い寄せられるようにピアノに近づいた。
「触っても、いいですか」
「もちろん」
触りながら、ピアノを一周する。
蓋を開け、カバーを取り、鍵盤の上を指で触っていく。
花の指が鍵盤を押す。押し方が弱くて、「レ」の音は弱かった。
花の体がビクッと動いた。
振り返った花は、何かに驚いているようだ。
「このピアノ、喋れるんですか」
「まさか」
「だって、今、待ってたよ、って。聞こえませんでした」
「いいや」
「そうですか」
椅子を出し、座った花は、人差し指で鍵盤を押した。
何かのメロディーのようだ。
「ふぅ」
「それが、降ってきた音」
「はい、一度、学校のピアノで試したことがあります。忘れてしまうメロディーが多いけど、ピアノで音にしたメロディーは忘れていないみたいです。こんなメロディー聞いたことありませんか」
「さぁ、私は、音楽には詳しくないから、わからない」
「そうですか」
「そろそろ、食堂に戻ろう」
「はい」
「大丈夫。ピアノも、この部屋も逃げたりしない。今日から、この部屋もピアノも君のものだ」
「はい」
立ち上がり、カバーを戻し、蓋を閉め、手をピアノに置いたまま、固まっている。
「行くぞ」
「はい」
女は魔物だと言われるが、小学生の子供でも、大人の顔ができるらしい。仁の気持ちは、手に取るようにわかるが、真琴と花の気持ちは、多分、わかっていないのだろうと思った。
食堂に戻ると、真琴も仁も、契約書から目を上げていた。
「さて、内容に問題があれば、言ってくれ。後で、四の五の言っても受け付けないぞ」
「ありません」
仁が答えた。
「私も、ありません」
「花は」
「あっ、ありません」
「じゃあ、日付と名前を書いて」
3人にボールペンを渡し、達意も3枚の契約書にサインし、契約書を交換してそれぞれサインし、6通の契約書が完成した。
「失くさないように」
「はい」
「じゃあ、君達の部屋を案内する。この家は、古い様式で、2階にゲストルームという、普段は使わない部屋が3つある。たまたま、3人が新しく家族になったのは、何かの縁なのかもしれない。でも、3つあって良かったと思っている。一人だけ別の場所なんてことにならなくて良かった」
2階から戻ってきたが、3人共、顔に生気が無くなっている。
「どうした、何か気に入らないか」
「いいえ、とんでもない。でも、何か違うような気がしてなりません」
「何が」
「話が出来過ぎているような、明日には夢が醒めるような、どこか不安な、そんな気がしてなりません」
「私は、石屋の4代目だが、石屋が今日あるのは、これまでの当主や店の者が血のにじむような努力を積み重ねてきた結果だと思っている。間宮食堂は、御主人のお父さんが開いた店だと聞いている。御主人が2代目、仁が3代目になる。今が一番苦しい時なのだと思うが、仁の子供が、いや、子供ではなくても、間宮食堂が歴史を重ねるためには、それ相応の努力が必要になるということだと思う。たまたま、大きな家がある、ゲストルームが3つあるなんて些細なことで、いつ無くなっても不思議ではない。私達が何を為すのかが大切なのであり、今ここにあるものは利用したらいい。子供や孫に、いや、私達の近くにいる仲間に、何が残せるのかが、私達の仕事だと思う。それが、生きるということなんじゃないかな」
「はい」
「会ったことはないけど、きっと、君のご主人も同じことを言うと思う」
「ありがとうございます」
「ビックリしたり、不安を抱えている場合じゃない。君達は契約書にサインしたんだ。もう、待った無しで、目標をクリアするしかないんだと思うよ。さあ、動け、と言いたい。悩んでいたって、5億も三ツ星もCDも手に入らない。そうだろう」
花は、大畑音楽教室の待合室にいる。
12月から、週に3日、通っている。
普通、ピアノのレッスンを受けるのは、3歳から6歳なのに、花は小6の2学期の終わり頃に通い始めた。
「どうして、今なのかしら」
先生は石井の父に聞いた。
「お前から、説明しなさい」と言われ、音が降ってくること、その音をピアノを通じて楽譜に書き留めたいことを話した。音大を目指すのでもなく、趣味のピアノでもない。作曲のための道具としてピアノを弾けるようになりたいと伝えた。
今は、渡された楽譜と課題を1日でこなせるようになった。
半年が過ぎ、中学生になったことで勉強にも時間を取られる中で、花は先生の課題をクリアし続けた。
「花ちゃん、1週間お休みにしてみない」
「いえ、頑張りますので、続けてください」
「いや、あなた、充分、頑張った。確かに、ピアノ演奏者としては合格点は出せないけど、ピアノのプロが目標じゃないでしょう。1週間で、作曲してみて、その上で、この先の練習をどうすればいいか、決めましょう。私、かなり、無理を押し付けた。それでも、あなたはついてきた。努力もあるのだろうけど、音に対する感覚が普通の人とは違うみたい。私も、こんなレッスンは初めてだから、最善の方法なんてわからないのよ。ここから先は、話し合って道を見つけましょう」
「はい」
花は、練習の合間に、思い出しては音を楽譜に書く練習もしていた。新しく降ってきた音は、忘れないうちに書き留めた。ただ、降ってくる音は、一曲丸ごと降ってくるのではなく、1つのフレーズに過ぎない。そのフレーズにつなげる部分は自分で創作する必要があるのだ。それからは、試行錯誤の連続で、あっという間に、1週間が過ぎ、延長してもらった1カ月も過ぎた。夏休みに入り、作曲に関する情報も調べ、本も読んだ。そして、夏休みも終わりに近づいたころに、これまでの苦労が嘘のように、するすると曲ができた。試しに、別のフレーズで作ってみたが、それもクリアできた。
「先生、できました。聞いていただけますか」
「あめでとう。明日、夜の7時にいらっしゃい」
「ありがとうございます」
大畑先生は、音楽のプロであり、何曲か作曲したこともあると言っていた。そんな人に、素人の中学生の曲が、どう聞こえるのか、不安ではあったが、自分で作った曲を初めて聞いてもらう相手は大畑先生しかいない、と思っていた。
「どうぞ」
「はい」
緊張する。
楽譜を見なくても弾けるが、花は、楽譜を見ながら弾き始めた。
2分弱の曲だが、最後は楽しく自由に弾けたと思う。
先生の拍手が嬉しかった。
「すごい。中学生のあなたが、作ってしまった。ビックリとしか言いようがないわ」
「ありがとうございます。でも、まだ、心配です」
「どうして」
「誰かの曲のパクリだと言われるんじゃないかと心配です」
「そうか。その点では、私は、何とも言えない。音楽会社に友達でもいれば相談できるけど、誰に聞いてもらったらいいのかしら。ところで、題名はあるの」
「祈りです。昨日、父と亜矢さんに聞いてもらったのですが、亜矢さんが、何かを祈っているみたいな曲ね、言ってくれたので、祈りにしました。CCMって知ってます」
「クリスチャンミュージックね」
「はい。私、クリスチャンですし、CCMが好きなんです」
「だとすると、アメリカの専門家ね。専門家じゃないけど、アメリカ人の友人がいる。元々は、律の友人なのだけど、私とも付き合いがある。彼女に聞いてもらおうか」
「律さんって、石井律さんですか」
「そう、ちょっと、不思議よね。律と私が友達で、律のご主人の石井さんの子供になったのがあなたで、あなたは、律のピアノで曲を作り、律の友達に意見を聞こうとしている。驚きだわ」
「はい」
「そう言えば、律も作曲がしたいと言ってた。彼女はクラシックだったと思うけど、曲が出来る前に亡くなってしまったので、聞けなかったけど、どこかに楽譜が残っているかもしれない。そんな楽譜、見たことない」
「いいえ。律さんが残したものには、できるだけ触らないようにしていますので、あるのかもしれません」
「石井さんの許可を貰って、一度、探してもらえないかしら。何なら、私がお願いしてもいい」
「私から父にお願いしてみます。探す時は、先生にも来てもらえたら助かります。私では、多分、区別がつかないと思います」
「じゃあ、石井さんの許可が出たら、メアリーとあなたと私で、律の音楽室を捜索するイベントをやりましょう。メアリーも賛成してくれると思う。その時、あなたの曲も聞いてもらいましょう」
「ありがとうございます」
石井の許可は、すぐに取れた。三人とも、仕事や学校があり、次の日曜日に捜索することになった。
先生とメアリーがやって来た。花が知っているアメリカ人は、女優や歌手で、どこか華やかな人達だろうと思っていたが、メアリーは、服装もその態度も地味で少し驚いた。
出迎えた亜矢は、以前からメアリーのことは知っているようだ。
「いらっしゃいませ。先生もメアリーさんも、お久しぶりです」
「ご無沙汰してます。亜矢さん、お元気そうで、なによりです」
「そうなんです。若い人がいるだけで、元気になってしまいました。どうぞ、お上がりください」
「失礼します。今日、石井さんは」
「相変わらず、仕事です」
「そうですか」
食堂に案内した二人を残して、亜矢はお茶を用意しに台所へ行った。
「花さん。こちら、友人のメアリー・ワーナーさん」
「メアリー、この娘が、石井花さん」
「初めまして、花さん」
「よろしくお願いします」
握手とかハグをするのかと思っていたが、そんなことはなかった。
亜矢がお茶と菓子を乗せたお盆を持ってきた。
「ここで、いいですか。音楽室に持って行きますか」
「じゃあ、音楽室へお願いします」
3人は、すぐに、音楽室へ移動した。
「懐かしい」
「私も」
メアリーは、ピアノに触り、机に触り、壁に触って、まるで律に挨拶しているようだった。花には、メアリーの目が潤んでいるように見えた。
「久しぶりよね」
「ええ、あれから、初めてです」
「ごめんなさい。私、律さんの子供ではありません」
「あなたのことは、早苗から聞きました。早苗は、あなたのこと、律の生まれ変わりみたいだと言ってたけど、確かに、そんな印象はあります。年齢も顔も声も、全然違うけど、空気感が似ていると思う。子供時代の律に出会えたようで、とても嬉しい」
「ありがとうございます」
「もう、10年以上前、日本に初めて来た時、日本語も下手で、西も東もわからない時に、律のお父様に大変世話になって、律に出会って友達が出来て、この国で頑張ってみようと思ったの。今でも、律には会いたい」
「メアリーは、大きな製薬会社の研究所のメンバーで、優秀な研究者だそうよ。その研究所の所長をしていたのが律のお父さん」
「そうですか、先生が、何かの縁だと言っていたのは、そういうことなんですね」
「宝探しの前に、花の曲を聴いてもらわない」
「はい」
「CCMの曲だそうね。私も、CCM好きよ。信者としては落第かもしれないけど、音楽としてのCCMは好き」
花はピアノの前に座り、心を落ち着かせた。
もう、数えきれないほど弾いている曲だったので、楽譜は見なかった。最初はメアリーの存在を意識していたが、曲に入ってしまうと気にならなくなり、ピアノに花の気持ちが乗り移っていった。
「いい曲だわ。祈りという題と聞いたけど、その祈りは私にも届いた」
「ありがとうございます」
「ただ、私があらゆる曲を知っているわけではないので、これがオリジナル曲かどうかはわからない。やっぱり、専門家に聴いてもらったほうがいいと思う」
「そうか、メアリーでもわからないか」
「私の友人が、アメリカでCCMの仕事をしている。彼に、この曲を聴いてもらうように依頼してもいいけど、できれば、詩があって、歌があったほうがいい。花さんは、作詞はしないの」
「はい。全然、言葉が出て来ません。日本語でもそうなのですから、英語の歌詞は夢のまた夢です。ごめんなさい」
「そう」
「メアリー、昔、詩を書いてなかった」
「もう、大昔の話よ」
「でも、書けば、書けるよね。時間があるかどうかはわからないけど」
「お願いできませんか」
「うーん。一度考えてみる。ここ、律の部屋で、そう言われると何とかしなければと思うけど、出来るとは約束できない」
「はい、出来れば、でいいです」
「でも、歌は、駄目よ」
「はい」
「花さん。もう一度弾いて。録音する。後で、楽譜もコピーしてね」
「はい」
一段落し、律の曲の捜索を始めようとしていた時に、亜矢が「お昼ができましたよ」と部屋に来た。
「もう、昼か」
食堂には、たっぷりの野菜とオムレツが用意されていた。
「わぁー、亜矢さんのオムレツが食べれるなんて夢みたい」
メアリーが、すぐに座り、スプーンを手にした。
食事が終わり、亜矢を交えた3人が律の話で盛り上がった後、音楽室に戻った3人は、律の楽譜を探した。
楽譜は、すぐに見つかった。
誰も探さなかっただけで、楽譜は書棚の一角にあった。
先生が楽譜を読んでいる。頭の中ではピアノの音が聞こえているのだろう。
「これ、私が借りてもいいかな」
「はい。父に聞いて、すぐに、届けます」
「お願い」
「あの、もう1つお願いしてもいいですか」
「なに」
「父は律さんのことを話しません。私も、聞きにくくて聞けません。二度目の妻の連れ子の私には、聞けないんです。でも、律さんのこと、知りたいです」
「そう言えば、私も律のことはあなたには話さないようにしていたかもしれない」
「私が先生の所へ行ったのも、メアリーさんが協力してくれているのも、そこには、律さんの存在があります。そして、律さんの音楽室で、律さんのピアノで私が曲を作っているのは、律さんのご主人だった父と出会えなければ、なかったことです。律さんの意志が、そうさせているようにしか思えないんです。だから、私は律さんを知らなければならないと思うんです」
「そうかもしれないわね」
「私、早苗から頼まれたから来たけど、ほんとは律に頼まれたのかもしれない。あなたに会って、この部屋に来て、あなたの音楽を聴いて、何かが繋がっていると感じている。そういう意味では、繋げているのは、律よね」
「はい」
「ところで、花さん、いや、花って呼んでもいい」
「もちろんです」
「私達、友達になった。そうよね」
「はい」
「私も、さん抜きのメアリーって呼んで」
「はい」
「で、花は、ほんとに、中学生なの」
「えっ、どういう意味ですか」
「学校で、変な奴だと言われてない」
「いいえ、言われてないと思います。まだ数カ月しか経っていませんが、仲間外れにされているようなことはありません。いや、授業が終わるとすぐに帰りますから、変な奴だと思われているかもしれませんが、普通に話をしています」
「そう。あなたと話していると、中学生と話しているのを忘れるのよ」
「ごめんなさい」
「いや、謝ることじゃないと思う。あなたには、他人との距離を縮める魔力があるのかもしれない。律にも、そういう魔力があった。親子でもないのに不思議だけど、きっと、そういう所が似てるのかもしれない」
「よくわかりませんが、褒めてくれたと思っておきます」
「そういうとこ。普通、中学生はそんな答え方はしないと思う」
「やっぱり、よくわかりません」
「あなたのこと、花と呼ぶより、律と呼んでしまいそう」
「そうですか。よくわかりません」
「早苗。もしかすると、この子、本物かもしれないよ」
「うん。最近、私も、そう思っている」
「ちょっと待ってください。私、化け物じゃありません」
「化け物は、自分が化け物であることを知らないのが普通よ」
「そんな」
「こんな会話、中学生とする」
「しない」
「待って、待って、違いますから」
「律と早苗と私で、こんな話をしたことがある」
「そうだっわね」
「律も、どこかズレているのだけど、それが不快じゃない。一緒にいて、とても居心地がいいの。いつも、相手のことを考えているけど、そのことにも本人は気付いていない。知らない人は律を変な奴だと思うかもしれないけど、知れば知るほど、彼女の魅力に出会う。しかし、本人は、全く、気付いていない。ほんとに不思議な人だった。彼女のピアノも素敵だったけど、絵も上手、文章も簡単に書いてしまう。本人は器用貧乏で一流にはなれないと悲観していたけど、理由はわからないけど、意識的に、一流になろうとしなかったんじゃないかと思った。作曲していたらしいと聞いて、何となくホッとした。私、律が亡くなった時、喪失感が凄くて、本気でアメリカに帰ろうかと考えた。でも、日本を離れたら、律との思いでもなくなるのではないかと思って、帰れなかった。今でも、その結論は出せていない。こうやって、花と出会って、律に似た空気に触れて、日本に残っていてよかったと思っている。私にとって、律はかけがえのない友達だった、いや、友達以上の存在だったと思う。そう、そんな人だった」
「素敵な人だったんですね」
「石井さんが再婚したと聞いた時、私、ビックリした。あっ、ごめん、これは、花に言うべきじゃなかった。ごめん」
「いえ」
「でも、律は、きっと喜んでいると思う。そういう人だから。律に似ているあなたが、石井さんの娘としていてくれたら、私も嬉しいし、石井さんも喜んでくれると思う」
先生とメアリーの思い出話は尽きなかった。
「花さん。食事の時間ですよ」
亜矢に呼ばれるまで、部屋で呆然としていたらしい。
「二人は」
「お帰りになりましたよ」
「今、行きます」
食堂のテーブルには、既に、達意と真琴が座っていた。仁は、フランスに行ってしまったので、今は三人家族だ。
「メアリーは、帰ってしまったそうだね」
「また、来てくれるそうです」
「そうか」
「メアリーさんって」
「律さんの友達で、今度、私の曲の作詞をしてくれる人」
「そう」
花は、少し、居心地が悪かった。母には、達意のいない場所で、律の話をしようと思った。
日常が戻って来て、学校と曲作りの毎日が始まった。
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