第3章
30話:園田「その優しさが風に乗って飛んでいってしまわないように、窓を閉めた」
☆☆☆
ご飯は刻まれたものじゃなくて、普通になった。
それなのに、私はまだ全部食べられない。食欲がほとんど湧かない。
それをみんな心配してくれている。
だから、食べようと頑張るけど、食べられなくて残してしまう。
今日のお昼ご飯も残してしまった。申し訳ないと思いながら片付けた所で、女性の理学療法士さんがやってきて、リハビリに向かった。
リハビリ室に入る。理学療法士さんに案内されて、固めのマットが敷かれたリハビリ台に寝転がった。
その上で補助をして貰いながら、左足の曲げ伸ばしをゆっくりと繰り返す。
少し前まで拷問だと言って拒絶したリハビリを懸命に受ける。どうして拷問だと思っていたのか、今の私にはわからない。でも、あの時は本気でそう思っていた。
「前は全然リハビリしなくて、ごめんなさい」
リハビリをしなくてはいけなかったのに、毎日のように駄々を捏ねたことを心から後悔する。
「気にしないの。今はリハビリしてくれてるしね。あの時は不安だっただけなんだから」
理学療法士さんはとても優しくて明るい笑みを浮かべた。
太陽みたいな人っていうのは、本当はこの理学療法士さんみたいな人のことなんだろうなって思った。
足の曲げ伸ばしが終わる。次は廊下を理学療法士さんと一緒に歩く。一階の通路はカタカナのロみたいな形になっていて、手すりに捕まりながら何週も歩く。今はまだ補助がないとふらついてこけてしまう。
リハビリ室から廊下に出るまでは、理学療法士さんに体を支えてもらって、ゆっくり歩く。左足を持ち上げることを意識するけど、どうにも擦りながら歩いてしまう。
「よっ、今日も頑張ってんね」
リハビリ室から廊下に出たところで声をかけられた。莉歩だった。
「うん、ひとりで歩けるように、なりたいからね」
「あたしも一緒に歩いていい? いいですよね?」
莉歩は、私と理学療法士さんを交互に見た。
理学療法士さんが「もちろん」と言ったので、一緒に歩く。
ロの字みたいな形の廊下の真ん中には小さな花壇があって、綺麗な花が咲いていた。
若月くんには、この花はどんな風に見えるのかな。
いつも若月くんのことが頭の片隅にある。ふとした拍子に、癖毛の前髪に隠れたきらきらの三白眼の目を思い浮かべて、飄々とした口調を思い出す。
「花、すっごい綺麗だね」
隣を同じペースで歩く莉歩が花壇に目を向けていた。私は小さく頷いた。
ダメだなあ。色鮮やかな世界を見てると、若月くんを思い出して泣きたくなる。
花壇から目を逸らす。自分の足元を見て、こけないように気をつけることにした。
「ごめん。今は歩くことに集中しよっか」
莉歩は、私が足元に目を向けているのを見て気を使ってくれたらしい。胸が少し痛んだ。
違うの。手すりを掴んでなら花を見る余裕はあるの。でも、綺麗な花を見てると若月くんを思い出して辛いから。本当はそう言いたかった。でも、それを言ってしまうと若月くんのことを良く思っていない莉歩は苦い顔をする。その顔が見たくなかったから、何も言わなかった。
その後は、ほとんど会話もないまま二週ほど廊下を歩いた。それで今日のリハビリは終わる。
私達三人はその足でエレベーターに乗って四階へと向かった。
四階の談話室では、他の病室に入院しているおじいちゃんやおばあちゃんが会話をしていたり、リハビリの為のパズル、折り紙、貼り絵などをしていた。
「莉歩、わたしも、やるね」
「そっか、何やんの?」
「貼りえ、かな」
貼り絵をしているおばあちゃんの向かいに座った。テーブルの上には様々な色紙とはさみが置いてあって、紙を左手に持ってはさみで切る。
満足に左手の指を動かせない私は色紙を掴むのにも苦労する。色紙に糊をつけるのすら難しくて、手を汚してしまう。
「手伝おうか?」
見兼ねたのか莉歩が尋ねてくる。私は首を横に振った。
「自分でするから、リハビリなんだよ」
「そだね。うん、そうだ」
私の言葉に莉歩は納得したのか、隣に立ったまま見守ってくれた。
莉歩のこういうところが好き。何も言わずに手を出すんじゃなくて、ちゃんと確認をしてくれるところ。いつまでも優しく待ってくれるところ。
本当に莉歩は私の一番の最高の友達。ううん、親友だと思う。莉歩と出会えて、どれだけ救われたかわからない。いつかちゃんとお返しがしたいって心から思う。
私は四苦八苦しながら、色紙を小さく切って貼り絵を作っていく。私よりおばあちゃんの方が綺麗に作る。その理由を私は知ってる。おばあちゃんはリハビリをずっと頑張ってる。私はリハビリを最近になってやっとやりだしたところ。その差が出てるんだ。
途中、一体何を作ってるのかがわからなくなって、少しパニックになる。回復しているとは言っても、まだまだ完全じゃない。
莉歩が、私の肩に優しく手を置いて、「大丈夫」と優しく声をかけてくれた。
その言葉に落ち着きを取り戻して、作業を再開する。
気がつくと貼り絵を始めてから二時間近く経とうとしていた。その間、莉歩はときどき「綺麗な色」と褒めてくれながら、ずっと隣で見守ってくれた。
ふうっと一息つく。
「疲れた?」
莉歩が問いかけてくる。私はそれに頷いた。
「ちょっとだけね。部屋、もどろっか」
椅子を引いてゆっくりと立ち上がる。立ち上がるのにも一苦労だ。
私がこけないように、莉歩が手を少し前に出したのが目の端に見えた。
「立てたよ」
私は、一人でしっかりと立って莉歩に笑いかける。
「うん、ナコ、頑張ってるね」
莉歩の目がきらりと輝いた。涙を浮かべてるみたいだ。
「おおげさだなあ」
私は小さく笑って一歩を踏み出す。少しよろける。咄嗟に莉歩が私の腕を掴んだ。
「ありがと」
ごめんねって言われるのが嫌いな莉歩にお礼の言葉を口にする。
「当たり前でしょ」
莉歩がニコリと笑った。その笑みに胸が温かくなった。
莉歩が腕を掴んでくれたまま、看護師さんが忙しなく行き交うなかを歩いて病室に戻った。
病室のドアを開く。一つだけになった芳香剤の青林檎の優しい香りが廊下に溢れてくる。換気の為に開けていた窓から風が入って青いカーテンが大きくたなびいた。
「お母さん、きてたんだ」
枕元にリハビリに行く前には無かった紙袋が置いてあり、お母さんが来てくれてたのがわかった。
「うん、貼り絵してるときに来てたよ。ナコ集中してたから、あたしに『邪魔しちゃいけないから帰るわね』って言ったの聞こえてなかったでしょ」
「そっか、今日は、お手伝いの日だもんね」
お父さんがいないから、お母さんは平日は勤めている会社に行って仕事をしている。土日は親戚のやってるお仕事のお手伝いをして給料を貰って、私と妹を女手一つで育ててくれてる。
お母さん、ごめんね。
私は心の中でお母さんに謝った。
「ナコ?! どうしたの?」
莉歩が私の頬を手で拭ってくれた。涙が溢れてたみたいだ。
「ううん、なんでもないよ」
私はそう言うけど、溢れる涙は止まらなかった。
お母さん、ごめんね。私が病気になったせいで、もっと大変な思いさせて本当にごめんね。こんな娘でごめんね。
心の中で何度も謝罪する。紙袋の中から、大好きなお母さんが洗濯してくれた、柔らかくて家の匂いがするタオルを取り出して、ぎゅっと抱きしめた。
頬を拭ってくれたのは莉歩の優しさ。タオルの柔らかさと香りはお母さんの優しさ。数日前までここに絵本があって、若月くんの優しさがあった。だけど、今はもうない。
「これ、落ちたよ」
莉歩が地面に落ちた何かを拾って差し出してきた。それは可愛らしい花の便箋で、お母さんの字で「ひなへ」と書いてあった。
中の手紙を取り出して視線を紙に落とす。少しずつ漢字も思い出してきたけど、まだわからない漢字もある。だから、私がちゃんと読めるように、手紙は平仮名とカタカナだけで書いてあった。
『ひなへ。
さいきん、ひながリハビリをがんばってくれて、おかあさんすごくうれしいです。
リハビリはつらいだろうけど、がんばるひなをみたら、こえをかけてじゃましちゃいけないなっておもって、さいきんおはなししていませんね。
それが、すこーしさみしいのでてがみをかきました。
ひなは、わたしのとってもたいせつなむすめです。
たとえ、どんなこういしょうがのこっても、ひなはひな。それはかわりありません。
たいいんして、いえでいっしょにごはんをたべるひを、たのしみにしてるよ。
ひなはすごく、ごめんねってきもちがつよいこだから、たぶん、おかあさんや、りほちゃん、わかつきくんにも、ごめんなさいっておもってるとおもう。
りほちゃんとわかつきくんのきもちは、おかあさんにはわかりません。
でもね、これだけはいえます。
おかあさんは、ひながいきていてくれて、それだけでしあわせです。
これからもがんばってね。おうえんしてるからね。
おかあさんより』
さっきよりもたくさんの涙が目尻から零れた。
でもそれは、さっきまでのごめんなさいっていう辛い涙じゃなくて、温かくて優しい気持ちにさせてくれる涙。その涙をくれたのはお母さんだった。
「お母さん、だいすき。お母さんがお母さんで、わたしも幸せ」
私は思わず、心からの声を口に出していた。
泣いている私を、柔らかくて温かい何かが包み込んだ。
それは莉歩の体温。私を優しく抱きしめてくれていた。
「ナコ、あたしもナコが生きていてくれて幸せだから」
莉歩はそう言って泣いてくれた。
それが嬉しくて、また涙が溢れる。ごめんなさいってずっと思ってた私の気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
若月くんも、私が生きてて嬉しいって少しでも思ってくれたのかな。それに、いっぱい謝りたいな。そんなことを思った。
ちらりと、お母さんが書いてくれた手紙を見る。一つ閃いた。
「莉歩、お願いがあるんだ」
「お願い? いいよ。なに?」
「えっとね」
私は、思いついたことを莉歩に託すことにした。それを聞いた莉歩は少し苦い顔をしたけど、「わかった」と了承してくれた。
「ありがと」
「ナコの頼みだからね。本当は嫌だけど。ともかく買ってくるね、また戻ってくる」
「うん、お願い。ありがと」
莉歩が立ち上がって病室を後にする。
ドアが開いた瞬間、開かれた窓から風が入ってカーテンがはためく。隙間から太陽の光が射し込んで部屋が明るく、暖かくなった。
私はゆっくりと立ち上がり、壁伝いに歩いて窓を閉めた。
莉歩の優しさとお母さんの優しさでいっぱいの病室。その優しさが風に乗って飛んでいってしまわないように、窓を閉めたのだった。
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