29話:若月「小説のなかの彼らが羨ましい」
◆◆◆
病院を出た後、図書館に行き、期限の過ぎた本を返却する。
なんとなく、まだ帰る気にはなれなくて一通り見て周ることにする。
平日の昼間ということもあり、閑散としていた。
窓から外を見る。青々とした芝生と人工的に作られた小さな小川が流れている。雨が上がったばかりの濡れた芝の上を小さな子供が走っている。その子の母親らしき女性が、こけてしまわないだろうかと心配混じりの笑みを浮かべて走る子供を目で追っていた。
特に読みたい本があったわけではなかったが、本を探している風を装うように指先で綺麗に並べられた背表紙を軽く撫でていく。指が一冊の本の背表紙でぴたりと止まる。
それはいつだったか、園田さんが涙を流した恋愛小説だった。その本を棚から引き抜く。
恋愛小説なんて柄じゃないのはわかっている。それでも、今の僕には他のどのジャンルの本よりも恋愛小説が合っているような気がした。
このまま読み始めるか、家に持ち帰って読むか少し悩む。三百ページもない本を読むくらいの時間は十分にある。明日は土曜日で学校は休み。病院にも、もう行かなくて良いのだから。
それを僕は心のどこかで望んでいたんだと思う。だから、園田さんから別れを切り出された時、安堵した。病気の後遺症が残る園田さんに対して、こちらから別れを切り出すようなことにならなくて良かったと、肩の荷が下りた。
僕と園田さんは只のクラスメイトになった。それだけでどれほど気持ちが楽になるか。そう思っていた。だけど実際は、胸に残る曇天のような靄が更に濃くなった。本当にこれで良かったのか。別れなくても良かったんじゃないか。そんな思いが過ぎる。でも、好きかどうかわからなくなった状態で付き合い続けるのも良いとは思えない。
息苦しい。園田さんとの思い出が残る図書館にいると息が完全にできなくなりそうな気がして、この場所から逃げ出したくなった。僕は恋愛小説を借りて、図書館を後にした。
白いタイル調の地面は、さっき降った雨に濡れて灰色になっていた。底が削れてツルツルになった学校指定の革靴が滑らないように、普段から遅い歩くスピードを更に緩めて、蝸牛みたいにゆっくりと歩いて駐輪場へと向かう。アスファルトの路地に生える木は若々しい青葉をつけている。それはわかっているのに、どうしてか色褪せて見えた。
その世界はあまりに寂しくて、つまらないものに思えた。
僕は目に映る世界をできるだけ見ないように、自分が進む方向だけを見つめて、自転車のペダルを漕いで帰路へついた。
家に到着して、すぐに自分の部屋へ向かう。
鞄の中から借りてきた恋愛小説を取り出した後、鞄は学習机の上に荒々しく放り投げた。
一階から母親の声が聞こえる。適当に相槌をうって学生服のままベッドに寝転がった。
目に映るのは毎日見ている天井。視線を横にずらせば、学習机と洋服タンスがある。他にあるのは白い小さな本棚だけという殺風景な自室。
何の特徴もないこの部屋が、僕にとって一番落ち着ける場所だ。
瞼を閉じる。灰色の入道雲から顔を覗かせた太陽の光が、瞼越しにほんのりと赤みを帯びて見えた。それが眩しくて右腕で目を覆う。視界がほぼ真っ暗になる。暗い視界に、ぼんやりと赤いパジャマを脱いだ園田さんの姿が浮かんだ。
ハッと目を開ける。胸がナイフで刺されたように痛んだ。
あの後、園田さんはクラスメイトと話が弾んだだろうか。クラスメイト達が帰った後は、病室で一人になって辛くないだろうか。
そんなの答えはわかりきっている。辛いに決まっている。
病気というプレッシャー。後遺症が残ってしまったショック。いつ退院できるかわからない、出口の見えない入院生活。もし自分がその立場になったとしたら、僕には耐えられるだろうか。
考えれば考える程、無理としか思えない。園田さんが思い違いをしてしまっただけで、怒鳴り散らしてしまうような短気な僕にはきっと耐えられない。
額に乗せていた右腕を布団の上に下ろす。手の甲に固い何かがぶつかる。
確認すると、図書館で借りてきた恋愛小説だった。
おもむろにそれを手に取って、活字に目を走らせる。
ヒロインの女の子は良く笑って、とても活発そうな印象を受けた。だけど、余命いくばくもない末期の病を患っていた。対して主人公の男の子は暗く、どこか物事を本気で深く考えていないような性格だった。正直、序盤から中盤の印象はよくなかった。
だけど後半、ヒロインの女の子が入院した辺りで視界が涙で滲んだ。男の子がどれだけ女の子のことを想っているのかが、痛い程伝わってきたからだ。
治らない病気。絶対に訪れる永遠の別れ。それを知りながらも、男の子は女の子を想い続けた。それでも奇跡は起きなくて女の子は安らかに眠ってしまった。短い人生。それでも小説の中の女の子は、男の子と出会えたことで幸せだったのだろうと感じた。
読み終わる頃には、涙が止められなくなっていた。
感動したわけじゃない。この物語の男の子に比べて僕は、なんて小さい男なんだと情けなくて涙が流れた。
園田さんはヒロインの女の子みたいに死んでしまうわけじゃない。手術は成功したし、今も回復していっている。物語の男の子は、園田さんみたいに回復していくヒロインの姿を望んでいた筈だ。その願いは叶わなくて、近づいてくる永遠の別れ。それでも彼達は死すら受け入れて想い合っていた。それが羨ましかった。
僕は、望めば未来を作っていけた筈の園田さんとの関係を終わらせてしまった。別れを告げたのは園田さんだけど、別れを告げさせてしまったのは僕だ。
三百ページもない本なのに、涙で視界が滲んで読み終わるのに時間を要した。そのせいもあって、窓の外はすっかり暗くなっていた。
園田さんは、どうしてるだろうか。
暗い病室で一人、何を思っているのだろうか。
僕は、園田さんのことを思いながら窓の外を眺める。
白い月が、藍よりもずっと深い色の夜空に浮かんでいた。
「綺麗だ」
気持ちは沈んでいるはずなのに、目に映る月はとても綺麗で、薄暗がりの病室で見た園田さんの白い肌を思い出させた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます