37話:園田「涙の残り香」
お母さんに連れられて家に帰る。車の中ではずっと俯いていて、覚えてるのは、雨に濡れた靴を見ていたことだけだった。
暗闇が怖くて、豆電球をつけた仄明るい自分の部屋。目を閉じて静かに息をしても眠れない。胸の中にごめんなさいという気持ちが積み重なっていく。
若月くん、ごめんなさい。私のせいでごめんなさい。ごめんなさい。
神様、お願いします。若月くんを連れて行かないで。
目を開くと、月みたいな淡い灯りの豆電球が目に入った。その光は今にも消えてしまいそうで、若月くんが消えてしまったらどうしようと不安になる。若月くんとの思い出が浮かぶ。花火大会、登山、流星群、病気になってからのこと、怒鳴られたこと、卵トーストを作ってきてくれたこと、車椅子に乗って一緒に散歩をしたこと。
その喜怒哀楽に満ちた若月くんの表情を思い出して、胸がぎゅっと締め付けられて軋むように痛む。私のせいで、今は若月くんの色んな表情が見れなくなった。
結局、一睡もできないまま、朝日が昇ってカーテン越しに部屋を明るくさせた。
全く眠れそうにないのに、起き上がる気力もなくて、ベッドの上でずっと横になっていた。チクタクと進む秒針の音が響く。太陽のおかげで部屋は十分に明るい。それでも、若月くんが消えちゃうみたいで、消せない豆電球をじっと眺めていた。
突然、ノックの音が部屋に響く。静かにドアが開くと、お母さんが部屋に入ってきた。
「ひな、用意しなさい。若月くんの親御さんに謝りにいくよ」
その言葉に、胸がドキリとする。
そっか、そうだよね。謝りに行かなくちゃ。
それは当然のことだ。私はまだ動かし辛い左の手足にてこずりながら、服を着替えて準備をする。髪の毛は随分と伸びたけど、まだ女子にしては短いベリーショート。この髪型は私に似合わないな、と鏡を見て思った。でも、莉歩が買ってきてくれたウィッグは着けない。謝りにいくんだから、飾らない姿で行かなくちゃ。
お母さんの運転する車の助手席に乗る。
心臓がずっと暴れてる。若月くんの親に会うのはもちろん初めてのことで、緊張してるというのもある。でも、それ以上に怖かった。
私のせいで大切な息子である若月くんをこんな目に合わせてしまった。どんなに私のことを憎んでるのだろう。自分の両足が震えている。
だけど、どんなに怖くてもちゃんと謝りたい。どれだけ怒鳴られても、殴られたとしても頭は下げ続けようと決心して車の窓から外の景色を見た。
夜中に降っていた雨は止んでいて、青空が広がる。アスファルトのくぼみに雨水が溜まっているけれど、それ以外の部分は陽射しのおかげで乾いてる。
車の後部座席に菓子折りの袋が置いてあった。
「ひな」
車に乗ってドアを閉めるとお母さんが重い声で名前を呼んだ。
「言おうかどうか迷ったんだけど、ひなが起こしたことでもあるからちゃんと聞いて」
怒ってるわけじゃない。それでも、記憶の中にあるお母さんのどの声よりも厳しく聞こえた。
「若月君ね。手術は成功したらしいわ。でも、いつ目を覚ますかはっきりしないんですって。命もどうなるか、わからないの。さっき電話で、若月君のお母さんから聞いたの」
全身が重くなった。手術は成功したという言葉に一瞬だけ安堵した。でも、目をいつ覚ますかわからない。命の危険が取り払われたわけじゃないってことに不安と怖さ、それと申し訳なさが頭の中を支配した。
車は国道から細い路地に入って少し進む。地面が砂利で敷き詰められた敷地があった。そこにお母さんは車を停車させて、「着いたよ」と口にした。
強く鼓動しっ放しの心臓が更に激しく脈打った。収縮するごとに痛いと思うくらいだ。
砂利の上を歩く。ゆっくりとしか歩けない私の隣をお母さんが心配そうに見つめながら歩いて、青がかった壁の二階建ての家の玄関の前にまで行く。
表札には「若月」と書かれていた。
「ちゃんと謝ろうね。許してもらえるかわからないけどね。それでも、謝るんだよ」
優しく声をかけてくれるお母さん。「うん」と小さく頷いた。
お母さんがチャイムを押した。バクバクと心臓の音が辺りの音を消していく。怖くて足が震える。でも、逃げちゃダメだと自分に言い聞かせた。
『はい』
少しトーンの高い、だけど、気持ちが沈んでいる様子の声がインターホン越しに聞こえた。若月くんのお母さんだということはすぐにわかった。
「先ほど電話しました園田です。娘と一緒にお伺いに参りました」
お母さんが神妙な口調で答えた。
『少し待ってて下さいね』
若月くんのお母さんは、わざと元気を作ったような口調でそう言い残し、インターホンが切れる音がした。すぐに家の中から足音が聞こえて、どんどん近づいてくる。
お母さんが菓子折りの袋の持ち手をぎゅっと強く握ったのがわかった。それを見て、お母さんも怖いんだって気付いた。
ごめんね、お母さん。私のせいで怖い思いさせて。
申し訳なさでいっぱいになる。また私は、みんなに迷惑をかけてるんだなと死にたくなるくらい、自分に対する嫌悪感でいっぱいになる。
目の前のドアノブが下がった。ドアが開いて、若月くんの匂いが溢れてきた。
開いたドアの向こうには、少しふくよかな、いつも笑っている姿が簡単に想像できる女性、若月くんのお母さんが立っていた。
若月くんのお母さんと目が合う。瞬間、少し驚いた表情を浮かべた後、真っ赤に泣きはらしたであろう赤くなった目で優しく微笑み、私を見つめてくれた。
「若月さん。この度はうちの娘、日菜子のせいで本当にご迷惑をおかけしました」
お母さんが深く頭を下げる。「ほら、ひなも」と小さく声をかけてきた。その声にハッと我に返った私も、謝らなくちゃと口を開いた。
「ほんとうに、ごめん、なさい」
涙が出てきた。
「わたしのせいで、わか月くん……香くんを、こんな目に合わせてしまって」
脳裏に若月くんが車に撥ねられた光景が過ぎって、言葉が詰まる。
更に涙が溢れる。足に力が入らなくなって、膝が崩れて地面にひざまついた。
「ごめん、なさ……」
頭を下げる。額が地面についた。
ちゃんと言わなくちゃいけないってわかってるのに、涙のせいでちゃんと発声できなかった。それでも謝らなくちゃと口を開く。
「わたしが、病気になったときに死んでいたら、こんなことにはならなかったんです。わたしがいなければ、わか月くんは今も元気でいられた。わたしが死ねば」
だけど、私の口から出る言葉は後悔と、私が死んでいれば良かったんだという思いだった。
「君は、自殺をしようとしてたのかな?」
地面に額をつけている私の頭の先から、若月くんに似た、若月くんの声をもっと落ち着かせたような男性の声が聞こえて、思わず顔をあげる。
黒髪の短髪の男性が立って私を真っ直ぐ、三白眼の目で見つめていた。その目の形は若月くんそのもので、この人がお父さんなんだってすぐにわかった。
言い淀む私を見て、お父さんは「死んでいればと言うが、君は自殺をしようとして車道に出たのかな」と、もっとわかりやすい言葉で尋ねてきた。
「いえ、頭が痛くなって、パニックになって、病院に行こうとしてました」
本当のことを答える。
「あの、この子、うちの娘は夏前にくも膜下出血を起こしまして」
隣にいた私のお母さんが説明をする。それを聞いたお父さんは「それは、大変だったね」と口にした後、私のすぐ傍にやってきてしゃがみ込み、優しく肩に手を置いた。
「君が自殺をしようとしていたのなら、ここで怒鳴り散らしていただろう。だけどね、君は自殺をしようとしたんじゃない。それなら、君は悪くない」
若月くんが話しかけてきてくれるような、優しい口調だった。
「息子が助けようとしたその命を、粗末にするようなことは言わないでくれないか」
若月くんのお父さんが私の肩に置いた手は震えていた。その震えで気付いた。
色々な感情を抑えてくれている。私に対する怒りの気持ちだってあると思う。だけど、それ以上に若月くんが目を覚ましていない状況を悲しんでいる。
「君を助けた息子は立派だと胸を張って言いたい。よくやったと褒めてやりたいと思ってるよ」
そして、それ以上に若月くんの行動が絶対に正しいと信じているんだと感じた。
「もうどちらも顔を上げて下さい。死んでなんかないんですから。絶対に死にませんから」
若月くんのお母さんの強い口調。もしもの可能性だってある。だけど、それを信じてないみたいに死なないと言い切った。
「辛気臭いのは嫌ですよ。さっ、お茶の用意しますので上がって下さい」
若月くんのお母さんの明るい口調が、重い空気を一変させた。
「い、いえ! 私達は謝罪に来ただけですから、そんな」
お母さんが遠慮をする。だけど、若月くんのお母さんは「そこまでしなくて良いと電話で言いましたのに、お菓子まで用意していただいて。お茶をしないとお菓子に失礼です」と言って、わははっと笑った。
「お二人共、上がってくださいな」
若月くんのお父さんの言葉が決め手となって、お母さんが「それでは少し」と根負けしたように口にする。三人が家に上がっていくのを見て、私はゆっくりと立ち上がる。動かし辛い左足を不器用に動かしながら靴を脱いで、家に上がって居間に向かい、ソファーに座った。
若月くんの匂いがした。テレビの横に幼い頃の若月くんの写真があった。これが若月くんの幼いときなんだって見入っていると、若月くんのお父さんが尋ねてきた。
「足や手は、治るのかね」
「わかりません。もしかしたら、このままかもしれないです」
「息子が目を覚ましたら、頼ってやってくれて構わないからね」
ああ、若月くんのお父さんも目が覚めるって信じてるんだ。
「これ以上の迷惑はできるだけ、かけたくないと思っています」
私の返事にお父さんは「そうか」と言葉にした。そして、「頑張って」と笑いかけてくれた。その顔が若月くんの笑顔と瓜二つで、将来、若月くんも年をとって、こんな風に笑ってくれたら良いなと思った。だけどそれは『ずっと一緒にいる』という願望が混じった、凄く恥ずかしいことを想像してるとすぐに気付いて、自分の顔が赤くなったのがわかった。
「そうだ、日菜子ちゃんに貰って欲しいものがあるのよ」
若月くんのお母さんが、そう口にすると居間を出ていった。
貰って欲しいもの? 一体なんだろう。
そう思っていると、すぐに一枚の紙を持って帰ってきた。
「これって日菜子ちゃんよね。こんなに可愛い子どこにいるんだろう。もしかして香の妄想かなって思ってたんだけど、日菜子ちゃんの顔を見てピンときたわ。凄く可愛いんだもの」
言いながら、若月くんのお母さんが持ってきた紙をテーブルの上に置いた。それは絵だった。
その絵を見て私は息を飲んだ。隣に座るお母さんも、絵に魅入ってしまったみたいだった。
白い壁に青いカーテン。テーブルの上にはいくつも芳香剤が描かれていた。芳香剤の強い匂いに混じって薬の匂いも感じるほどの部屋。それは、私が入院していた病室だとわかった。そして、絵の少し右側に布団の上に上半身を起こして座る女の子の姿が描かれていた。
栗色の髪の女の子は白くて儚い。どこか幻想的な雰囲気で、とても綺麗だった。
そこに描かれてる女の子が私だと気付くのに少し時間がかかった。だけど、この部屋が私がいた病室だってことは、布団の上で座っている女の子は私だ。それが、とても恥ずかしくなって、自分の顔がまた赤くなったのがわかった。
「あの、これは、どこで?」
私は恥ずかしさで、顔を上げられず俯いて問いかける。
「香の部屋にあったわ。綺麗に丸められてたけど、ゴミ箱に入っててね。でも、凄く綺麗に描けてたから捨てるの勿体なくて、こっそり持ち出したの」
若月くんのお母さんはそう言うと、おどけたようにぺロリと舌を出した。
ゴミ箱に捨てられていたという言葉で、若月くんが私のことを良く思っていない時期に描いたんだということがわかった。それでも、実物の私なんかよりも、ずっと綺麗で可愛く描いてくれてたのが嬉しかった。
その絵を見て思う。また若月くんと話をしたい。若月くんと外を歩きたい。若月くんの見てる世界を尋ねてみたい。
私はついさっきまで死んでいれば良かったと思っていた。だけど、若月くんの絵はそんな私に生きていたいと思わせてくれた。やっぱり若月くんは凄いな。若月くんは、どこまでも、どんなになっても私を支えてくれるんだって胸が強く高鳴った。
私とお母さんは、その後少しお話をして、家を出る。
帰りの車の中で「若月くんが優しい理由が、ご両親を見てるとわかるわね」とお母さんが言った。本当にその通りだと思った。
帰りの車の中、私はずっと若月くんが描いてくれた絵を眺めていた。
「あら、莉歩ちゃんだわ」
家に到着すると、お母さんがそんな声を漏らした。私はずっと絵に落としていた視線を上げて外を見る。
サイドカーのついた黒いバイクに体を預けるように莉歩が立っていた。
左側の手足は動かし辛いけど、できるだけ急いで車から降りた。
「どうしたの?」
問いかける。莉歩は私を見て、少し目を丸くさせた。
「ナコが落ち込んでるかなって心配になったんだけど、思ってたより元気そうで良かった」
「うん。朝まではすごく落ち込んでたんだけどね。死にたいって思ってたくらい」
私の言葉に莉歩は一瞬、苦しそうに眉を顰めた。
だけど、今はそんなことは思っていない。その理由として、さっきまでの出来事を莉歩に説明する。莉歩は「そっか。良かったじゃん」と笑いかけてくれた。その笑顔はいつも私の胸を暖かくしてくれる。私はみんなに支えられてるんだって実感する。支えてもらってるからこそ、今以上には迷惑をかけたくないって強く思った。
「それで、その絵が若月が描いた絵なんだ?」
莉歩が私が手に持っている、丸めた紙を見ながら尋ねてきた。
「うん。そうだよ」
言いながら、絵を広げる。
「良いね」
莉歩が素直に褒めたことに驚いた。それは顔に出てたみたいだ。
「あたしだって褒めるときは褒めるし」
莉歩が照れたように鼻の頭を掻いた後、また絵に視線を落とした。
「この絵見てるとさ、あいつ、ナコのこと本当に大切に想ってるんだなって思うよ」
「え?」
私は、よく意味がわからなくて首を傾げる。
「ナコは可愛いから、よっぽど絵が下手な奴が書かない限り誰が書いても可愛くなるよ。でもさ、世界中見渡して、こんなに綺麗に書ける奴なんて他にいないよ。それだけ若月の目にはナコのこと綺麗に見えてるってことだろうなって思ってさ」
「そ、そんな」
莉歩の言葉に私の顔は赤くなった。胸とお腹の間がふわりとするような、とても心地良い気持ちになる。
「だからさ、若月もナコが元気でいてくれてる方が嬉しいと思う。目を覚ましたとき、ナコがいないと辛いと思う」
「うん」
小さく頷く。
「だから、もう死にたいだなんて言わないで」
莉歩の顔が悲しさでくしゃくしゃになって、目が赤く染まった。
あっ、と胸が詰まった。私の言葉なんかで、莉歩にこんなにも辛い思いをさせてしまうんだ。
「ごめんね」
自然と謝罪の言葉が口をついた。
「あたしは、悪く無いのに、ごめんねって言うのも嫌だし言われるのも嫌いだ」
莉歩が腕で目を拭いながら、きっぱりと言い切る。
「若月も目を覚ましたとき、ナコにごめんなさいなんて言われたら辛いと思う。それよりもさ、リハビリ頑張って、今よりも動けるようになった姿を見せて、若月が助けてくれたから今はここまで動けるようになった。ありがとうって言ってやろうよ」
言葉が胸に突き刺さった。
莉歩も若月くんは目を覚ますって思ってる。みんなそう信じてる。私だって信じたい。ううん、信じようって思った。それに莉歩の言う通りだ。私は若月くんに助けられた。だからこそ、リハビリを頑張らないといけない。
「うん。そうだね。うん」
私は真っ直ぐ莉歩の目を見た。莉歩が赤い目のまま白い歯を見せて笑った。
「ナコ、ファイト」
莉歩の言葉にまた強く、「うん」と頷いた。
莉歩の後ろに続く細い一本道を見つめる。
何件か向こうの家の塀から飛び出した木の枝についた、赤く色づいた葉っぱが目に入る。ふと、去年若月くんと登った山のことを思い出した。そこで初めて私はリハビリの目標を明確に定めることができた。
「わか月くんと、山に登りたい」
定めた目標が自然と口に出ていた。それが聞こえたらしい莉歩がまた「がんば」と言った。
空を見上げる。電柱より少し高い位置を二羽の鳥が飛んでいった。
私は鳥になんてならなくて良い。地面をゆっくりと歩く蝸牛で良い。しっかりと自分の足で、誰の心配もかけずに歩けるようになるんだ。
強く決意しながら、羽ばたかせてぐんぐんと遠ざかっていく、青い空に映る鳥を見送った。鼻の奥にツンとくる涙の残り香を感じる。その匂いで涙は止まってるんだと気付いた。
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