39話:園田「急変」
☆☆☆
とても綺麗な水色の空。空気が冷たいからか、凄く澄んでいるように思った。
歩いてるだけなのに肩で息をしてしまうくらい、体力がなくなった。肺に入ってくる空気はとても爽やかで冷たくて心地良かった。全くと言って良いくらい風は吹いていないから、冷たい空気にもどこか優しさを感じられた。
今日はリハビリで、病院の敷地内を一周した。とてもゆっくりだけど、一度も手を掴んで貰わなくても歩けた。砂利の駐車場に続く坂も一人で上れた。昨日できなかったことが、今日はできる。それが嬉しかった。
「ありがとうございました」
理学療法士さんに頭を下げる。荷物を持って病院を出る。リハビリの日はいつも莉歩が迎えにきてくれる。バイクのサイドカーに乗るのは、最初は注目されるかもって恥ずかしかったけど、乗ってしまえば気持ちよくて好きになった。
この空も澄んだ空気の冷たさも、サイドカーに乗って走るときに駆け抜けていく町の風も、全部、若月くんが助けてくれたから感じることができること。
死ななくて良かったと思う。同時に、若月くんと同じ空を見たい。空気を吸いたい。一緒に歩いて優しい風を感じたい。そう強く願う。それなのに若月くんは、十日と少し経っても目を覚まさない。
もしかしたらこのまま、という考えが頭を過ぎる度に、違う、そんな筈ないと自分に言い聞かせて不安を取り払おうとする。だけど、本当に目を覚まさなかったら。
怖い。怖くて、顔を俯かせて立ち止まった。
急に左手を強く握られた。突然のことで、体がびくりと強張って顔を上げる。
莉歩が、髪を降ろしたままの神妙な面持ちで私の目を見つめていた。
「莉歩? どうしたの、そんなに怖い顔して」
「若月の容態が急変した。早く行くよ」
莉歩は静かにそう言って、私の手を引っ張って歩き出した。
胸が痛いくらいに締め付けられた。急変って若月くんの身に何かが起きたの?
取り払おうと必死になっていた不安と恐怖が更に大きくなって私を支配する。胸が芋虫が這ってるみたいにざわつく。お腹が刺されたみたいに痛くなる。手が震えて視界が滲んだ。
私は莉歩に手を引っ張られるまま歩き、バイクのサイドカーに乗った。ヘルメットを被った莉歩がすぐにエンジンをつけて走り出した。
道中、私は前を向けなかった。ずっと、自分の太ももに視線を落とす。町の景色なんて見られなかった。
もしかして。大丈夫だよね。
最悪のケースと若月くんなら大丈夫だという私の願望が交互に頭を過ぎっていく。だけど、大丈夫だっていう気持ちはどんどん薄れていった。脳裏にベッドの上で安らかに目を閉じて、息をしない若月くんの姿が過ぎり、残る。
「着いたよ。早く病室に行こう」
莉歩の言葉にようやく顔を上げる。
若月くんが入院している、川沿いの新しい建物の総合病院に到着していた。川には電車が通る鉄橋がかかってある。その線路沿いに商業施設もあって家族連れか賑わう声が聞こえた。
だけど、その声の中には若月くんの声はない。そんなの当たり前のことなのに、それがもの凄く私の不安を強くさせて、胸が潰れそうだった。
早く行かなくちゃ。若月くんのところに行かなくちゃ。
サイドカーから降りて、左足を踏み出す。少しギクシャクとしながら歩いて駐車場から病院の中に入る。若月くんが入院してる七階へ昇る為にエレベーターホールへ行く。
エレベーターがどこに停まっているかを教えてくれる電灯は、九階と表示していた。他のエレベーターも八階や十階にあって、なかなか降りてこない。
階段で上ろうかと思った。でも、私の足で上ってもエレベーターよりも早いわけがないってわかってるから、待つしかできない。
自分の体が憎くなる。早く行きたいのに、こんなときに待つしかできない足が忌々しい。
その間も莉歩は何も言わず、長い髪を後ろで一つに束ねながら、私の隣でエレベーターが来るのを待っていた。落ち着いているように見えて、莉歩は凄いなって思った。
それに比べて私は、今にも怖さで力が入らなくなって、へたり込んでしまいそうなのに。
ようやくエレベーターが降りてきてドアが開いた。二人で乗り込んで、震える手で七階のボタンを押す。
ふわりとくる感覚と共に上がっていく。
神様、このエレベーターがどこにも止まらずに七階まで行けたら、若月くんが無事でありますように。そんな願掛けをして、止まらないことを願った。
だけど、私の願いは叶わず四階で止まって人が乗り込んできた。
神様に聞き届けられなかった。涙が目に溜まる。それもこれも私が入院してるときに迷惑をかけたせいだと自分を責めた。だけど、涙は流しちゃいけないと我慢する。
ここで泣いたら諦めてしまうみたいで、それだけは嫌だった。
エレベーターが進むのがやけに遅く感じる。七階まで行くのなんて一分もかからない筈なのに、感覚では何十分もかかっているような気がした。
ようやく七階に到着してドアが開いた。ツンと薬の匂いが漂う。
エレベーターを降りて病室に向かう。他の人から見たら、ゆっくり歩いているようにしか見えないくらいの速さ。それでも私にとっては全力で走っていた。
若月くんの病室のドアが閉まっている。ドアノブを右手で掴む。開くのを躊躇った。本当にこの病室に若月くんはいるのかな。もし、もぬけの殻になっていたら。そんなの耐えられない。
「ナコ?」
後ろから莉歩が声をかけてきた。開かないのを不思議に思ってるのかな。
私は「うん」と頷いて、恐る恐るドアを開いた。
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